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江の島の歴史
江の島歴史年表
江の島散策マップ
江の島の文化財
江の島を訪れた人々
資料種類しりょうしゅるい(大分類だいぶんるい):
資料種類しりょうしゅるい(中分類ちゅうぶんるい):
資料種類しりょうしゅるい(小分類しょうぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(大分類だいぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(中分類ちゅうぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(小分類しょうぶんるい):
作者さくしゃ(50音分類おんぶんるい):
作者さくしゃ:
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製作時期(せいさくじき):明治(めいじ)8年(ねん)。 板元(はんもと):山清(やませい)(山崎屋清七(やまざきやせいしち)) 酒匂川(さかわがわ)に架(か)けられた木橋(きばし)の上(うえ)を、旅人(たびびと)や人力車(じんりきしゃ)が通行(つうこう)しています。画面奥(がめんおく)には箱根連山(はこねれんざん)が連(つら)なっています。 江戸時代(えどじだい)から徒歩渡(かちわた)しが行(おこな)われていた酒匂川(さかわがわ)の渡(わた)しですが、冬(ふゆ)の渇水期(かっすいき)などには仮橋(かりはし)が架(か)けられました。 三代広重(さんだいひろしげ)描(えが)くこのシリーズは、明治前期(めいじぜんき)の東海道各宿駅(とうかいどうかくしゅくえき)の風景(ふうけい)が華(はな)やかな色彩(しきさい)(幕末(ばくまつ)から明治初期(めいじしょき)に海外(かいがい)からあざやかな科学顔料(かがくがんりょう)が入(はい)り使用(しよう)される)で描(えが)かれています。
東海(とうかい)名所(めいしょ) 改正(かいせい)道中(どうちゅう)記(き) 十一(じゅういち) 小田原(おだわら) 酒匂川(さかわがわ)の仮(かり)ばし
製作時期(せいさくじき):明治(めいじ)8年(ねん)。 板元(はんもと):山清(やませい)(山崎屋清七(やまざきやせいしち)) 景勝地(けいしょうち)として知(し)られた鴫立沢(しぎたつさわ)の場面(ばめん)を描(えが)いています。松(まつ)の木(き)が立(た)ち並(なら)ぶ街道(かいどう)をゆく人々(ひとびと)と、その後景(こうけい)に相模湾(さがみわん)が広(ひろ)がっています。 松(まつ)の木(き)のふもとでは、巡礼者(じゅんれいしゃ)の一行(いっこう)が休憩(きゅうけい)をしているようです。現在(げんざい)も、大磯(おおいそ)を通(とお)る東海道沿(とうかいどうぞ)いには松並木(まつなみき)が多(おお)く残(のこ)されています。 三代広重(さんだいひろしげ)描(えが)くこのシリーズは、明治前期(めいじぜんき)の東海道各宿駅(とうかいどうかくしゅくえき)の風景(ふうけい)が華(はな)やかな色彩(しきさい)(幕末(ばくまつ)から明治初期(めいじしょき)に海外(かいがい)からあざやかな科学顔料(かがくがんりょう)が入(はい)り使用(しよう)される)で描(えが)かれています。
東海(とうかい)名所(めいしょ) 改正(かいせい)道中(どうちゅう)記(き) 十(じゅう) 大磯(おおいそ)
製作時期(せいさくじき):明治(めいじ)8年(ねん)。 板元(はんもと):山清(やませい)(山崎屋清七(やまざきやせいしち)) 馬入川(ばにゅうがわ)の渡(わた)しの景色(けしき)を描(えが)いています。馬入川(ばにゅうがわ)は相模川(さがみがわ)の下流域(かりゅういき)の名称(めいしょう)です。明治(めいじ)11年(ねん)(1878)に馬入川(ばにゅうがわ)に最初(さいしょ)の木桁橋(もくげたきょう)が架(か)けられるまで、江戸時代(えどじだい)と変(か)わりなく渡(わた)し舟(ぶね)を利用(りよう)していました。 馬入(ばにゅう)の渡(わた)しは、富士山(ふじさん)と大山(おおやま)を望(のぞ)める名所(めいしょ)として、初代広重(しょだいひろしげ)の頃(ころ)からも浮世絵(うきよえ)に描(えが)かれました。 