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江の島の歴史
江の島歴史年表
江の島散策マップ
江の島の文化財
江の島を訪れた人々
資料種類しりょうしゅるい(大分類だいぶんるい):
資料種類しりょうしゅるい(中分類ちゅうぶんるい):
資料種類しりょうしゅるい(小分類しょうぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(大分類だいぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(中分類ちゅうぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(小分類しょうぶんるい):
作者さくしゃ(50音分類おんぶんるい):
作者さくしゃ:
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江(え)の島(しま)と砂洲(さす)の通(とお)り道(みち)である洲(す)鼻(ばな)が描(えが)かれ、手前(てまえ)に配(はい)された駕籠(かご)や編(あ)み笠(かさ)が旅情(りょじょう)を感(かん)じさせる一(いち)品(ひん)です。 本作(ほんさく)を描(えが)いた柴田是真(しばたぜしん)(1807-91)は、初(はじ)め浮世絵師(うきよえし)の勝川春亭(かつかわしゅんてい)に指示(しじ)しており、その後(ご)古満(こま)寛哉(かんさい)に蒔絵(まきえ)を、鈴木(すずき)南(なん)嶺(れい)に円山派(まるやまは)の絵画(かいが)を学(まな)び、ついで京都(きょうと)で画家(がか)である岡本豊彦(おかもととよひこ)の門(もん)に入(はい)りました。
題名(だいめい)不詳(ふしょう)(江(え)の島(しま))
板元(はんもと):鶴屋金助(つるやきんすけ) 七里ガ浜(しちりがはま)を歩(ある)く人々(ひとびと)を描(えが)いています。江(え)の島(しま)の道中(どうちゅう)を描(えが)いた作品(さくひん)において、旅人(たびびと)は女性(じょせい)で、男性(だんせい)は荷担(にかつ)ぎや駕籠(かご)かきとして描(えが)かれることが多(おお)く、本作(もとさく)もその形式(けいしき)となっています。これについては、浮世絵(うきよえ)ならではの美化(びか)が働(はたら)いているものとも考(かんが)えられますが、実際(じっさい)に江(え)の島(しま)が女性(じょせい)に人気(にんき)の観光名所(かんこうめいしょ)であったことも示(しめ)しているのでしょう。 遠景(えんけい)の江(え)の島(しま)には幟(のぼり)が見(み)え、弁才天(べんざいてん)の開帳(かいちょう)を示(しめ)しています。文政(ぶんせい)10年(ねん)(1827)には春(はる)より夏(なつ)にかけて上之宮(うえのみや)弁才天(べんざいてん)で開帳(かいちょう)があり、「江戸(えど)より参詣(さんけい)多(おお)し」という記録(きろく)があることから、制作(せいさく)年代(ねんだい)もこの頃(ころ)であると思(おも)われます。
題名(だいめい)不詳(ふしょう)(江(え)の島道(しまどう)中(ちゅう))
板元(はんもと):佐野(さの)喜(き) 江(え)の島(しま)や右手(みぎて)に見(み)える岩肌(いわはだ)に、奇妙(きみょう)な立体(りったい)表現(ひょうげん)がなされている点(てん)が特徴(とくちょう)的(てき)な作品(さくひん)です。前景(ぜんけい)の波(なみ)の大(おお)きさには極端(きょくたん)な誇張(こちょう)が見(み)られ、これらには西洋絵画(せいようかいが)からの影響(えいきょう)が指摘(してき)されています。 作者(さくしゃ)の二代(にだい)勝川春好(かつかわしゅんこう)は当初(とうしょ)「春扇(しゅんおう)」を名乗(なの)った絵師(えし)でしたが、このような立体(りったい)感(かん)のある風景(ふうけい)作品(さくひん)は春好(しゅんこう)への改名(かいめい)時(じ)に多(おお)く見(み)られます。
江(え)のしま
