ふりがな
江の島の歴史
江の島歴史年表
江の島散策マップ
江の島の文化財
江の島を訪れた人々
資料種類しりょうしゅるい(大分類だいぶんるい):
資料種類しりょうしゅるい(中分類ちゅうぶんるい):
資料種類しりょうしゅるい(小分類しょうぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(大分類だいぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(中分類ちゅうぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(小分類しょうぶんるい):
作者さくしゃ(50音分類おんぶんるい):
作者さくしゃ:
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旅籠屋(はたごや)での場面(ばめん)が描(えが)かれています。女性(じょせい)は鉄漿(おはぐろ)(おはぐろ)をしていて宴会(えんかい)用(よう)の酒(さけ)や肴(さかな)を運(はこ)んでいるようです。楽(たの)しみに待(ま)つ男性(だんせい)の様子(ようす)が表情(ひょうじょう)や動(うご)きから伝(つた)わってきます。 戸塚宿(とつかしゅく)は江戸(えど)からおよそ十里(じゅうり)半(はん)(約(やく)42km)で、江戸(えど)から出発(しゅっぱつ)した旅人(たびびと)の多(おお)くはここで一泊(いっぱく)目(め)を過(す)ごしました。坂道(さかみち)が描(えが)かれている通(とお)り、戸塚宿(とつかしゅく)にはいくつか坂(さか)があり、保土ヶ谷宿(ほどがやしゅく)との間(あいだ)にある権太坂(ごんたざか)(ごんたざか)は難所(なんしょ)としても有名(ゆうめい)でした。
双(そう)筆(ひつ)五十三次(ごじゅうさんつぎ) 戸塚(とつか)
女性(じょせい)や子供(こども)が持(も)っている箱(はこ)は大森(おおもり)の名産(めいさん)である麦(むぎ)わら細工(ざいく)です。大森(おおもり)とは品川宿(しながわしゅく)と川崎宿(かわさきしゅく)の間(あいだ)にあった間(あい)の宿(しゅく)でした。この麦(むぎ)わら細工(ざいく)は川崎大師(かわさきだいし)でも名産(めいさん)品(ひん)として売(う)られています。 名所(めいしょ)として描(えが)かれているのは六郷(ろくごう)の渡(わた)しです。慶長(けいちょう)5年(ねん)(1600)に橋(はし)が架(か)けられてから、何度(なんど)も修復(しゅうふく)とかけ直(なお)しを繰(く)り返(かえ)し、貞享(じょうきょう)5年(ねん)(1688)に流(なが)されてからは明治時代(めいじじだい)になるまでこちらの図(ず)のように舟(ふね)渡(わた)しとなっていました。
双(そう)筆(ひつ)五十三次(ごじゅうさんつぎ) 川崎(かわさき)
子供(こども)と母親(ははおや)が日本橋(にほんばし)を渡(わた)る様子(ようす)が描(えが)かれています。子供(こども)の右手(みぎて)には槍持(やりもち)(やりもち)をかたどった人形(にんぎょう)が見(み)えます。槍持(やりもち)とは、この場合(ばあい)は毛槍(けやり)を担(かつ)いで大名行列(だいみょうぎょうれつ)の先頭(せんとう)を歩(ある)く人(ひと)を指(さ)します。 後(うし)ろのコマには日本橋(にほんばし)の橋桁(はしげた)が近景(きんけい)に大(おお)きく配(はい)されています。遠景(えんけい)には富士山(ふじさん)と江戸城(えどじょう)が見(み)え、いかにも日本橋(にほんばし)の名所絵(めいしょえ)らしい表現(ひょうげん)となっています。
双(そう)筆(ひつ)五十三次(ごじゅうさんつぎ) 日本橋(にほんばし)
製作(せいさく)時期(じき):弘化(こうか)4年(ねん)(1847)~嘉永(かえい)5年(ねん)(1852)。板元(はんもと):丸屋清次郎(まるやせいじろう) このシリーズは表題(ひょうだい)の書体(しょたい)から俗(ぞく)に隷書(れいしょ)東海道(とうかいどう)と呼(よ)ばれ、保永(ほえい)堂(どう)版(ばん)、行書(ぎょうしょ)版(ばん)と共(とも)に三(さん)大(だい)傑作(けっさく)シリーズの一(ひと)つです。藤沢宿(ふじさわしゅく)の夜(よる)の風景(ふうけい)で、右側(みぎがわ)にある鳥居(とりい)が江(え)の島(しま)一(いち)ノ鳥居(とりい)(江(え)の島道(しまみち)入口(いりぐち))、左手(ひだりて)にあるのが大鋸橋(だいぎりばし) (現(げん)遊行寺橋(ゆぎょうじばし))です。宿場(しゅくば)に着(つ)いた人々(ひとびと)と客引(きゃくひ)きをする宿(やど)の人々(ひとびと)の様子(ようす)が描(えが)かれ、にぎわいが感(かん)じられます。
