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江の島の歴史
江の島歴史年表
江の島散策マップ
江の島の文化財
江の島を訪れた人々
資料種類しりょうしゅるい(大分類だいぶんるい):
資料種類しりょうしゅるい(中分類ちゅうぶんるい):
資料種類しりょうしゅるい(小分類しょうぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(大分類だいぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(中分類ちゅうぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(小分類しょうぶんるい):
作者さくしゃ(50音分類おんぶんるい):
作者さくしゃ:
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江(え)の島(しま)と同様(どうよう)に、弁財天(べんざいてん)が祀(まつ)(まつ)られたとされる金華山(きんかざん)現(げん)宮城県石巻市(みやぎけんいしのまきし)を描(えが)いた絵図(えず)です。弁財天(べんざいてん)を祀(まつ)る江(え)の島(しま)と厳島(いつくしま)現(げん)広島県廿日市市(ひろしまけんはつかいちし)、竹生(ちくぶ)島(しま)(現(げん)滋賀県長浜市(しがけんながはまし))の三ヶ所(さんかしょ)を「日本(にっぽん)三(さん)弁天(べんてん)」と呼(よ)び、ここに天河(てんかわ)現(げん)奈良県天川村(ならけんてんかわむら))と金華山(きんかざん)を加(くわ)えた五(ご)ヶ所(かしょ)の総称(そうしょう)を「日本(にっぽん)五(ご)弁天(べんてん)」といいます。
陸奥(みちのく)金華山(きんかざん)絵図(えず)
製作(せいさく)時期(じき):嘉永(かえい)6年(ろくねん)(1853)。板元(はんもと):丸蔦(まるつた) 土山宿(つちやましゅく)は茶屋(ちゃや)の様子(ようす)が描(えが)かれています。縁台(えんだい)に座(すわ)っていると、厚化粧(あつげしょう)の女性(じょせい)が給仕(きゅうじ)に出(で)てきてびっくり。着物(きもの)の柄(え)の「当(あ)たり矢(や)」は「矢場(やば)」を意味(いみ)し、矢場(やば)=女郎(じょろう)屋(や)の隠語(いんご)です。 石部宿(いしべしゅく)と言(い)えば、帯屋(おびや)の長右衛門(ちょうえもん)と臨家(りんか) 信濃屋(しなのや)の娘(むすめ)お半(はん)の心中(しんじゅう)噺(ばなし)を扱(あつか)った浄瑠璃(じょうるり)「桂川(かつらがわ)連理柵(れんりのしがらみ)(「お半(はん)長右衛門(ちょうえもん)」と言(い)い馴(な)らされた)」で、二人(ふたり)が泊(と)まり合(あ)わせた宿(やど)の所在地(しょざいち)として有名(ゆうめい)でした。描(えが)かれた二人(ふたり)は、少女(しょうじょ)のお半(はん)と帯屋(おびや)主人(しゅじん)の長右衛門(ちょうえもん)と想像(そうぞう)されます。 歌川派(うたがわは)の多(おお)くの浮世絵師(うきよえし)が東海道(とうかいどう)五十三次(ごじゅうさんつぎ)シリーズを描(えが)いていますが、芳(よし)員(かず)が描(えが)いたこのシリーズは、各(かく)宿場(しゅくば)にまつわる伝説(でんせつ)や逸話(いつわ)を面白(おもしろ)おかしく紹介(しょうかい)しています。全般的(ぜんぱんてき)に横(よこ)小判(しょうばん)の絵(え)の中(なか)にはユーモラスな図柄(ずがら)が多(おお)いとも言(い)われます。
東海道五十三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ)之(の)内(うち)石部(いしべ)
板元(はんもと):丸蔦(まるつた) 品川(しながわ)の波止場(はとば)で踊(おど)りを踊(おど)っているのを、右側(みぎがわ)の男性(だんせい)が呆(あき)れた様子(ようす)で見(み)ている図(ず)です。左側(ひだりがわ)の男性(だんせい)は、幕末(ばくまつ)当時(とうじ)、外国人居留地(がいこくじんきょりゅうち)などで流行(はや)っていた「チョンキナ踊(おど)り(野球拳(やきゅうけん)のようなもの)」を真似(まね)ているものでしょうか。着物(きもの)の柄(え)も合(あ)わせてチョンチョンと鳴(な)く雀(すずめ)の模様(もよう)。 歌川派(うたがわは)の多(おお)くの浮世絵師(うきよえし)が東海道(とうかいどう)五十三次(ごじゅうさんつぎ)シリーズを描(えが)いていますが、芳員(よしかず)が描(えが)いたこのシリーズは、各(かく)宿(しゅく)場(ば)にまつわる伝説(でんせつ)や逸(いつ)話(わ)を面白(おもしろ)おかしく紹介(しょうかい)しています。全(ぜん)般(ぱん)的(てき)に横(よこ)小(しょう)判(ばん)の絵(え)の中(なか)にはユーモラスな図(ず)柄(がら)が多(おお)いとも言(い)われます。
