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江の島の歴史
江の島歴史年表
江の島散策マップ
江の島の文化財
江の島を訪れた人々
資料種類しりょうしゅるい(大分類だいぶんるい):
資料種類しりょうしゅるい(中分類ちゅうぶんるい):
資料種類しりょうしゅるい(小分類しょうぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(大分類だいぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(中分類ちゅうぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(小分類しょうぶんるい):
作者さくしゃ(50音分類おんぶんるい):
作者さくしゃ:
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製作時期(せいさくじき):明治(めいじ)8年(ねん)。 板元(はんもと):山清(やませい)(山崎屋清七(やまざきやせいしち)) 本図(ほんず)では船(ふね)に乗(の)る女性(じょせい)が洋傘(ようがさ)を差(さ)しており、江戸時代(えどじだい)から変(か)わらない風景(ふうけい)に明治時代(めいじじだい)の新(あたら)しさを感(かん)じさせる図(ず)です。 三代広重(さんだいひろしげ)描(えが)くこのシリーズは、明治前期(めいじぜんき)の東海道各宿駅(とうかいどうかくしゅくえき)の風景(ふうけい)が華(はな)やかな色彩(しきさい)(幕末(ばくまつ)から明治初期(めいじしょき)に海外(かいがい)からあざやかな科学顔料(かがくがんりょう)が入(はい)り使用(しよう)される)で描(えが)かれています。
東海(とうかい)名所(めいしょ) 改正(かいせい)道中(どうちゅう)記(き) 二十(にじゅう)一(いち) 三保(みほ)の松原(まつばら) 江尻(えじり) 静岡(しずおか)迄(まで)尼(あま)り二十(にじゅう)七(なな)町(ちょう)
製作時期(せいさくじき):明治(めいじ)8年(ねん)。 板元(はんもと):山清(やませい)(山崎屋清七(やまざきやせいしち)) 三代広重(さんだいひろしげ)描(えが)くこのシリーズは、明治前期(めいじぜんき)の東海道各宿駅(とうかいどうかくしゅくえき)の風景(ふうけい)が華(はな)やかな色彩(しきさい)(幕末(ばくまつ)から明治初期(めいじしょき)に海外(かいがい)からあざやかな科学顔料(かがくがんりょう)が入(はい)り使用(しよう)される)で描(えが)かれています。
東海(とうかい)名所(めいしょ) 改正(かいせい)道中(どうちゅう)記(き) 二十(にじゅう) 田子(たご)の浦(うら)景(けい) 興津(おきつ) 江尻(えじり)迄(まで)一里(いちり)三(さん)丁(ちょう)
製作時期(せいさくじき):明治(めいじ)8年(ねん)。板元(はんもと):山清(やませい)(山崎屋清七(やまざきやせいしち)) 海岸沿(かいがんぞ)いを通(とお)る薩埵峠(さつたとうげ)の下道(したみち)にも電信柱(でんしんばしら)が架設(かせつ)され、電信線(でんしんせん)がはりめぐらされています。 三代広重(さんだいひろしげ)描(えが)くこのシリーズは、明治前期(めいじぜんき)の東海道各宿駅(とうかいどうかくしゅくえき)の風景(ふうけい)が華(はな)やかな色彩(しきさい)(幕末(ばくまつ)から明治初期(めいじしょき)に海外(かいがい)からあざやかな科学顔料(かがくがんりょう)が入(はい)り使用(しよう)される)で描(えが)かれています。
東海(とうかい)名所(めいしょ) 改正(かいせい)道中(どうちゅう)記(き) 十九(じゅうく) 薩(さっ)多(た)のした 由井(ゆい) おき津(つ)迄(まで)二(に)り十(じゅう)二丁(にちょう)
