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江の島の歴史
江の島歴史年表
江の島散策マップ
江の島の文化財
江の島を訪れた人々
資料種類しりょうしゅるい(大分類だいぶんるい):
資料種類しりょうしゅるい(中分類ちゅうぶんるい):
資料種類しりょうしゅるい(小分類しょうぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(大分類だいぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(中分類ちゅうぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(小分類しょうぶんるい):
作者さくしゃ(50音分類おんぶんるい):
作者さくしゃ:
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江(え)の島(しま)を背景(はいけい)に、女性(じょせい)二人(ふたり)が荷(に)担(かつ)ぎと共(とも)に浜辺(はまべ)を鎌倉(かまくら)方面(ほうめん)へ向(む)かって歩(ある)く様子(ようす)が描(えが)かれています。これは上部(じょうぶ)に狂歌(きょうか)の書(か)かれた摺物(すりもの)(私家(しか)版(ばん)として作(つく)られた配(くば)り物(もの))の作品(さくひん)であり、波(なみ)際(ぎわ)など摺(す)りや色合(いろあ)いが繊細(せんさい)な表現(ひょうげん)となっているところが特徴(とくちょう)です。 作者(さくしゃ)の秀麿(ひでまろ)は初代(しょだい)歌麿(うたまろ)の弟子(でし)で、美人画(びじんが)を多(おお)く残(のこ)しました。
題名(だいめい)不詳(ふしょう)(江(え)の島道(しまどう)中(ちゅう)風景(ふうけい))
泉(いずみ)忠衡(ただひら)とは、源義経(みなもとのよしつね)が拠(よ)り所(どころ)とした奥州(おうしゅう)藤原氏(ふじわらし)第(だい)3代(だい)秀衡(ひでひら)の三男(さんなん)で、第(だい)4代(だい)泰衡(やすひら)の異母兄弟(いぼきょうだい)の弟(おとうと)。父(ちち)の遺言(ゆいごん)によって義経(よしつね)を守(まも)ろうとして、義経(よしつね)を自害(じがい)に追(お)い込(こ)んだ泰衡(やすひら)に殺(ころ)されました。 平泉(ひらいずみ)の泉屋(いずみや)に館(やかた)を構(かま)えていたので、泉三郎(せんざぶろう)と呼(よ)ばれます。
本朝(ほんちょう)名将(めいしょう)鏡(かがみ) 泉三郎(いずみさぶろう)忠衡(ただひら)
安政(あんせい)5年(ねん)(1858)に開港(かいこう)した横浜(よこはま)の様子(ようす)を描(えが)いた絵図(えず)です。港(みなと)には欧米(おうべい)各国(かっこく)の帆船(はんせん)が描(えが)かれ、中央(ちゅうおう)下部(かぶ)の「御台(おだい)場(ば)」(砲台(ほうだい))の向(む)かいの「ハトバ(wharf)」は、現在(げんざい)の通称(つうしょう)「象(ぞう)の鼻(はな)」です。 芳(よし)員(いん)は幕末期(ばくまつき)に流行(はや)った「横浜絵(よこはまえ)」(開港(かいこう)地(ち)横浜(よこはま)の景観(けいかん)や風俗(ふうぞく)を描(えが)いた錦絵(にしきえ))の代表(だいひょう)的(てき)な絵師(えし)の一人(ひとり)で、こうした鳥瞰(ちょうかん)的(てき)な作品(さくひん)も描(えが)いています。
横浜(よこはま)明細(めいさい)全(ぜん)図(ず)
納札(のうさつ)文化(ぶんか)研究会(けんきゅうかい)が昭和(しょうわ)34年(ねん)度(ど)の会合(かいごう)のまとめとして発行(はっこう)した納札(のうさつ)(巡礼(じゅんれい)者(しゃ)が霊場(れいじょう)に参拝(さんぱい)したしるし)集(しゅう)兼(けん)浮世絵(うきよえ)集(しゅう)。 浮世絵(うきよえ)は歌川芳員(うたがわよしかず)の「東海道(とうかいどう)五十三次(ごじゅうさんつぎ)」(おもしろ東海道(とうかいどう)五十三次(ごじゅうさんつぎ))を、版(はん)を新(あら)たにして編集(へんしゅう)しています。隔月(かくげつ)の会合(かいごう)の内(うち)には、2回(かい)にわたって「東海道五十三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ)膝栗毛(ひざくりげ)」を扱(あつか)っている回(かい)があり、軽妙(けいみょう)な画風(がふう)が好(この)まれて復刻(ふっこく)されたものでしょうか。 保存会(ほぞんかい)には江戸(えど)演芸(えんげい)関係者(かんけいしゃ)も多(おお)くいたようで、納札(のうさつ)(を収(おさ)めたメンバー)には、江戸文字(えどもじ)(江戸時代(えどじだい)に盛(さか)んに使用(しよう)された図案(ずあん)文字(もじ)の総称(そうしょう)。それぞれの書体(しょたい)は別々(べつべつ)の名称(めいしょう)を持(も)ち、もともとは使用(しよう)される用途(ようと)も違(ちが)っていた)の橘(たちばな)右近(うこん)、寄席(よせ)の新宿末廣亭(しんじゅくすえひろてい)、講談(こうだん)の一(いち)竜(りゅう)斎(さい)貞丈(ていじょう)、落語(らくご)の三遊亭圓馬(さんゆうていえんば)、三遊亭百生(さんゆうていひゃくしょう)、柳家小(やなぎやこ)さん、奇術(きじゅつ)のアダチ龍光(りゅうこう)、柳亭痴楽(りゅうていちらく)、漫才(まんざい)の都家(みやこや)かつ江(え)、桂枝太郎(かつらえだたろう)などの名前(なまえ)が見(み)られます。
