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江の島の歴史
江の島歴史年表
江の島散策マップ
江の島の文化財
江の島を訪れた人々
資料種類しりょうしゅるい(大分類だいぶんるい):
資料種類しりょうしゅるい(中分類ちゅうぶんるい):
資料種類しりょうしゅるい(小分類しょうぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(大分類だいぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(中分類ちゅうぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(小分類しょうぶんるい):
作者さくしゃ(50音分類おんぶんるい):
作者さくしゃ:
フリーワード:
初代(しょだい)歌川広重(うたがわひろしげ)(1797~1858)最晩年(さいばんねん)の著作(ちょさく)。自序(じじょ)によると葛飾北斎(かつしかほくさい)の富嶽百景(ふがくひゃっけい)を意識(いしき)して、より写実的(しゃじつてき)な作品(さくひん)であることを強調(きょうちょう)しています。当初(とうしょ)は百景(ひゃっけい)を意図(いと)して作成(さくせい)されたようですが実際(じっさい)に出版(しゅっぱん)されたのはこの1巻(かん)(20景収録(けいしゅうろく))のみといわれています。類書(るいしょ)として明治(めいじ)22年(ねん)(1889)刊行(かんこう)の「富嶽真景(ふがくしんけい)」全(ぜん)2巻(かん)(大倉書店(おおくらしょてん)刊(かん))があり、その第(だい)1巻(かん)はこの「富士見百図(ふじみひゃくず)」を再刊(さいかん)したものです。また、第2巻(だい)にも「江(え)の島(しま)道(みち)」など、広重(ひろしげ)の画(え)に似(に)せた富士(ふじ)を描(えが)いた風景画(ふうけいが)が収録(しゅうろく)されています。
富士見(ふじみ)百(ひゃく)図(ず) 初(しょ)編(へん)
北斎(ほくさい)が描(えが)いた東海道五十三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ)シリーズは大判(おおばん)は無(な)く、大半(たいはん)は小判横(こばんよこ)です。景観描写(けいかんびょうしゃ)をテーマにした初代(しょだい)歌川広重(うたがわひろしげ)の作品(さくひん)に対(たい)し、旅姿(たびすがた)や各宿駅(かくしゅくえき)の風俗(ふうぞく)がテーマとなっていて、独特(どくとく)の味(あじ)わいを感(かん)じさせます。出版(しゅっぱん)当初(とうしょ)は狂歌(きょうか)グループからの依頼(いらい)で「春興五十三駄之内(しゅんこうごじゅうさんえきのうち)」と題(だい)した摺物(すりもの)で、右側(みぎがわ)に狂歌(きょうか)が刷(す)られていました。 各宿(かくしゅく)の内容(ないよう)を見(み)ると、「程ヶ谷(ほどがや)」では農耕馬(のうこうば)の足(あし)を洗(あら)う人(ひと)の姿(すがた)に春(はる)の訪(おとず)れが感(かん)じられます。「戸塚(とつか)」では宿(やど)の女性(じょせい)に別(わか)れを惜(お)しまれながら旅立(たびだ)つ二人(ふたり)連(づ)れ。「藤沢(ふじさわ)」では江(え)の島(しま)一ノ鳥居(いちのとりい)をくぐって江(え)の島(しま)へ向(む)かう旅(たび)の女性(じょせい)たちが描(えが)かれています。先頭(せんとう)の女性(じょせい)の煙管(きせる)(訳注(やくちゅう):パイプ)に付(つ)けられた赤(あか)い布(ぬの)は疱瘡除(ほうそうよ)け(訳注(やくちゅう):天然痘(てんねんとう))のまじないです。道標(どうひょう)には「ここよりゑのしま道(みち)」と書(か)かれていますが、この道標(どうひょう)に記(しる)された「享和四年(きょうわよねん)(1804年(ねん))」の文字(もじ)から、このシリーズの制作(せいさく)年代(ねんだい)が判(わか)ります。 「平塚(ひらつか)」は、木陰(こかげ)で休(やす)む農夫(のうふ)たちと草刈(くさか)りのカマや籠(かご)が描(えが)かれています。春先(はるさき)でまだ寒(さむ)そうな風情(ふぜい)です。「大磯(おおいそ)」は大(おお)きな石(いし)を持(も)ち上(あ)げようとしている人(ひと)がいます。