製作時期(せいさくじき):明治(めいじ)8年(ねん)。 板元(はんもと):山清(やませい)(山崎屋清七(やまざきやせいしち)) 街道一(かいどういち)の急流(きゅうりゅう)であった富士川(ふじかわ)の場面(ばめん)を描(えが)いています。明治(めいじ)になり、護岸(ごがん)も石垣(いしがき)で整備(せいび)されました。 川(かわ)の流(なが)れを表(あらわ)すような川面(かわも)の動(うご)きに対(たい)して、後景(こうけい)に大(おお)きく配(はい)された富士山(ふじさん)の姿(すがた)が印象的(いんしょうてき)です。 三代広重(さんだいひろしげ)描(えが)くこのシリーズは、明治前期(めいじぜんき)の東海道各宿駅(とうかいどうかくしゅくえき)の風景(ふうけい)が華(はな)やかな色彩(しきさい)(幕末(ばくまつ)から明治初期(めいじしょき)に海外(かいがい)からあざやかな科学顔料(かがくがんりょう)が入(はい)り使用(しよう)される)で描(えが)かれています。
東海(とうかい)名所(めいしょ) 改正(かいせい)道中(どうちゅう)記(き) 十八(じゅうはち) 不二(ふじ)河(かわ)の渡(わた)し 蒲原(かんばら) 由井(ゆい)迄(まで)一里(いちり)
製作時期(せいさくじき):明治(めいじ)8年(ねん)。 板元(はんもと):山清(やませい)(山崎屋清七(やまざきやせいしち)) 東海道(とうかいどう)を江戸(えど)から京都(きょうと)に向(む)かう道中(どうちゅう)で、街道(かいどう)の左側(ひだりがわ)に富士山(ふじさん)が見(み)える景色(けしき)のことを左富士(ひだりふじ)といい、南湖(なんご)(茅ヶ崎市(ちがさきし))と吉原(よしわら)(静岡市(しずおかし))の2か所(しょ)あります。 東海道(とうかいどう)の名所(めいしょ)として初代広重(しょだいひろしげ)も描(えが)いた景色(けしき)です。 街道(かいどう)が画面左手前(がめんひだりてまえ)から画面奥(がめんおく)にかけて蛇行(だこう)し、松並木(まつなみき)の隙間(すきま)から左奥(ひだりおく)に富士山(ふじさん)が見(み)える構図(こうず)は、初代広重(しょだいひろしげ)の作品(さくひん)に通(つう)じるものがあります。 明治(めいじ)になると、街道沿(かいどうぞ)いの松並木(まつなみき)の間(あいだ)に電信柱(でんしんばしら)が架設(かせつ)され、左富士(ひだりふじ)の名所(めいしょ)も移(うつ)り変(か)わっています。 三代広重(さんだいひろしげ)描(えが)くこのシリーズは、明治前期(めいじぜんき)の東海道各宿駅(とうかいどうかくしゅくえき)の風景(ふうけい)が華(はな)やかな色彩(しきさい)(幕末(ばくまつ)から明治初期(めいじしょき)に海外(かいがい)からあざやかな科学顔料(かがくがんりょう)が入(はい)り使用(しよう)される)で描(えが)かれています。
東海(とうかい)名所(めいしょ) 改正(かいせい)道中(どうちゅう)記(き) 十七(じゅうなな) 左(ひだり)り不二(ふじ) 吉原(よしわら) 蒲原(かんばら)迄(まで)一(いち)り三(さん)十(じゅう)丁(ちょう)
製作時期(せいさくじき):明治(めいじ)8年(ねん)。 板元(はんもと):山清(やませい)(山崎屋清七(やまざきやせいしち)) 明治維新後(めいじいしんご)に開通(かいつう)した新(あたら)しい航路(こうろ)である沼川(ぬまかわ)の渡(わた)しの場面(ばめん)が描(えが)かれています。江戸時代(えどじだい)の東海道(とうかいどう)では、原宿(はらじゅく)の次(つぎ)の宿駅(しゅくえき)である吉原宿(よしわらしゅく)にかけて、東海道(とうかいどう)を大(おお)きく北側(きたがわ)に迂回(うかい)するルートをとっていましたが、この沼川(ぬまかわ)の渡(わた)しを通(とお)ることにより、海岸沿(かいがんぞ)いを直進(ちょくしん)し、原(はら)から蒲原(かんばら)まで渡(わた)るルートができました。 三代広重(さんだいひろしげ)描(えが)くこのシリーズは、明治前期(めいじぜんき)の東海道各宿駅(とうかいどうかくしゅくえき)の風景(ふうけい)が華(はな)やかな色彩(しきさい)(幕末(ばくまつ)から明治初期(めいじしょき)に海外(かいがい)からあざやかな科学顔料(かがくがんりょう)が入(はい)り使用(しよう)される)で描(えが)かれています。
