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江の島の歴史
江の島歴史年表
江の島散策マップ
江の島の文化財
江の島を訪れた人々
資料種類しりょうしゅるい(大分類だいぶんるい):
資料種類しりょうしゅるい(中分類ちゅうぶんるい):
資料種類しりょうしゅるい(小分類しょうぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(大分類だいぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(中分類ちゅうぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(小分類しょうぶんるい):
作者さくしゃ(50音分類おんぶんるい):
作者さくしゃ:
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製作時期(せいさくじき):万延元年(まんえん)(1860)。板元(はんもと):當世屋(とうせいや)(品川屋久助(しながわやきゅうすけ)) 別行動(べつこうどう)をして合流(ごうりゅう)した二人(ふたり)ですが、弥次(やじ)さんは喜多(きた)さんのことを「狐(きつね)が化(ば)けた喜多(きた)さん」だと信(しん)じ込(こ)んで、捕(つか)まえようとしています。これも一九(いっく)の「東海道中膝栗毛(とうかいどうちゅうひざくりげ)」に登場(とうじょう)する場面(ばめん)です。 このシリーズは大(だい)ヒットした十返舎一九(じっぺんしゃいっく)の『東海道中膝栗毛(とうかいどうちゅうひざくりげ)』を摸(も)して作(つく)られています。各宿(かくやど)には弥次(やじ)さん、北(きた)さんが登場(とうじょう)し、芳幾(よしいく)が二人(ふたり)のくりひろげる道中(どうちゅう)模様(もよう)をユーモラスに描(えが)き、魯文(ろぶん)が各宿(かくやど)のテーマとなる文章(ぶんしょう)、狂歌一句(きょうかいっく)と二人(ふたり)の会話(かいわ)をおもしろおかしく記(しる)しています。
東海道(とうかいどう)中(ちゅう)栗毛(くりげ)彌次馬(やじうま) 赤坂(あかさか)
製作時期(せいさくじき):万延元年(まんえん)(1860)。板元(はんもと):當世屋(とうせいや)(品川屋久助(しながわやきゅうすけ)) このシリーズは大(だい)ヒットした十返舎一九(じっぺんしゃいっく)の『東海道中膝栗毛(とうかいどうちゅうひざくりげ)』を摸(も)して作(つく)られています。各宿(かくやど)には弥次(やじ)さん、北(きた)さんが登場(とうじょう)し、芳幾(よしいく)が二人(ふたり)のくりひろげる道中(どうちゅう)模様(もよう)をユーモラスに描(えが)き、魯文(ろぶん)が各宿(かくやど)のテーマとなる文章(ぶんしょう)、狂歌一句(きょうかいっく)と二人(ふたり)の会話(かいわ)をおもしろおかしく記(しる)しています。
東海道(とうかいどう)中(ちゅう)栗毛(くりげ)彌次馬(やじうま) 藤川(ふじかわ)
製作時期(せいさくじき):万延元年(まんえん)(1860)。板元(はんもと):當世屋(とうせいや)(品川屋久助(しながわやきゅうすけ)) 画面奥(がめんおく)に見(み)える城(しろ)は、徳川家康(とくがわいえやす)の出生地(しゅっしょうち)として知(し)られる岡崎城(おかざきじょう)、そばに架(か)かる橋(はし)は矢作橋(やはぎばし)です。矢作橋(やはぎばし)は、東海道中(とうかいどうちゅう)で最長(さいちょう)の橋(はし)として、名所(めいしょ)となっていました。 画面手前(がめんてまえ)の人物(じんぶつ)は、重要無形民俗文化財(じゅうようむけいみんぞくぶんかざい)に指定(してい)されている三河万歳(みかわまんざい)の衣装(いしょう)を身(み)に着(つ)けています。 このシリーズは大(だい)ヒットした十返舎一九(じっぺんしゃいっく)の『東海道中膝栗毛(とうかいどうちゅうひざくりげ)』を摸(も)して作(つく)られています。各宿(かくやど)には弥次(やじ)さん、北(きた)さんが登場(とうじょう)し、芳幾(よしいく)が二人(ふたり)のくりひろげる道中(どうちゅう)模様(もよう)をユーモラスに描(えが)き、魯文(ろぶん)が各宿(かくやど)のテーマとなる文章(ぶんしょう)、狂歌一句(きょうかいっく)と二人(ふたり)の会話(かいわ)をおもしろおかしく記(しる)しています。
東海道(とうかいどう)中(ちゅう)栗毛(くりげ)彌次馬(やじうま) 岡崎(おかざき)