石(いし)には「虎か石(とらかいし)」と書(か)かれていて、同宿(どうしゅく)の伝説(でんせつ)の虎御前(とらごぜん)(訳注(やくちゅう):曽我物語(そがものがたり)に出(で)てくる女性(じょせい)、曽我物語(そがものがたり)を全国(ぜんこく)にひろめたと言(い)われている)に基(もと)づいた画(え)であることが分(わ)かります。「小田原(おだわら)」は「ういろう」売(う)りと遠景(えんけい)に小田原城(おだわらじょう)。 「ういろう(外郎(ういろう))」とは小田原(おだわら)名物(めいぶつ)の薬(くすり)の名(な)で、現在(げんざい)でも販売(はんばい)されています。(同名(どうめい)のお菓子(かし)もあります)歌舞伎役者(かぶきやくしゃ)の二代目(にだいめ)の市川団十郎(いちかわだんじゅうろう)が咳(せき)と痰(たん)の病(やまい)で台詞(せりふ)をうまく言(い)えずに困(こま)っていたときに、外郎(ういろう)を服用(ふくよう)して治(なお)り、自作自演(じさくじえん)の『外郎売(ういろううり)』を舞台(ぶたい)で演(えん)じたことは、この絵(え)の描(えが)かれた当時(とうじ)から有名(ゆうめい)でした。画(が)の女性(じょせい)は団十郎(だんじゅうろう)の真似(まね)をしているようです。
東海道五十三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ) 保土ヶ谷(ほどがや)
東海道五十三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ) 戸塚(とつか)
東海道五十三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ) 平塚(ひらつか)
東海道五十三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ) 大磯(おおいそ)
東海道五十三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ) 小田原(おだわら)
役小角(えんのおづめ)(役行者(えんのぎょうじゃ))は、飛鳥時代(あすかじだい)から奈良時代(ならじだい)の呪術者(じゅじゅつしゃ)で、修験道(しゅげんどう)の開祖(かいそ)とされる実在(じつざい)の人物(じんぶつ)で。人物像(じんぶつぞう)は後世(こうせい)の伝説(でんせつ)で作(つく)られたところが大(おお)きく、富士山(ふじさん)、江(え)の島(しま)を始(はじ)め、多(おお)くの修験道(しゅげんどう)の霊場(れいじょう)が、役行者(えんのぎょうじゃ)を開祖(かいそ)とし、役行者(えんのぎょうじゃ)が修行(しゅぎょう)した場所(ばしょ)だったという伝承(でんしょう)があります。手前(てまえ)に従(したが)うのは、前鬼(ぜんき)と後鬼(ごき)(夫婦(ふうふ)の鬼(おに)で、前鬼(ぜんき)が夫(おっと)、後鬼(ごき)が妻(つま))。役行者(えんのぎょうじゃ)は、鬼神(きじん)を使役(しえき)できるほどの法力(ほうりき)を持(も)っていたと言(い)います。
役小角(えんのおづぬ)坐像(ざぞう)
この作品(さくひん)は、当時(とうじ)の人気(にんき)歌舞伎役者(かぶきやくしゃ)とゆかりの宿場(しゅくば)を背景(はいけい)に描(えが)いたシリーズです。「一ト眼千両(ひとめせんりょう)」とは、一目(ひとめ)見(み)ただけで千両(せんりょう)(訳注(やくちゅう):両(りょう)は江戸時代(えどじだい)の貨幣(かへい)の単位>(たんい)。 千両(せんりょう)は今(いま)でいうと1億円(おくえん)以上(いじょう)の価値(かち)になる。)という大金(たいきん)を払(はら)う価値(かち)があるというたとえです。背景(はいけい)を二代広重(にだいひろしげ)、前景(ぜんけい)の人物(じんぶつ)を国周(くにちか)が分担(ぶんたん)して描(えが)いています。 この人物(じんぶつ)は「白波五人男(しらなみごにんおとこ)」の通称(つうしょう)で知(し)られる歌舞伎(かぶき)の演目(えんもく)「青砥稿花紅彩画(あおとぞうしはなのにしきえ)」に登場(とうじょう)する人物(じんぶつ)の一人(ひとり)で、江の島(えのしま)にゆかりのある弁天小僧菊之助(べんてんこぞうきくのすけ)です。扮(ふん)するは四代目(よんだいめ)市村家橘(いちむらかきつ)(のちの五代(ごだい)尾上菊五郎(おのえきくごろう))です。
東海道(とうかいどう)一(ひ)卜(と)眼(め)千(せん)両(りょう) 藤沢(ふじさわ) 弁天小僧菊之助(べんてんこぞうきくのすけ)