東海(とうかい)名所(めいしょ) 改正(かいせい)道中(どうちゅう)記(き) 十六(じゅうろく) 沼川(ぬまかわ)の渡(わた)し 原(はら) 吉原(よしわら)の間(あいだ) 新道(しんどう) 蒲原(かんばら)迄(まで)二(に)り近(ちか)し
製作時期(せいさくじき):明治(めいじ)8年(ねん)。 板元(はんもと):山清(やませい)(山崎屋清七(やまざきやせいしち)) 画面(がめん)の上半分(うえはんぶん)を占(し)めるように富士山(ふじさん)が壮大(そうだい)に描(えが)かれ、手前(てまえ)には愛鷹山(あしたかやま)が続(つづ)きます。 その裾野(すその)には「浮島(うきしま)が原(はら)(はら)」とも呼(よ)ばれた湿地帯(しっちたい)が広(ひろ)がります。 投網(とあみ)で漁(りょう)をする様子(ようす)が描(えが)かれており、ここで獲(と)れるウナギは宿場(しゅくば)の名物(めいぶつ)ともなっていました。 三代広重(さんだいひろしげ)描(えが)くこのシリーズは、明治前期(めいじぜんき)の東海道各宿駅(とうかいどうかくしゅくえき)の風景(ふうけい)が華(はな)やかな色彩(しきさい)(幕末(ばくまつ)から明治初期(めいじしょき)に海外(かいがい)からあざやかな科学顔料(かがくがんりょう)が入(はい)り使用(しよう)される)で描(えが)かれています。
東海(とうかい)名所(めいしょ) 改正(かいせい)道中(どうちゅう)記(き) 十五(じゅうご) 不二(ふじ)の沼(ぬま) 原(はら) 吉原(よしはら)迄(まで)三(さん)り六(ろく)丁(ちょう)
制作(せいさく)時期(じき):弘化(こうか)4年(ねん)~嘉永(かえい)5年(ねん)(1847~1852)頃(ころ)。 板元(はんもと):山田屋庄次郎(やまだやしょうじろう)(山庄(やましょう)) 駕籠(かご)から降(お)りたばかりの3人(にん)の美人(びじん)が江(え)の島(しま)弁才天(べんざいてん)の開帳(かいちょう)に詣(もうで)ようとしているところでしょうか、美人(びじん)見立(みた)ての江(え)の島(しま)詣(もうで)です。右(みぎ)の麻葉(あさば)模様(もよう)の浴衣(ゆかた)の女性(じょせい)は腰(こし)のところで細(ほそ)帯(おび)を締(し)めなおしています。中央(ちゅうおう)と左(ひだり)の女性(じょせい)は「柏木(かしわぎ)」、「早蕨(さわらび)」、「藤裏葉(ふじのうらば)」、「蜻蛉(とんぼ)」などの源氏香(げんじこう)の模様(もよう)を散(ち)らした揃(そろ)いの浴衣(ゆかた)を着物(きもの)の上(うえ)に重(かさ)ね着(き)し日傘(ひがさ)を持(も)っています。この様(よう)に普通(ふつう)の着物(きもの)の上(うえ)に浴衣(ゆかた)を着(き)るのは旅(たび)をする時(とき)の合羽(かっぱ)の代用(だいよう)によく用(もち)いたといわれます。 江(え)の島(しま)に関(かん)する他(た)の錦絵(にしきえ)に描(えが)かれた女性(じょせい)はほとんどこの装(よそお)いをしています。海辺(うみべ)の旅(たび)となる江(え)の島(しま)詣(もうで)には潮風(しおかぜ)を防(ふせ)ぐ意味(いみ)で必需品(ひつじゅひん)であったものなのでしょう。中央(ちゅうおう)の女性(じょせい)は勝山髷(かつやままげ)、左右(さゆう)の女性(じょせい)は島田髷(しまだまげ)にべっ甲(こう)の櫛(くし)、笄簪(こうがい)と銀(ぎん)の平打(ひらうち)の簪(かんざし)を飾(かざ)っています。全体(ぜんたい)に粋(いき)ないでたちは、いずれも芸事(げいごと)に関係(かんけい)する女性(じょせい)たちと考(かんが)えられます。なおこの版画(はんが)が出版(しゅっぱん)されたのは、嘉永(かえい)4年(ねん)辛亥(かのとい)(1851年(ねん))の窟(いわや)弁財天(べんざいてん)の開帳(かいちょう)に合(あ)わせたとも考(かんが)えられます。この開帳(かいちょう)を明記(めいき)した作品(さくひん)を、広重(ひろしげ)は大判(おおばん)3枚(まい)続(つづき)で3組(くみ)描(えが)いており、これもその一(ひと)つです。
江(え)の嶋(しま)弁才天(べんざいてん)開帳(かいちょう)詣(もうで)