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江の島の歴史
江の島歴史年表
江の島散策マップ
江の島の文化財
江の島を訪れた人々
資料種類しりょうしゅるい(大分類だいぶんるい):
資料種類しりょうしゅるい(中分類ちゅうぶんるい):
資料種類しりょうしゅるい(小分類しょうぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(大分類だいぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(中分類ちゅうぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(小分類しょうぶんるい):
作者さくしゃ(50音分類おんぶんるい):
作者さくしゃ:
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製作時期(せいさくじき):慶応元年(けいおうがんねん)(1865)。 板元(はんもと)印(しるし)なし 二代広重(にだいひろしげ)は初代広重(しょだいひろしげ)長女(ちょうじょ)との結婚以前(けっこんいぜん)の重宣時代(しげのぶじだい)、二代広重(にだいひろしげ)時代(じだい)、離婚後(りこんご)横浜(よこはま)に住(す)んでからの立祥時代(りゅうしょうじだい)(慶応元年(けいおうがんねん)~明治二年(めいじにねん))のそれぞれの画銘(がめい)の時(とき)に数点(すうてん)の東海道(とうかいどう)シリーズを残(のこ)しています。
東海道(とうかいどう)五拾(ごじゅう)三(さん)駅(えき) 川崎(かわさき) 六郷(ろくごう)舟(ふな)渡(わた)し
東海道(とうかいどう)五拾(ごじゅう)三(さん)駅(えき) 品川(しながわ) 新宿(しんしゅく)いり口(ぐち)
製作時期(せいさくじき):慶応(けいおう)1年(ねん)(1865)~明治(めいじ)2年(ねん)(1869)。 板元(はんもと)印(しるし)なし 三代広重(さんだいひろしげ)の「東海名所(とうかいめいしょ) 改正道中記(かいせいどうちゅうき)」と並(なら)ぶ小判(こばん)の東海道(とうかいどう)シリーズで、明治前期(めいじぜんき)の東海道(とうかいどう)各宿駅(かくしゅくえき)の風景(ふうけい)が華(はな)やかな色彩(しきさい)(幕末(ばくまつ)から明治初期(めいじしょき)に海外(かいがい)から色(いろ)鮮(あざ)やかな化学顔料(かがくがんりょう)が入(はい)り使用(しよう)されている)で描(えが)かれています。 右側(みぎがわ)に一部(いちぶ)だけ描(えが)かれた鳥居(とりい)(江(え)の島(しま)一ノ鳥居(いちのとりい))の下(した)を、杖(つえ)をついた目(め)の不自由(ふじゆう)な人(ひと)の一行(いっこう)が通(とお)り過(す)ぎようとしているところです。柳(やなぎ)の脇(わき)に立(た)つ人物(じんぶつ)がさしているコウモリ傘(がさ)が、明治(めいじ)の時代(じだい)を象徴(しょうちょう)しています。
東海道五十三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ) 八(はち) 藤沢(ふじさわ) 江(え)のしま道(みち)
製作時期(せいさくじき):文久(ぶんきゅう)3年(ねん)(1863)。 板元(はんもと)印(しるし)なし 十四代(じゅうよんだい)将軍家茂(しょうぐんいえもち)の上洛(じょうらく)を意識(いしき)して出版(しゅっぱん)された「上洛東海道(じょうらくとうかいどう)」と同(おな)じく、文久(ぶんきゅう)3年(ねん)(1863)に発行(はっこう)された、宿場(しゅくば)の風景(ふうけい)に行列(ぎょうれつ)を描(か)き込(こ)んだシリーズです。 朝霧(あさぎり)のなか、東海道(とうかいどう)の通(とお)る大鋸橋(だいぎりばし)(現遊行寺橋(げんゆぎょうじばし))を行列(ぎょうれつ)が通(とお)り過(す)ぎていくところを描(えが)いたもので、左手前(ひだりてまえ)の鳥居(とりい)は江(え)の島(しま)一ノ鳥居(いちのとりい)。 上方(じょうほう)の屋根(やね)は遊行寺(ゆぎょうじ)のものです。手前(てまえ)の杖(つえ)を持(も)った旅装(りょそう)の二人(ふたり)の女性(じょせい)は江(え)の島(しま)詣(もうで)でしょう。
東海道(とうかいどう) 藤沢(ふじさわ)
