Fujisawa Net Museum

資料一覧

石橋山合戦(いしばしやまがっせん)は、平安時代末期(へいあんじだいまっき)治承(じしょう)4(ねん)(1180(ねん))に源頼朝(みなもとのよりとも)大庭景親(おおばかげちか)平氏方(へいしかた)との(あいだ)(おこな)われた(たたか)いです。伊豆(いず)挙兵(きょへい)して湯河原(ゆがわら)(あた)りまで進出(しんしゅつ)した頼朝(よりとも)を、大庭景親(おおばかげちか)がいずれも藤沢周辺地域(ふじさわしゅうへんちいき)領地(りょうち)としていた俣野景久(またのかげひさ)渋谷重国(しぶやしげくに)海老名 季員(えびな すえかず)ら3000余騎(よき)(ひき)いて迎撃(げいげき)()かった様子(ようす)(えが)かれています。『平家物語(へいけものがたり)』によると合戦(かっせん)先立(さきだ)って、北条時政(ほうじょうときまさ)大庭景親(おおばかげちか)対峙(たいじ)し、景親(かげちか)(みずか)らが後三年(ごさんねん)(えき)奮戦(ふんせん)した鎌倉景政(かまくらかげまさ)子孫(しそん)であると名乗(なの)り、これに時政(ときまさ)がかつて源義家(みなもとのよりいえ)(したが)った景正(かげまさ)子孫(しそん)ならば、なぜ頼朝公(よりともこう)(ゆみ)()く((いくさ)をしかける、反乱(はんらん)()こす)と言い返(いいかえ)し、これに(たい)して景親(かげちか)は「(むかし)(しゅ)でも(いま)(てき)である。平家(へいけ)御恩(ごおん)(やま)よりも(たか)く、(うみ)よりも(ふか)い」と(おう)じたといいます。

石橋(いしばし)(やま)合戦(かっせん)

橋李囿(はしりえん) 序文(じょぶん)

()(しま)風光(ふうこう)()んだ【詩文(しぶん)】【田舎版(いなかばん)】。
現在(げんざい)藤沢市北部(ふじさわしほくぶ)御所見地区周辺(ごしょみちくしゅうへん)人々(ひとびと)()んだ漢詩(かんし)和歌(わか)詩文集(しぶんしゅう)八景(はっけい)は、金亀山秋月(きんきざんのしゅうげつ)岩屋之晴嵐(いわやのせいらん)小兒淵夜雨(しょうにえんのやう)鵜嶋之落雁(うじまのらくがん)東浦之帰帆(ひがしうらのきはん)西浦之夕照(にしうらのゆうしょう)両山之暮雪(ふたつやまのぼせつ)江嶋寺晩鐘(こうとうじのばんしょう)詠者(えいしゃ)居所(いどころ)は、(げん)藤沢市(ふじさわし)遠藤(えんどう)打戻(うちもどり)宮原(みやはら)用田(ようだ)(くわ)え、(げん) 寒川町(さむかわまち)小谷(こやと)小動(こゆるぎ)(げん) 綾瀬市(あやせし)吉岡(よしおか)となっています。詠者(えいしゃ)(なか)で、用田(ようだ)烏東(うとう)明和(めいわ)4(ねん)(1766(ねん))3(がつ)大磯鴫立庵(おおいそしぎたつあん)再興(さいこう)記念集(きねんしゅう)として()まれた『湘海四時(しょうかいしじ)』に入句(にゅう)()しています 。
この(しょ)(はん)()りにムラが(おお)いのが()()きます。当時(とうじ)出版(しゅっぱん)江戸(えど)大坂(おおさか)京都(きょうと)中心(ちゅうしん)で、それ以外(いがい)地方(ちほう)()られたものは「田舎版(いなかばん)」と()ばれていますが、この(しょ)はおそらく地元(じもと)藤沢地域(ふじさわちいき)()られたもので、内容(ないよう)とあわせ、非常(ひじょう)貴重(きちょう)なものと()えましょう。

()()(しま)八景(はっけい)詩歌(しいか)



Page Top