茅葺(かやぶ)き屋根(やね)の家屋(かおく)や、渡(わた)し舟(ぶね)に乗(の)る着物姿(きものすがた)の人々(ひとびと)など、一見(いっけん)、江戸時代(えどじだい)の景色(けしき)と変(か)わらぬように見(み)えますが、渡(わた)し舟(ぶね)に乗(の)せられた人力車(じんりきしゃ)や、この舟(ふね)に乗(の)り遅(おく)れたのか、岸(きし)に立(た)ちつくしている男性(だんせい)が手(て)に持(も)っている洋傘(ようがさ)などから、文明開化(ぶんめいかいか)の影響(えいきょう)が感(かん)じられます。 三代広重(さんだいひろしげ)描(えが)くこのシリーズは、明治前期(めいじぜんき)の東海道各宿駅(とうかいどうかくしゅくえき)の風景(ふうけい)が華(はな)やかな色彩(しきさい)(幕末(ばくまつ)から明治初期(めいじしょき)に海外(かいがい)からあざやかな科学顔料(かがくがんりょう)が入(はい)り使用(しよう)される)で描(えが)かれています。
東海(とうかい)名所(めいしょ) 改正(かいせい)道中(どうちゅう)記(き) 九(きゅう) 大磯(おおいそ)迄(まで)廿(にじゅう)七(なな)丁(ちょう) 平塚(ひらつか) 馬入川(ばにゅうがわ)の渡(わた)し
製作時期(せいさくじき):明治(めいじ)8年(ねん)。 板元(はんもと):山清(やませい)(山崎屋清七(やまざきやせいしち)) 画面手前(がめんてまえ)の江(え)の島(しま)一(いち)の鳥居(とりい)を通(とお)り江(え)の島(しま)詣(もうで)へ向(む)かう人々(ひとびと)、画面中央(がめんちゅうおう)には遊行寺橋(ゆぎょうじばし)、画面右奥(がめんみぎおく)には遊行寺(ゆぎょうじ)が見(み)えます。初代広重(しょだいひろしげ)も描(えが)いた藤沢宿(ふじさわしゅく)のおなじみの景色(けしき)ですが、太鼓橋(たいこばし)だった遊行寺橋(ゆぎょうじばし)は、明治(めいじ)になると人力車(じんりきしゃ)や馬車(ばしゃ)の通行(つうこう)に対応(たいおう)するために、西洋式(せいようしき)の平(たい)らな橋(はし)に架(か)け替(か)えられました。 画中(がちゅう)にも、橋(はし)の上(うえ)を通(とお)る人力車(じんりきしゃ)や馬(うま)が見(み)えます。画面右(がめんみぎ)の橋(はし)のたもとにある茶屋(ちゃや)らしき建物(たてもの)には窓(まど)がつけられており、ところどころに文明開化(ぶんめいかいか)の影響(えいきょう)がみられます。 馬(うま)に乗(の)っている人物(じんぶつ)は外国人(がいこくじん)の男性(だんせい)と思(おも)われます。 当時(とうじ)、横浜(よこはま)の居留地(きょりゅうち)に滞在(たいざい)する外国人(がいこくじん)の外出(がいしゅつ)は十里(じゅうり)四方(しほう)(約(やく)40km)以内(いない)との制限(せいげん)がありました。藤沢宿(ふじさわしゅく)はその範囲(はんい)内(ない)にあたるので、実際(じっさい)にもこのように外国人(がいこくじん)が通行(つうこう)する場面(ばめん)があったのかもしれません。 三代広重(さんだいひろしげ)描(えが)くこのシリーズは、明治前期(めいじぜんき)の東海道各宿駅(とうかいどうかくしゅくえき)の風景(ふうけい)が華(はな)やかな色彩(しきさい)(幕末(ばくまつ)から明治初期(めいじしょき)に海外(かいがい)からあざやかな科学顔料(かがくがんりょう)が入(はい)り使用(しよう)される)で描(えが)かれています。
東海(とうかい)名所(めいしょ) 改正(かいせい)道中(どうちゅう)記(き) 八(はち) 平塚(ひらつか)迄(まで)三(さん)り半(はん) 藤澤(ふじさわ) 江(え)のしまみちの鳥居(とりい)
製作時期(せいさくじき):明治(めいじ)8年(ねん)。 板元(はんもと):山清(やませい)(山崎屋清七(やまざきやせいしち)) 戸塚(とつか)の大坂(おおさか)から見(み)える景色(けしき)を描(えが)いています。大坂(おおさか)は江戸時代(えどじだい)から東海道(とうかいどう)の難所(なんしょ)として知(し)られる急(きゅう)な坂(さか)が続(つづ)いている場所(ばしょ)です。洋服(ようふく)を着(き)て馬(うま)に乗(の)る男性(だんせい)の姿(すがた)や、後景(こうけい)にみえる電信柱(でんしんばしら)から明治(めいじ)の景色(けしき)であることがわかります。 三代広重(さんだいひろしげ)描(えが)くこのシリーズは、明治前期(めいじぜんき)の東海道各宿駅(とうかいどうかくしゅくえき)の風景(ふうけい)が華(はな)やかな色彩(しきさい)(幕末(ばくまつ)から明治初期(めいじしょき)に海外(かいがい)からあざやかな科学顔料(かがくがんりょう)が入(はい)り使用(しよう)される)で描(えが)かれています。
東海(とうかい)名所(めいしょ) 改正(かいせい)道中(どうちゅう)記(き) 七(なな) 戸塚(とつか)
