ふりがな
江の島の歴史
江の島歴史年表
江の島散策マップ
江の島の文化財
江の島を訪れた人々
資料種類しりょうしゅるい(大分類だいぶんるい):
資料種類しりょうしゅるい(中分類ちゅうぶんるい):
資料種類しりょうしゅるい(小分類しょうぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(大分類だいぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(中分類ちゅうぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(小分類しょうぶんるい):
作者さくしゃ(50音分類おんぶんるい):
作者さくしゃ:
フリーワード:
東海道(とうかいどう)の道中双六(どうちゅうすごろく)には、様々(さまざま)な要素(ようそ)が取(と)り込(こ)まれましたが、享和(きょうわ)2年(ねん)(1802年(ねん))に出版(しゅっぱん)された十返舎一九(じっぺんしゃいっく/rt>)の『東海道中膝栗毛(とうかいどうちゅうひざくりげ)』が大流行(だいりゅうこう)すると、その内容(ないよう)を盛(も)り込(こ)んだ双六(すごろく)が多(おお)く現(あらわ)れました。この双六(すごろく)もその一(ひと)つで、それぞれのマスに描(えが)かれている情景(じょうけい)が、『膝栗毛(ひざくりげ)』のワンシーンであったり、出発地(しゅっぱつち)が東海道(とうかいどう)の起点(きてん)の日本橋(にほんばし)ではなく、『膝栗毛(ひざくりげ)』の主人公(しゅじんこう)が住(す)む神田八丁堀(かんだはっちょうぼり)になっていたりと、随所(ずいしょ)に物語(ものがたり)と双六(すごろく)の内容(ないよう)を関連(かんれん)づけるような工夫(くふう)が見(み)られます。
五(ご)十三駅(じゅうさんつぎ)滑稽(こっけい)膝栗毛(ひざくりげ)道中図(どうちゅうず)会(え)(双六(すごろく))
橋李囿(はしりえん) 序文(じょぶん) 江(え)の島(しま)の風光(ふうこう)を詠(よ)んだ【詩文(しぶん)】【田舎版(いなかばん)】。 現在(げんざい)の藤沢市北部(ふじさわしほくぶ)、御所見地区周辺(ごしょみちくしゅうへん)の人々(ひとびと)が詠(よ)んだ漢詩(かんし)と和歌(わか)の詩文集(しぶんしゅう)。八景(はっけい)は、金亀山秋月(きんきざんのしゅうげつ)、岩屋之晴嵐(いわやのせいらん)、小兒淵夜雨(しょうにえんのやう)、鵜嶋之落雁(うじまのらくがん)、東浦之帰帆(ひがしうらのきはん)、西浦之夕照(にしうらのゆうしょう)、両山之暮雪(ふたつやまのぼせつ)、江嶋寺晩鐘(こうとうじのばんしょう)。詠者(えいしゃ)の居所(いどころ)は、現(げん)藤沢市(ふじさわし)の遠藤(えんどう)、打戻(うちもどり)、宮原(みやはら)、用田(ようだ)に加(くわ)え、現(げん) 寒川町(さむかわまち)の小谷(こやと)、小動(こゆるぎ)、現(げん) 綾瀬市(あやせし)の吉岡(よしおか)となっています。詠者(えいしゃ)の中(なか)で、用田(ようだ)の烏東(うとう)は明和(めいわ)4年(ねん)(1766年(ねん))3月(がつ)、大磯鴫立庵(おおいそしぎたつあん)再興(さいこう)の記念集(きねんしゅう)として編(あ)まれた『湘海四時(しょうかいしじ)』に入句(にゅう)句(く)しています 。 この書(しょ)は版(はん)の摺(す)りにムラが多(おお)いのが目(め)に付(つ)きます。当時(とうじ)の出版(しゅっぱん)は江戸(えど)・大坂(おおさか)・京都(きょうと)が中心(ちゅうしん)で、それ以外(いがい)の地方(ちほう)で摺(す)られたものは「田舎版(いなかばん)」と呼(よ)ばれていますが、この書(しょ)はおそらく地元(じもと)の藤沢地域(ふじさわちいき)で摺(す)られたもので、内容(ないよう)とあわせ、非常(ひじょう)に貴重(きちょう)なものと言(い)えましょう。
江(え)之(の)嶋(しま)八景(はっけい)詩歌(しいか)