東海道(とうかいどう)七(なな) 五十三次(ごじゅうさんつぎ) 藤沢(ふじさわ)(隷書(れいしょ)東海道(とうかいどう))
十四(じゅうよん)代(だい)将軍(しょうぐん)徳川(とくがわ)家茂(いえもち)の上洛(じょうらく)に際(さい)して作(つく)られた、十(じゅう)枚(まい)続(つづき)という大作(たいさく)の名所(めいしょ)絵(え)です。画面(がめん)全体(ぜんたい)を巻物(まきもの)の形態(けいたい)に似(に)せており、行列(ぎょうれつ)を描(えが)きつつ各(かく)宿場(しゅくば)や沿道(えんどう)の名所(めいしょ)も記(しる)されています。 俯瞰(ふかん)的(てき)な視点(してん)で描(えが)かれ、東海道(とうかいどう)を一望(いちぼう)できるようになっています。
東海道五十三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ)一覧(いちらん)
狂歌(きょうか):小田原(おだわら)の 沖(おき)の船(ふね)より 見(み)えつらん 霞(かすみ)の海(うみ)の 城(しろ)の鯱(しゃち)(繁の門雛昌) 小田原(おだわら)の海沿(うみぞ)いの街道(かいどう)の風景(ふうけい)です。画面(がめん)奥(おく)の海岸(かいがん)では漁師(りょうし)たちが地引網(じびきあみ)を引(ひ)いています。街道(かいどう)をゆく旅人(たびびと)の合羽(かっぱ)が風(かぜ)になびく様子(ようす)からは海風(うみかぜ)を感(かん)じさせます。遠景(えんけい)の水平線(すいへいせん)上(じょう)にみえる白(しろ)い帆(ほ)により海(うみ)が遥(はる)か遠(とお)くまで続(つづ)く描写(びょうしゃ)がなされ、画面(がめん)手前(てまえ)に大(おお)きな松(まつ)が描(えが)かれても圧迫(あっぱく)感(かん)を感(かん)じさせず、開放(かいほう)感(かん)のある作品(さくひん)となっています。
東海道五拾三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ) 小田原(おだわら)(狂歌(きょうか)入(いり)東海道(とうかいどう))
狂歌(きょうか):うかれ女(おんな)の 真心(まごころ)よりそ うそぶける とらといふ名(な)は いしに残(のこ)れり(富有亭満成) 大磯宿(おおいそしゅく)の街道(かいどう)とその奥(おく)に広(ひろ)がる相模湾(さがみわん)が俯瞰的(ふかんてき)に描(えが)かれています。遠景(えんけい)の海岸線(かいがんせん)上(じょう)に小(ちい)さく描(えが)かれた白(しろ)い帆(ほ)によって、画面(がめん)奥(おく)にみえる伊豆(いず)半島(はんとう)との距離感(きょりかん)が表現(ひょうげん)されています。大磯(おおいそ)には有名(ゆうめい)な仇討(あだうち)ち物(もの)語(がたり)である「曽我(そが)物語(ものがたり)」の登場人物(とうじょうじんぶつ)・大磯(おおいそ)の虎(とら)に縁(ゆかり)のある虎(とら)御石(ごいし)があり、江戸時代(えどじだい)から街道(かいどう)の名物(めいぶつ)となっていました。
東海道五拾三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ) 大磯(おおいそ)(狂歌(きょうか)入(いり)東海道(とうかいどう))
狂歌(きょうか):大磯(おおいそ)へ いそぐえき路(じ)の すゞ(ず)のねに いさむ馬入(ばにゅう)の 渡(わた)し船(ぶね)かな(芦原満邦) 馬入(ばにゅう)川(がわ)の渡(わた)し場(ば)が描(えが)かれています。画面(がめん)左(ひだり)奥(おく)の川岸(かわぎし)には平塚宿(ひらつかしゅく)の建物(たてもの)が連(つら)なっています。中(ちゅう)景(けい)には馬入川(ばにゅうがわ)の上流(じょうりゅう)へとすすむ帆船(はんせん)が見(み)え、さらに後景(こうけい)には雪(ゆき)を被(かぶ)った富士山(ふじさん)と、その右(みぎ)隣(となり)に大山(おおやま)が描(えが)かれています。
東海道五拾三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ) 平塚(ひらつか) 馬入(ばにゅう)川渡(がわわたし)舟(ふね)(狂歌(きょうか)入(いり)東海道(とうかいどう))