ふりがな
江の島の歴史
江の島歴史年表
江の島散策マップ
江の島の文化財
江の島を訪れた人々
資料種類しりょうしゅるい(大分類だいぶんるい):
資料種類しりょうしゅるい(中分類ちゅうぶんるい):
資料種類しりょうしゅるい(小分類しょうぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(大分類だいぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(中分類ちゅうぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(小分類しょうぶんるい):
作者さくしゃ(50音分類おんぶんるい):
作者さくしゃ:
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狂歌(きょうか):名(な)にしおふ 沼津(ぬまづ)堤(つつみ) 花見酒(はなみざけ) 沼(ぬま)のごとくに 酔(よい)しひとむれ(東雲亭於(喜)保) 画面(がめん)手前(てまえ)の街道(かいどう)沿(ぞ)いに牓(ぼう)示(じ)杭(くい)(ぼうじくい)がみえることから、沼津宿(ぬまづしゅく)の西(にし)はずれの茶屋(ちゃや)から富士山(ふじさん)をみた風景(ふうけい)と思(おも)われます。後景(こうけい)の左側(ひだりがわ)に見切(みき)れるほど大(おお)きく富士山(ふじさん)が描(えが)かれ、その右(みぎ)ふもとには愛鷹山(あしたかやま)(あしたかやま)が描(えが)かれています。富士山(ふじさん)にかかるように漂(ただよ)う雲(くも)が富士山(ふじさん)と空(そら)の高(たか)さとの広(ひろ)がりを思(おも)わせます。この沼津(ぬまづ)の画(え)のあとに、次(つぎ)の場面(ばめん)の原(はら)の画(え)を見(み)ると、まるで歩(ほ)を進(すす)めながら富士山(ふじさん)を眺(なが)めているように感(かん)じられます。
東海道五拾三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ) 沼津(ぬまづ)(狂歌(きょうか)入(いり)東海道(とうかいどう))
狂歌(きょうか):今(いま)も猶(なお)(なお) 夢路(ゆめじ)をたどる 心(ここ)(ここ)ちかな はなとみしまの 雪(ゆき)の曙(あけぼの)(立川伊志女) 一面(いちめん)の雪景色(ゆきげしき)の中(なか)に、川(かわ)の青(あお)が映(は)えています。後景(こうけい)には雪(ゆき)を冠(かぶ)った富士山(ふじさん)が描(えが)かれており、雪(ゆき)面(めん)や空(そら)の色(いろ)の濃淡(のうたん)によって、立体感(りったいかん)や遠近(えんきん)感(かん)を感(かん)じさせる作品(さくひん)です。
東海道五拾三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ) 三島(みしま)(狂歌(きょうか)入(いり)東海道(とうかいどう))
狂歌(きょうか):ことわざに 雲(くも)ともいへる 人(ひと)なれや かゝる山路(やまじ)を 夜(よ)るも越(こし)ゆく(富黄園満春) 客(きゃく)を乗(の)せた駕籠(かご)(かご)の前後(ぜんご)に、松明(たいまつ)(たいまつ)を持(も)つ人足(にんそく)(にんそく)が付(つ)いている様子(ようす)から、夜(よる)の箱根(はこね)の山越(やまご)えを描(えが)いていることがわかります。画面(がめん)左(ひだり)に迫(せま)り立(た)つ崖(がけ)を描(えが)くことによって、画面(がめん)右(みぎ)の反対(はんたい)側(がわ)は深(ふか)い谷(たに)であることが強調(きょうちょう)されています。箱根(はこね)の山道(さんどう)は、幕府(ばくふ)により敷石(しきいし)で整備(せいび)され、「箱根(はこね)の石畳(いしだたみ)」として現在(げんざい)も残(のこ)されています。
東海道五拾三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ) 箱根(はこね)(狂歌(きょうか)入(いり)東海道(とうかいどう))