製作時期(せいさくじき):万延元年(まんえん)(1860)。板元(はんもと):當世屋(とうせいや)(品川屋久助(しながわやきゅうすけ)) 雨(あめ)が“しょぼしょぼ”と降(ふ)る日(ひ)でした、向(む)こうから妖怪(ようかい)・豆腐小僧(とうふこぞう)の姿(すがた)が見(み)えて、ビックリした二人(ふたり)は、腰(こし)を抜(ぬ)かしながら逃(に)げていきます。豆腐小僧(とうふこぞう)は、池鯉鮒(ちりゅう)にゆかりのある妖怪(ようかい)というわけではなく、江戸(えど)の人々(ひとびと)によく知(し)られた妖怪(ようかい)でした。 このシリーズは大(だい)ヒットした十返舎一九(じっぺんしゃいっく)の『東海道中膝栗毛(とうかいどうちゅうひざくりげ)』を摸(も)して作(つく)られています。各宿(かくやど)には弥次(やじ)さん、北(きた)さんが登場(とうじょう)し、芳幾(よしいく)が二人(ふたり)のくりひろげる道中(どうちゅう)模様(もよう)をユーモラスに描(えが)き、魯文(ろぶん)が各宿(かくやど)のテーマとなる文章(ぶんしょう)、狂歌一句(きょうかいっく)と二人(ふたり)の会話(かいわ)をおもしろおかしく記(しる)しています。
東海道(とうかいどう)中(ちゅう)栗毛(くりげ)彌次馬(やじうま) 池鯉鮒(ちりゅう)
東海道(とうかいどう)中(ちゅう)栗毛(くりげ)彌次馬(やじうま) 鳴海(なるみ)
製作時期(せいさくじき):万延元年(まんえん)(1860)。 板元(はんもと):當世屋(とうせいや)(品川屋久助(しながわやきゅうすけ)) 宮宿(みやしゅく)から桑名宿(くわなしゅく)までは、東海道中(とうかいどうちゅう)で唯一(ゆいいつ)の海路(かいろ)を通(とお)ります。その距離(きょり)から「海上七里(かいじょうしちり)の渡(わた)し」とも呼(よ)ばれました。七里(しちり)は約(やく)28㎞にあたり、当時(とうじ)の船(ふね)で約四時間(やくよじかん)の航路(こうろ)でした。 このシリーズは大(だい)ヒットした十返舎一九(じっぺんしゃいっく)の『東海道中膝栗毛(とうかいどうちゅうひざくりげ)』を摸(も)して作(つく)られています。各宿(かくやど)には弥次(やじ)さん、北(きた)さんが登場(とうじょう)し、芳幾(よしいく)が二人(ふたり)のくりひろげる道中(どうちゅう)模様(もよう)をユーモラスに描(えが)き、魯文(ろぶん)が各宿(かくやど)のテーマとなる文章(ぶんしょう)、狂歌一句(きょうかいっく)と二人(ふたり)の会話(かいわ)をおもしろおかしく記(しる)しています。
東海道(とうかいどう)中(ちゅう)栗毛(くりげ)彌次馬(やじうま) 宮(みや) わたし
製作時期(せいさくじき):万延元年(まんえん)(1860)。板元(はんもと):當世屋(とうせいや)(品川屋久助(しながわやきゅうすけ)) 桑名(くわな)といえばハマグリが有名(ゆうめい)です。「その手(て)は桑名(くわな)の焼蛤(やきはまぐり)」(その手(て)は食(く)わないの意(い))の洒落(しゃれ)言葉(ことば)も良(よ)く知(し)られています。ところが、食(く)い意地(いじ)のはった喜多(きた)さんが、店先(みせさき)で大(おお)きなハマグリを選(えら)ぶと、その手(て)ごとハマグリに挟(はさ)まれてしまいます。つまり、「手(て)を食(く)われた」喜多(きた)さんでした。 このシリーズは大(だい)ヒットした十返舎一九(じっぺんしゃいっく)の『東海道中膝栗毛(とうかいどうちゅうひざくりげ)』を摸(も)して作(つく)られています。各宿(かくやど)には弥次(やじ)さん、北(きた)さんが登場(とうじょう)し、芳幾(よしいく)が二人(ふたり)のくりひろげる道中(どうちゅう)模様(もよう)をユーモラスに描(えが)き、魯文(ろぶん)が各宿(かくやど)のテーマとなる文章(ぶんしょう)、狂歌一句(きょうかいっく)と二人(ふたり)の会話(かいわ)をおもしろおかしく記(しる)しています。
東海道(とうかいどう)中(ちゅう)栗毛(くりげ)彌次馬(やじうま) 桑名(くわな)
製作時期(せいさくじき):万延元年(まんえん)(1860)。 板元(はんもと):當世屋(とうせいや)(品川屋久助(しながわやきゅうすけ)) このシリーズは大(だい)ヒットした十返舎一九(じっぺんしゃいっく)の『東海道中膝栗毛(とうかいどうちゅうひざくりげ)』を摸(も)して作(つく)られています。各宿(かくやど)には弥次(やじ)さん、北(きた)さんが登場(とうじょう)し、芳幾(よしいく)が二人(ふたり)のくりひろげる道中(どうちゅう)模様(もよう)をユーモラスに描(えが)き、魯文(ろぶん)が各宿(かくやど)のテーマとなる文章(ぶんしょう)、狂歌一句(きょうかいっく)と二人(ふたり)の会話(かいわ)をおもしろおかしく記(しる)しています。
東海道(とうかいどう)中(ちゅう)栗毛(くりげ)彌次馬(やじうま) 四日市(よっかいち)