東海道五十三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ)之(の)内(うち) 品川(しながわ)
板元(はんもと):丸蔦(まるつた) 江戸時代(えどじだい)には日本橋(にほんばし)(東海道(とうかいどう)のスタート地点(ちてん))に魚河岸(うおがし)(魚市場(うおいちば))がありました。江戸(えど)っ子(こ)の大好(だいす)きな魚(さかな)は鰹(かつお)です。しかし男(おとこ)の人(ひと)は、トンビに鰹(かつお)をさらわれてしまったようです。 歌川派(うたがわは)の多(おお)くの浮世絵師(うきよえし)が東海道(とうかいどう)五十三次(ごじゅうさんつぎ)シリーズを描(えが)いていますが、芳員(よしかず)が描(えが)いたこのシリーズは、各(かく)宿(しゅく)場(ば)にまつわる伝説(でんせつ)や逸(いつ)話(わ)を面白(おもしろ)おかしく紹介(しょうかい)しています。全(ぜん)般(ぱん)的(てき)に横(よこ)小(しょう)判(ばん)の絵(え)の中(なか)にはユーモラスな図(ず)柄(がら)が多(おお)いとも言(い)われます。
東海道五十三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ)之(の)内(うち) 日本橋(にほんばし)
製作時期(せいさくじき):明治(めいじ)8年(ねん)。 板元(はんもと):山清(やませい)(山崎屋清七(やまざきやせいしち)) 画面手前(がめんてまえ)の江(え)の島(しま)一(いち)の鳥居(とりい)を通(とお)り江(え)の島(しま)詣(もうで)へ向(む)かう人々(ひとびと)、画面中央(がめんちゅうおう)には遊行寺橋(ゆぎょうじばし)、画面右奥(がめんみぎおく)には遊行寺(ゆぎょうじ)が見(み)えます。初代広重(しょだいひろしげ)も描(えが)いた藤沢宿(ふじさわしゅく)のおなじみの景色(けしき)ですが、太鼓橋(たいこばし)だった遊行寺橋(ゆぎょうじばし)は、明治(めいじ)になると人力車(じんりきしゃ)や馬車(ばしゃ)の通行(つうこう)に対応(たいおう)するために、西洋式(せいようしき)の平(たい)らな橋(はし)に架(か)け替(か)えられました。 画中(がちゅう)にも、橋(はし)の上(うえ)を通(とお)る人力車(じんりきしゃ)や馬(うま)が見(み)えます。画面右(がめんみぎ)の橋(はし)のたもとにある茶屋(ちゃや)らしき建物(たてもの)には窓(まど)がつけられており、ところどころに文明開化(ぶんめいかいか)の影響(えいきょう)がみられます。 馬(うま)に乗(の)っている人物(じんぶつ)は外国人(がいこくじん)の男性(だんせい)と思(おも)われます。 当時(とうじ)、横浜(よこはま)の居留地(きょりゅうち)に滞在(たいざい)する外国人(がいこくじん)の外出(がいしゅつ)は十里(じゅうり)四方(しほう)(約(やく)40km)以内(いない)との制限(せいげん)がありました。藤沢宿(ふじさわしゅく)はその範囲(はんい)内(ない)にあたるので、実際(じっさい)にもこのように外国人(がいこくじん)が通行(つうこう)する場面(ばめん)があったのかもしれません。 三代広重(さんだいひろしげ)描(えが)くこのシリーズは、明治前期(めいじぜんき)の東海道各宿駅(とうかいどうかくしゅくえき)の風景(ふうけい)が華(はな)やかな色彩(しきさい)(幕末(ばくまつ)から明治初期(めいじしょき)に海外(かいがい)からあざやかな科学顔料(かがくがんりょう)が入(はい)り使用(しよう)される)で描(えが)かれています。
東海(とうかい)名所(めいしょ) 改正(かいせい)道中(どうちゅう)記(き) 八(はち) 平塚(ひらつか)迄(まで)三(さん)り半(はん) 藤澤(ふじさわ) 江(え)のしまみちの鳥居(とりい)