制作(せいさく)時期(じき):文政(ぶんせい)初期(しょき)。 板元(はんもと):川口(かわぐち) 波(なみ)の部分(ぶぶん)に空摺(からず)りを用(もち)いたり、浮世絵(うきよえ)の様々(さまざま)な技法(ぎほう)を取(と)り入(い)れた水準(すいじゅん)の高(たか)い作品(さくひん)です。旅(たび)の女性(じょせい)から銭(ぜに)をねだろうとする地元(じもと)の子(こ)どもの表情(ひょうじょう)しぐさが生(い)き生(い)きと描(えが)かれ、女性(じょせい)の鞋(わらじ)を直(なお)している従者(じゅうしゃ)など、風俗(ふうぞく)的(てき)な面(めん)からも興味深(きょうみぶか)い作品(さくひん)です。 富士(ふじ)が江(え)の島(しま)の左手(ひだりて)に描(えが)かれているのも特徴(とくちょう)です。また彼(かれ)は現在(げんざい)確認(かくにん)されているだけで15点(てん)もの江(え)の島(しま)関係(かんけい)の浮世絵(うきよえ)を描(えが)いているので、他(た)の絵師(えし)と比較(ひかく)して江(え)の島(しま)神社(じんじゃ)と何(なん)らかの関係(かんけい)があったのではないかと思(おも)われます。
制作(せいさく)時期(じき):文政(ぶんせい)年間(ねんかん)(1818~30) 道中(どうちゅう)を楽(たの)しむ女性(じょせい)と従者(じゅうしゃ)の一行(いっこう)を江(え)の島(しま)をバックにして遠近(えんきん)感(かん)を出(だ)しています。板元(はんもと)印(しるし)はないのですが、川口(かわぐち)版(ばん)の作品(さくひん)と同一(どういつ)形式(けいしき)なのでそれと考(かんが)えられます。
江(え)の島(しま)を背景(はいけい)に、女性(じょせい)二人(ふたり)が荷(に)担(かつ)ぎと共(とも)に浜辺(はまべ)を鎌倉(かまくら)方面(ほうめん)へ向(む)かって歩(ある)く様子(ようす)が描(えが)かれています。これは上部(じょうぶ)に狂歌(きょうか)の書(か)かれた摺物(すりもの)(私家(しか)版(ばん)として作(つく)られた配(くば)り物(もの))の作品(さくひん)であり、波(なみ)際(ぎわ)など摺(す)りや色合(いろあ)いが繊細(せんさい)な表現(ひょうげん)となっているところが特徴(とくちょう)です。 作者(さくしゃ)の秀麿(ひでまろ)は初代(しょだい)歌麿(うたまろ)の弟子(でし)で、美人画(びじんが)を多(おお)く残(のこ)しました。
題名(だいめい)不詳(ふしょう)(江(え)の島道(しまどう)中(ちゅう)風景(ふうけい))
泉(いずみ)忠衡(ただひら)とは、源義経(みなもとのよしつね)が拠(よ)り所(どころ)とした奥州(おうしゅう)藤原氏(ふじわらし)第(だい)3代(だい)秀衡(ひでひら)の三男(さんなん)で、第(だい)4代(だい)泰衡(やすひら)の異母兄弟(いぼきょうだい)の弟(おとうと)。父(ちち)の遺言(ゆいごん)によって義経(よしつね)を守(まも)ろうとして、義経(よしつね)を自害(じがい)に追(お)い込(こ)んだ泰衡(やすひら)に殺(ころ)されました。 平泉(ひらいずみ)の泉屋(いずみや)に館(やかた)を構(かま)えていたので、泉三郎(せんざぶろう)と呼(よ)ばれます。
本朝(ほんちょう)名将(めいしょう)鏡(かがみ) 泉三郎(いずみさぶろう)忠衡(ただひら)
安政(あんせい)5年(ねん)(1858)に開港(かいこう)した横浜(よこはま)の様子(ようす)を描(えが)いた絵図(えず)です。港(みなと)には欧米(おうべい)各国(かっこく)の帆船(はんせん)が描(えが)かれ、中央(ちゅうおう)下部(かぶ)の「御台(おだい)場(ば)」(砲台(ほうだい))の向(む)かいの「ハトバ(wharf)」は、現在(げんざい)の通称(つうしょう)「象(ぞう)の鼻(はな)」です。 芳(よし)員(いん)は幕末期(ばくまつき)に流行(はや)った「横浜絵(よこはまえ)」(開港(かいこう)地(ち)横浜(よこはま)の景観(けいかん)や風俗(ふうぞく)を描(えが)いた錦絵(にしきえ))の代表(だいひょう)的(てき)な絵師(えし)の一人(ひとり)で、こうした鳥瞰(ちょうかん)的(てき)な作品(さくひん)も描(えが)いています。
横浜(よこはま)明細(めいさい)全(ぜん)図(ず)