制作(せいさく)時期(じき):弘化(こうか)4年(よんねん)~嘉永(かなが)末期(まっき)(1847~1854)。 板元(はんもと):不明(ふめい) 落款(らっかん)は一嶺斎(いちりゅうさい)芳雪(ほうせつ)で、この板元(はんもと)印(しるし)は石井研堂(いしいけんどう)『地本(じもと)錦絵(にしきえ)問屋(とんや)譜(ふ)』に「薩摩守忠度(さつまのかみただのり)」の武者絵(むしゃえ)にあるとだけ記(しる)されています。波(なみ)荒(あら)い七里ガ浜(しちりがはま)で銭(ぜに)を投(な)げ、裸(はだか)の子(こ)どもに拾(ひろ)わせて楽(たの)しむ3人(にん)の女性(じょせい)、左(ひだり)の駕籠(かご)かきは2人(ふたり)とも芳雪(ほうせつ)得意(とくい)の刺青(いれずみ)をしています。 当時(とうじ)の江(え)の島(しま)詣(もうで)の旅(たび)風俗(ふうぞく)がよくわかる資料(しりょう)です。
相州(そうしゅう)江之島(えのしま)詣(もうで)春(はる)の賑(にぎわい)
旅籠屋(はたごや)での場面(ばめん)が描(えが)かれています。女性(じょせい)は鉄漿(おはぐろ)(おはぐろ)をしていて宴会(えんかい)用(よう)の酒(さけ)や肴(さかな)を運(はこ)んでいるようです。楽(たの)しみに待(ま)つ男性(だんせい)の様子(ようす)が表情(ひょうじょう)や動(うご)きから伝(つた)わってきます。 戸塚宿(とつかしゅく)は江戸(えど)からおよそ十里(じゅうり)半(はん)(約(やく)42km)で、江戸(えど)から出発(しゅっぱつ)した旅人(たびびと)の多(おお)くはここで一泊(いっぱく)目(め)を過(す)ごしました。坂道(さかみち)が描(えが)かれている通(とお)り、戸塚宿(とつかしゅく)にはいくつか坂(さか)があり、保土ヶ谷宿(ほどがやしゅく)との間(あいだ)にある権太坂(ごんたざか)(ごんたざか)は難所(なんしょ)としても有名(ゆうめい)でした。
双(そう)筆(ひつ)五十三次(ごじゅうさんつぎ) 戸塚(とつか)
女性(じょせい)や子供(こども)が持(も)っている箱(はこ)は大森(おおもり)の名産(めいさん)である麦(むぎ)わら細工(ざいく)です。大森(おおもり)とは品川宿(しながわしゅく)と川崎宿(かわさきしゅく)の間(あいだ)にあった間(あい)の宿(しゅく)でした。この麦(むぎ)わら細工(ざいく)は川崎大師(かわさきだいし)でも名産(めいさん)品(ひん)として売(う)られています。 名所(めいしょ)として描(えが)かれているのは六郷(ろくごう)の渡(わた)しです。慶長(けいちょう)5年(ねん)(1600)に橋(はし)が架(か)けられてから、何度(なんど)も修復(しゅうふく)とかけ直(なお)しを繰(く)り返(かえ)し、貞享(じょうきょう)5年(ねん)(1688)に流(なが)されてからは明治時代(めいじじだい)になるまでこちらの図(ず)のように舟(ふね)渡(わた)しとなっていました。
双(そう)筆(ひつ)五十三次(ごじゅうさんつぎ) 川崎(かわさき)
子供(こども)と母親(ははおや)が日本橋(にほんばし)を渡(わた)る様子(ようす)が描(えが)かれています。子供(こども)の右手(みぎて)には槍持(やりもち)(やりもち)をかたどった人形(にんぎょう)が見(み)えます。槍持(やりもち)とは、この場合(ばあい)は毛槍(けやり)を担(かつ)いで大名行列(だいみょうぎょうれつ)の先頭(せんとう)を歩(ある)く人(ひと)を指(さ)します。 後(うし)ろのコマには日本橋(にほんばし)の橋桁(はしげた)が近景(きんけい)に大(おお)きく配(はい)されています。遠景(えんけい)には富士山(ふじさん)と江戸城(えどじょう)が見(み)え、いかにも日本橋(にほんばし)の名所絵(めいしょえ)らしい表現(ひょうげん)となっています。
双(そう)筆(ひつ)五十三次(ごじゅうさんつぎ) 日本橋(にほんばし)
製作(せいさく)時期(じき):弘化(こうか)4年(ねん)(1847)~嘉永(かえい)5年(ねん)(1852)。板元(はんもと):丸屋清次郎(まるやせいじろう) このシリーズは表題(ひょうだい)の書体(しょたい)から俗(ぞく)に隷書(れいしょ)東海道(とうかいどう)と呼(よ)ばれ、保永(ほえい)堂(どう)版(ばん)、行書(ぎょうしょ)版(ばん)と共(とも)に三(さん)大(だい)傑作(けっさく)シリーズの一(ひと)つです。藤沢宿(ふじさわしゅく)の夜(よる)の風景(ふうけい)で、右側(みぎがわ)にある鳥居(とりい)が江(え)の島(しま)一(いち)ノ鳥居(とりい)(江(え)の島道(しまみち)入口(いりぐち))、左手(ひだりて)にあるのが大鋸橋(だいぎりばし) (現(げん)遊行寺橋(ゆぎょうじばし))です。宿場(しゅくば)に着(つ)いた人々(ひとびと)と客引(きゃくひ)きをする宿(やど)の人々(ひとびと)の様子(ようす)が描(えが)かれ、にぎわいが感(かん)じられます。
東海道(とうかいどう)七(なな) 五十三次(ごじゅうさんつぎ) 藤沢(ふじさわ)(隷書(れいしょ)東海道(とうかいどう))