板元(はんもと)印(しるし)なし 上洛東海道(じょうらくとうかいどう)シリーズからの一枚(いちまい)で、南湖(なんご)の風景(ふうけい)を描(えが)いた作品(さくひん)です。 南湖(なんご)は現在(げんざい)の茅ヶ崎市南部(ちがさきしなんぶ)の海岸(かいがん)に接(せっ)した地域名(ちいきめい)ですが、この地域(ちいき)の北端(ほくたん)は東海道(とうかいどう)を含(ふく)んでおり、ここに立場(たてば)(宿場間(しゅくばかん)の休憩所(きゅうけいしょ))がありました。 松並木(まつなみき)と、東海道(とうかいどう)に二(に)か所(しょ)しかない「左富士(ひだりふじ)」が名所(めいしょ)となっています。
東海道(とうかいどう)名所(めいしょ)之(の)内(うち) 南湖(なんご)
大判縦1枚(おおばんたていちまい) 縦(たて)35.6 横(よこ)24.6 板元(はんもと)印(しるし)なし 上洛東海道(じょうらくとうかいどう)シリーズからの一枚(いちまい)で、藤沢宿(ふじさわしゅく)から平塚宿(ひらつかしゅく)へ向(む)かう途中(とちゅう)にある四ツ谷(よつや)の立場(たてば)(宿場間(しゅくばかん)の休憩所(きゅうけいじょ))の風景(ふうけい)です。 四ツ谷(よつや)の立場(たてば)は東海道(とうかいどう)と大山道(おおやまみち)の分岐(ぶんき)として栄(さか)え、画面右下(がめんみぎした)の石(いし)の道標(みちしるべ)にも「右(みぎ)大山道(おおやまみち)」と記(しる)されています。 画面(がめん)の背景(はいけい)として富士山(ふじさん)と並(なら)んで大山(おおやま)が描(えが)かれていますが、これは実際(じっさい)とは異(こと)なった構図(こうず)となっています。
東海道(とうかいどう)名所(めいしょ)之(の)内(うち) 四(よ)ツ谷(や)
製作時期(せいさくじき):文久(ぶんきゅう)3年(ねん)(1863)。板元(はんもと):越平(こしひら)(越村屋平助(こしむらやへいすけ)) 文久(ぶんきゅう)3年(ねん)(1863)の十四代(じゅうよんだい)将軍家茂(しょうぐんいえもち)の上洛(じょうらく)を意識(いしき)して出版(しゅっぱん)された東海道(とうかいどう)シリーズで「上洛東海道(じょうらくとうかいどう)」と言(い)われているものです。このシリーズは、どの作品(さくひん)にも武士(ぶし)の姿(すがた)や大名行列(だいみょうぎょうれつ)が描(えが)かれています。 東海道(とうかいどう)の宿場(しゅくば)だけではなく、街道筋(かいどうすじ)の名所(めいしょ)も取(と)り上(あ)げているため、150枚(まい)を越(こ)える膨大(ぼうだい)な揃(そろ)い物(ぶつ)となっています。 描(えが)いている絵師(えし)も三代歌川豊国(さんだいうたがわとよくに)、二代広重(にだいひろしげ)をはじめ、十数名(じゅうすうめい)の当時(とうじ)の売(う)れっ子(こ)絵師(えし)が分担(ぶんたん)して描(えが)いています。
東海道(とうかいどう) 大津(おおつ)(御(ご)上洛(じょうらく)東海道(とうかいどう))
製作時期(せいさくじき):文久(ぶんきゅう)3年(ねん)(1863)。 板元(はんもと):越平(こしひら)(越村屋平助(こしむらやへいすけ)) 草津名物(くさつめいぶつ)の姥(うば)が餅(もち)を売(う)る茶屋(ちゃや)の風景(ふうけい)です。 先触(さきぶ)れに促(うなが)され、土下座(どげざ)をして行列(ぎょうれつ)を待(ま)つ人(ひと)の姿(すがた)も見(み)えます。 文久(ぶんきゅう)3年(ねん)(1863)の十四代(じゅうよんだい)将軍家茂(しょうぐんいえもち)の上洛(じょうらく)を意識(いしき)して出版(しゅっぱん)された東海道(とうかいどう)シリーズで「上洛東海道(じょうらくとうかいどう)」と言(い)われているものです。このシリーズは、どの作品(さくひん)にも武士(ぶし)の姿(すがた)や大名行列(だいみょうぎょうれつ)が描(えが)かれています。 東海道(とうかいどう)の宿場(しゅくば)だけではなく、街道筋(かいどうすじ)の名所(めいしょ)も取(と)り上(あ)げているため、150枚(まい)を越(こ)える膨大(ぼうだい)な揃(そろ)い物(ぶつ)となっています。 描(えが)いている絵師(えし)も三代歌川豊国(さんだいうたがわとよくに)、二代広重(にだいひろしげ)をはじめ、十数名(じゅうすうめい)の当時(とうじ)の売(う)れっ子(こ)絵師(えし)が分担(ぶんたん)して描(えが)いています。
東海道(とうかいどう) 草津(くさつ)(御(ご)上洛(じょうらく)東海道(とうかいどう))