納札(のうさつ)文化(ぶんか)保存会(ほぞんかい)「東海道五十三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ)膝栗毛(ひざくりげ)」
女性(じょせい)や子供(こども)が持(も)っている箱(はこ)は大森(おおもり)の名産(めいさん)である麦(むぎ)わら細工(ざいく)です。大森(おおもり)とは品川宿(しながわしゅく)と川崎宿(かわさきしゅく)の間(あいだ)にあった間(あい)の宿(しゅく)でした。この麦(むぎ)わら細工(ざいく)は川崎大師(かわさきだいし)でも名産(めいさん)品(ひん)として売(う)られています。 名所(めいしょ)として描(えが)かれているのは六郷(ろくごう)の渡(わた)しです。慶長(けいちょう)5年(ねん)(1600)に橋(はし)が架(か)けられてから、何度(なんど)も修復(しゅうふく)とかけ直(なお)しを繰(く)り返(かえ)し、貞享(じょうきょう)5年(ねん)(1688)に流(なが)されてからは明治時代(めいじじだい)になるまでこちらの図(ず)のように舟(ふね)渡(わた)しとなっていました。
双(そう)筆(ひつ)五十三次(ごじゅうさんつぎ) 川崎(かわさき)
長元(ちょうげん)元年(がんねん)(1028年(ねん))6月5日(がついつか)、平忠常(たいらのただつね)が安房(あわ)国府(こくふ)を襲撃(しゅうげき)し国司(こくし)を殺害(さつがい)しました。平忠常(たいらのただつね)の乱(らん)と言(い)われます。平安(へいあん)末期(まっき)の関東(かんとう)は平氏(へいし)が勢力(せいりょく)を持(も)っていて、中央(ちゅうおう)から派遣(はけん)された国司(こくし)に対抗(たいこう)した大規模(だいきぼ)な反乱(はんらん)でした。作品(さくひん)の詞書(ことばがき)によれば、源頼信(みなもとのよりのぶ)が追(つい)捕(ぶ)使(し)として派遣(はけん)され、城(しろ)を水攻(みずぜ)めして勝利(しょうり)を得(え)ました。これを機(き)に関東(かんとう)の平氏(へいし)の多(おお)くが頼信(よりのぶ)の配下(はいか)に下(くだ)り、源氏(げんじ)が東国(とうごく)で勢力(せいりょく)を広(ひろ)げる契機(けいき)となったと言(い)われています。
頼信(よりのぶ)忠常(ただつね) 大椎城(おおじじょう)水攻(みずぜめ)之(の)図(ず)
勝川春紅(かつかわしゅんこう)(生(せい)没年(ぼつねん)不明(ふめい))は初代(しょだい)勝川春章(かつかわしゅんしょう)もしくは勝川春英(かつかわしゅんえい)の門人(もんじん)といわれている浮世絵師(うきよえし)です。風景画(ふうけいが)、役者絵(やくしゃえ)、風俗画(ふうぞくが)などの作品(さくひん)が寛政(かんせい)から文化(ぶんか)にかけて見(み)られます。 表題(ひょうだい)に含(ふく)まれている浮絵(うきえ)とは遠近(えんきん)感(かん)を強調(きょうちょう)して描(えが)いた作品(さくひん)で、遠近法(えんきんほう)表現(ひょうげん)を従来(じゅうらい)より正確(せいかく)なものとし、錦絵(にしきえ)風景画(ふうけいが)の基礎(きそ)になりました。本図(ほんず)では日(ひ)の出(で)と富士山(ふじさん)が描(えが)かれており、初期(しょき)の江(え)の島(しま)浮世絵(うきよえ)らしい縁起(えんぎ)絵(え)です。江(え)の島(しま)と片瀬海岸(かたせかいがん)をつなぐ砂州(さす)には江(え)の島(しま)参詣(さんけい)者(しゃ)が大勢(おおぜい)歩(ある)いています。手前(てまえ)の片瀬海岸(かたせかいがん)には藁葺(わらぶき)の小屋(こや)がいくつか見(み)え、中(なか)には休憩(きゅうけい)する人々(ひとびと)も見(み)えます。
浮絵(うきえ)相州(そうしゅう)江之島(えのしま)の図(ず)
旅人(たびびと)に便宜(べんぎ)を図(はか)る講(こう)である大船講(おおぶねこう)の【道中記(どうちゅうき)(講帳(こうちょう))】 諸国(しょこく)の街道(かいどう)について、簡略(かんりゃく)な名所案内(めいしょあんない)を交(まじ)えて、宿駅(しゅくえき)・里程(りてい)と、講(こう)に加盟(かめい)する宿屋(やどや)・休所(やすみどころ)の名(な)を列挙(れっきょ)しています。街道見出(かいどうみだ)しは、東海道定宿休所(とうかいどうじょうやどやすみどころ)、秋葉鳳来寺道(あきはほうらいじみち)、伊勢参宮道(いせさんぐうみち)など48項目(こうもく)で、全国(ぜんこく)に及(およ)んでいます。 江の島(えのしま)の定宿(じょうやど)は戎や吉右衛門(えびすやきちえもん)と北村や忠右衛門(きたむらやちゅうえもん)。藤沢宿(ふじさわしゅく)は蔦屋又兵衛(つたやまたべい)・たばこや庄右衛門(しょうえもん)・長尾や長右衛門(ながおやちょうえもん)。四ッ谷(よつや)は八(は)(羽(は))鳥(とり)や八左衛門(はちざえもん)。南湖(なんこ)は江戸や八郎右衛門(えどやはちろうえもん)が記(しる)されています。
大船(おおふな)講(こう) 日本国(にほんこく)中(じゅう)・定宿(ていしゅく)休(やすみ)所(どころ)