製作時期(せいさくじき):明治(めいじ)8年(ねん)。 板元(はんもと):山清(やませい)(山崎屋清七(やまざきやせいしち)) 江戸時代(えどじだい)の浮世絵(うきよえ)に多(おお)く描(えが)かれた六郷川(ろくごうがわ)(多摩川(たまがわ)の下流域(かりゅういき))の渡(わた)しにも、明治(めいじ)になると鉄道(てつどう)の開業(かいぎょう)により橋(はし)が架(か)けられ、蒸気車(じょうきしゃ)が走(はし)りました。 三代広重(さんだいひろしげ)描(えが)くこのシリーズは、明治前期(めいじぜんき)の東海道各宿駅(とうかいどうかくしゅくえき)の風景(ふうけい)が華(はな)やかな色彩(しきさい)(幕末(ばくまつ)から明治初期(めいじしょき)に海外(かいがい)からあざやかな科学顔料(かがくがんりょう)が入(はい)り使用(しよう)される)で描(えが)かれています。
東海(とうかい)名所(めいしょ) 改正(かいせい)道中(どうちゅう)記(き) 四(よん) 川崎(かわさき)
製作時期(せいさくじき):明治(めいじ)8年(ねん)。板元(はんもと):山清(やませい)(山崎屋清七(やまざきやせいしち)) 明治(めいじ)5(1872)年(ねん)の鉄道開業(てつどうかいぎょう)により、品川宿(しながわしゅく)のはずれにあたる八ツ山(やつやま)(小高(こだか)い丘(おか)となっていた)の近(ちか)くに品川駅(しながわえき)が設(もう)けられました。本作(ほんさく)は、その八ツ山(やつやま)を切(き)り通(どお)して架設(かせつ)された跨線橋(こせんきょう)の「八ツ山橋(やつやまばし)」とその下(した)を走(はし)る蒸気機関車(じょうききかんしゃ)が描(えが)かれています。 三代広重(さんだいひろしげ)描(えが)くこのシリーズは、明治前期(めいじぜんき)の東海道各宿駅(とうかいどうかくしゅくえき)の風景(ふうけい)が華(はな)やかな色彩(しきさい)(幕末(ばくまつ)から明治初期(めいじしょき)に海外(かいがい)からあざやかな科学顔料(かがくがんりょう)が入(はい)り使用(しよう)される)で描(えが)かれています。
東海(とうかい)名所(めいしょ) 改正(かいせい)道中(どうちゅう)記(き) 三(さん) 品川(しながわ) やつ山(やま)の下(した)
製作時期(せいさくじき):明治(めいじ)8年(ねん)。 板元(はんもと):山清(やませい)(山崎屋清七(やまざきやせいしち)) 新橋(しんばし)は東海道五十三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ)の宿場(しゅくば)ではありませんが、鉄道開業(てつどうかいぎょう)により駅(えき)が設(もう)けられたことにちなんで、今作品(こんさくひん)で取(と)り上(あ)げられています。 明治(めいじ)5年(ねん)(1872)、日本(にほん)で初(はじ)めての鉄道(てつどう)が、横浜駅(よこはまえき)(現(げん)・桜木町駅(さくらぎちょうえき))‐新橋駅(しんばしえき)間(かん)で開通(かいつう)しました。開業時(かいぎょうじ)の新橋駅(しんばしえき)の駅舎(えきしゃ)は、レンガ造(づく)りの2階建(かいだ)ての駅舎(えきしゃ)が2棟(とう)並(なら)び(作品(さくひん)では1棟(とう)しか見(み)えませんが実物(じつぶつ)は2棟(とう)あります)、その間(あいだ)にホームに繋(つな)がる通路(つうろ)が設(もう)けられていました。 横浜駅(よこはまえき)と同(おな)じくアメリカ人(じん)技師(ぎし)のブリジェンスが設計(せっけい)に携(たずさ)わりました。この洋風建築(ようふうけんちく)の駅舎(えきしゃ)は、文明開化(ぶんめいかいか)を象徴(しょうちょう)する新(あら)たな名所(めいしょ)として、開化絵(かいかえ)(明治初期(めいじしょき)の情景(じょうけい)を描(えが)いた浮世絵(うきよえ)を開化絵(かいかえ)と呼(よ)びます。)の題材(だいざい)となりました。 三代広重(さんだいひろしげ)描(えが)くこのシリーズは、明治前期(めいじぜんき)の東海道各宿駅(とうかいどうかくしゅくえき)の風景(ふうけい)が華(はな)やかな色彩(しきさい)(幕末(ばくまつ)から明治初期(めいじしょき)に海外(かいがい)からあざやかな科学顔料(かがくがんりょう)が入(はい)り使用(しよう)される)で描(えが)かれています。
東海(とうかい)名所(めいしょ) 改正(かいせい)道中(どうちゅう)記(き) 二(に) 汐留(しおどめ)鉄道(てつどう)館(かん) 新橋(しんばし) 品川(しながわ)迄(まで)一(いち)り二(に)十(じゅう)丁(ちょう)