制作(せいさく)時期(じき):天保(てんぽう)年間(ねんかん)(1830~1844)。 板元(はんもと):江(こう)辰(たつ) この作品(さくひん)には同(おな)じ題名(だいめい)で同(おな)じ板元(はんもと)からの、背景(はいけい)の波頭(なみがしら)が一(ひと)つから二(ふた)つに増(ふ)え人物(じんぶつ)の配置(はいち)がちがう、異(い)版(ばん)があります。 また貞虎(さだとら)の江(え)の島(しま)を画題(がだい)とする作品(さくひん)には、他(た)に「ゑびす大黒(だいこく)江(え)の島(しま)まいり」(大判(おおばん)縦(たて)1枚(まい))と江(え)の島(しま)詣(もうで)(角(かく)版(ばん)摺物(すりもの))があります。
鎌倉(かまくら)七里ヶ浜(しちりがはま)ヨリ江(え)の嶌(しま)遠見(とおみ)ノ図(ず)
明治期(めいじき)を代表(だいひょう)する美人画(びじんが)絵師(えし)である楊洲周延(ようしゅうちかのぶ)による本作(ほんさく)には、三人(さんにん)の女性(じょせい)と、七里ヶ浜(しちりがはま)から見(み)た江(え)の島(しま)の風景(ふうけい)が描(えが)かれています。手前(てまえ)の姉(あね)さん被(かぶ)りをした女性(じょせい)は、一見(いっけん)すると娘(むすめ)のようですが、二人(ふたり)の少女(しょうじょ)を手招(てまね)きしている様子(ようす)から母親(ははおや)を若(わか)い女性(じょせい)の風俗(ふうぞく)で描(えが)いたものと考(かんが)えられます。青色(あおいろ)を基調(きちょう)にした背景(はいけい)や着物(きもの)の淡(あわ)い色(いろ)により、近代(きんだい)の新(あたら)しい美人画(びじんが)を象徴(しょうちょう)する柔(やわ)らかな色彩(しきさい)の作品(さくひん)となっています。
名勝(めいしょう)美人(びじん)会(え)相州(そうしゅう)七里(しちり)ヶ濱(はま)
これは相模国(さがみのくに)の地図(ちず)です。輿地(よち)全(ぜん)図(ず)というのは、その地域(ちいき)の全体(ぜんたい)図(ず)というような意味(いみ)で、この「菊屋(きくや)版(ばん)」も含(ふく)め「輿地図(よちず)」という公(おおやけ)に出版(しゅっぱん)された地図(ちず)がいくつかあります。「相模(さがみ)」というのは、江戸時代(えどじだい)の国(くに)の名前(なまえ)で、国(くに)の下(した)には郡(ぐん)が制定(せいてい)され、郡(ぐん)の下(した)には、人々(ひとびと)の生活(せいかつ)単位(たんい)であった村(むら)があり、図(ず)中(ちゅう)に小判(こばん)形(がた)に記(しる)されています。 このほかに、河川(かせん)、名勝(めいしょう)旧跡(きゅうせき)などが細(こま)かに記(しる)されています。青緑(あおみどり)で塗(ぬ)られているは山間部(さんかんぶ)で、江(え)の島(しま)も島(とう)頂(ちょう)部分(ぶぶん)は標高(ひょうこう)が高(たか)いので、青緑(あおみどり) に塗(ぬ)られています。
相模国(さがみのくに)輿地(よち)全(ぜん)図(ず)
画面(がめん)右(みぎ)に見(み)えるのは三嶋大社(みしまたいしゃ)の鳥居(とりい)です。 赤(あか)枠(わく)の中(なか)にも「三嶋大明神(みしまだいみょうじん)」と書(か)かれています。 三島宿(みしましゅく)は、三嶋大社(みしまたいしゃ)の門前町(もんぜんまち)として栄(さか)えていました。
東海道五十三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ) 三島(みしま)
名物(めいぶつ)の鰹節(かつおぶし)を天(てん)日干(てんぴぼ)しにしている女性(じょせい)と、その足元(あしもと)にしがみつく子(こ)どもの姿(すがた)が描(えが)かれています。 江戸時代(えどじだい)から駿河湾(するがわん)では鰹(かつお)がよく獲(え)れ、鰹節(かつおぶし)も作(つく)られていました。 後景(こうけい)には愛鷹山(あしたかやま)と富士山(ふじさん)が見(み)えます。
東海道五十三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ) 沼津(ぬまづ)
「ふじ川(がわ)舟渡(ふなわたし)」とあるように、富士川(ふじかわ)の渡(わた)しの場面(ばめん)が描(えが)かれています。 遠景(えんけい)には山間(さんかん)から白(しろ)い富士山(ふじさん)がのぞいています。 富士川(ふじかわ)は舟(ふな)渡(わた)しの川(かわ)で、急流(きゅうりゅう)として知(し)られていました。
東海道五十三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ) 蒲原(かんばら)