製作時期(せいさくじき):慶応(けいおう)3年(ねん)(1867)。 板元(はんもと):伊勢鉄(いせてつ) ちりめん絵(え)は一見(いっけん)小(ちい)さな錦絵(にしきえ)のように見(み)えますが、実(じつ)は和紙(わし)に摺(す)った普通(ふつう)の大(おお)きさの錦絵(にしきえ)を、棒(ぼう)に巻(ま)きつけ縮(ちぢ)めて作(つく)ったものです。 近(ちか)くで見(み)ると、ちりめんに似(に)た細(こま)かい皺(しわ)があります。ちりめん絵(え)は外国(がいこく)向(む)けのものとして量産(りょうさん)され、クレープ・ジャポン(ちりめん織(おり)をフランス語(ご)でクレープと呼(よ)ぶ)、略(りゃく)してクレポンと呼(よ)ばれました。 当時(とうじ)は比較的(ひかくてき)安価(あんか)に買(か)えたものであったらしく、画家(がか)のゴッホもちりめん絵(え)を多(おお)く集(あつ)めていたとされます。 人気(にんき)歌舞伎役者(かぶきやくしゃ)をゆかりの宿場(しゅくば)を背景(はいけい)に描(えが)いたシリーズ。「一眼(ひとめ)(目(め))千両(せんりょう)」とは、一目(ひとめ)見(み)ただけで千両(せんりょう)という大金(たいきん)を払(はら)う価値(かち)があるというたとえです。 上部(じょうぶ)の風景(ふうけい)を二代広重(にだいひろしげ)、下部(かぶ)の人物(じんぶつ)を国周(くにちか)が分担(ぶんたん)して画(か)いています。 人物(じんぶつ)は白波五人男(しらなみごにんおとこ)の一人(ひとり)で江(え)の島(しま)(藤沢(ふじさわ))ゆかりの弁天小僧菊之助(べんてんこぞうきくのすけ)で、扮(ふん)するは四代市村家橘(よんだいいちむらかきつ)(のちの五代尾上菊五郎(ごだいおのえきくごろう))です。画(え)は女装(じょそう)した弁天小僧(べんてんこぞう)が見栄(みえ)を切(き)って、有名(ゆうめい)な「知(し)らざあ(ー)言(い)って聞(き)かせやしょう」のセリフを言(い)おうというところ。 背景(はいけい)の藤沢宿(ふじさわしゅく)の風景(ふうけい)は、初代広重(しょだいひろしげ)の保永堂版(ほえいどうばん)東海道(とうかいどう)の構図(こうず)を使(つか)っています。右上(みぎうえ)の文章(ぶんしょう)は戯作者(げさくしゃ)の山々亭有人(さんさんていありんど)が書(か)いています。
東海道(とうかいどう)一(ひ)卜(と)眼(め)千(せん)両(りょう) 藤沢(ふじさわ) 弁天小僧菊之助(べんてんこぞうきくのすけ)
製作時期(せいさくじき):慶応元年(けいおうがんねん)(1865)。 板元(はんもと):相ト(あいと) このシリーズは全版(ぜんはん)を通(とお)し右上部(みぎじょうぶ)に描(えが)かれた扇(おうぎ)の中(なか)に末廣五十三次(すえひろごじゅうさんつぎ)と書(か)かれているため「末広東海道(すえひろとうかいどう)」と呼(よ)ばれています。慶応元年(けいおうがんねん)五月(ごがつ)に将軍家茂(しょうぐんいえもち)は、第二次長州出兵(だいにじちょうしゅうしゅっぺい)のため、江戸(えど)を出発(しゅっぱつ)しました。「末広東海道(すえひろとうかいどう)」は、この時(とき)に将軍(しょうぐん)に付(つ)き従(したが)って上洛(じょうらく)する幕府軍(ばくふぐん)の姿(すがた)を各(かく)宿(しゅく)の風景(ふうけい)の中(なか)に描(えが)いたものです。 芳年(よしとし)、二代国輝(にだいくにてる)、三代広重(さんだいひろしげ)等(など)、幕末(ばくまつ)を代表(だいひょう)する浮世絵師(うきよえし)が各宿(かくしゅく)を分担(ぶんたん)しています。 画(が)は藤沢宿(ふじさわしゅく)を過(す)ぎて南湖(なんご)の松並木(まつなみき)の中(なか)を行(い)く行列(ぎょうれつ)で、構図(こうず)は松(まつ)のかたちまで、初代広重(しょだいひろしげ)描(えが)く「竪絵東海道(たてえとうかいどう)」のものとほとんど同(おな)じです。
末廣(すえひろ)五十三次(ごじゅうさんつぎ) 藤沢(ふじさわ) 南湖(なんご)の松原(まつばら)
製作時期(せいさくじき):慶応元年(けいおうがんねん)(1865)。 板元(はんもと)印(しるし)なし 二代広重(にだいひろしげ)は初代広重(しょだいひろしげ)長女(ちょうじょ)との結婚以前(けっこんいぜん)の重宣時代(しげのぶじだい)、二代広重(にだいひろしげ)時代(じだい)、離婚後(りこんご)横浜(よこはま)に住(す)んでからの立祥時代(りゅうしょうじだい)(慶応元年(けいおうがんねん)~明治二年(めいじにねん))のそれぞれの画銘(がめい)の時(とき)に数点(すうてん)の東海道(とうかいどう)シリーズを残(のこ)しています。
東海道(とうかいどう)五拾(ごじゅう)三(さん)駅(えき) 京都(きょうと) 内裏(だいり)