Fujisawa Net Museum

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製作時期(せいさくじき):明治(めいじ)8(ねん)
板元(はんもと):山清(やませい)(山崎屋清七(やまざきやせいしち))

(うま)()農夫(のうふ)や、地元(じもと)()どもたちなど、江戸時代(えどじだい)()わらぬのどかな街道(かいどう)風景(ふうけい)(えが)かれていますが、画中(がちゅう)()える電信柱(でんしんばしら)存在(そんざい)時代(じだい)(うつ)()わりを(かん)じます。

画面(がめん)(みぎ)()える竹垣(たけがき)沼津垣(ぬまづがき)()ばれるものです。駿河湾(するがわん)(めん)した沼津(ぬまづ)では(つよ)西風(にしかぜ)()くため、家屋(かおく)農作物(のうさくもつ)(まも)るために(おお)われるものです。

三代広重(さんだいひろしげ)(えが)くこのシリーズは、明治前期(めいじぜんき)東海道各宿駅(とうかいどうかくしゅくえき)風景(ふうけい)(はな)やかな色彩(しきさい)(幕末(ばくまつ)から明治初期(めいじしょき)海外(かいがい)からあざやかな科学顔料(かがくがんりょう)(はい)使用(しよう)される)で(えが)かれています。

東海名所 改正道中記 十四 沼津

東海(とうかい)名所(めいしょ) 改正(かいせい)道中(どうちゅう)() 十四(じゅうよん) 足柄山(あしがらやま)(けい) 沼津(ぬまづ) はら(まで)(いち)(はん)

製作時期(せいさくじき):明治(めいじ)8(ねん)
板元(はんもと):山清(やませい)(山崎屋清七(やまざきやせいしち))

景勝地(けいしょうち)として()られた鴫立沢(しぎたつさわ)場面(ばめん)(えが)いています。(まつ)()()(なら)街道(かいどう)をゆく人々(ひとびと)と、その後景(こうけい)相模湾(さがみわん)(ひろ)がっています。 (まつ)()のふもとでは、巡礼者(じゅんれいしゃ)一行(いっこう)休憩(きゅうけい)をしているようです。現在(げんざい)も、大磯(おおいそ)(とお)東海道沿(とうかいどうぞ)いには松並木(まつなみき)(おお)(のこ)されています。

三代広重(さんだいひろしげ)(えが)くこのシリーズは、明治前期(めいじぜんき)東海道各宿駅(とうかいどうかくしゅくえき)風景(ふうけい)(はな)やかな色彩(しきさい)(幕末(ばくまつ)から明治初期(めいじしょき)海外(かいがい)からあざやかな科学顔料(かがくがんりょう)(はい)使用(しよう)される)で(えが)かれています。

東海名所 改正道中記 十 大磯

東海(とうかい)名所(めいしょ) 改正(かいせい)道中記(どうちゅうき) (じゅう) 小田原(おだわら)(まで)()() 大磯(おおいそ) (しぎ)立沢(たつさわ)

製作時期(せいさくじき):明治(めいじ)8(ねん)
板元(はんもと):山清(やませい)(山崎屋清七(やまざきやせいしち))

馬入川(ばにゅうがわ)(わた)しの景色(けしき)(えが)いています。馬入川(ばにゅうがわ)相模川(さがみがわ)下流域(かりゅういき)名称(めいしょう)です。明治(めいじ)11(ねん)(1878)に馬入川(ばにゅうがわ)最初(さいしょ)木桁橋(もくげたきょう)()けられるまで、江戸時代(えどじだい)()わりなく(わた)(ぶね)利用(りよう)していました。
馬入(ばにゅう)(わた)しは、富士山(ふじさん)大山(おおやま)(のぞ)める名所(めいしょ)として、初代広重(しょだいひろしげ)(ころ)からも浮世絵(うきよえ)(えが)かれました。
茅葺(かやぶ)屋根(やね)家屋(かおく)や、(わた)(ぶね)()着物姿(きものすがた)人々(ひとびと)など、一見(いっけん)江戸時代(えどじだい)景色(けしき)()わらぬように()えますが、(わた)(ぶね)()せられた人力車(じんりきしゃ)や、この(ふね)()(おく)れたのか、(きし)()ちつくしている男性(だんせい)()()っている洋傘(ようがさ)などから、文明開化(ぶんめいかいか)影響(えいきょう)(かん)じられます。

三代広重(さんだいひろしげ)(えが)くこのシリーズは、明治前期(めいじぜんき)東海道各宿駅(とうかいどうかくしゅくえき)風景(ふうけい)(はな)やかな色彩(しきさい)(幕末(ばくまつ)から明治初期(めいじしょき)海外(かいがい)からあざやかな科学顔料(かがくがんりょう)(はい)使用(しよう)される)で(えが)かれています。

東海名所 改正道中記 九 平塚 馬入川の渡し

東海(とうかい)名所(めいしょ) 改正(かいせい)道中(どうちゅう)() (きゅう) 大磯(おおいそ)(まで)廿(にじゅう)(なな)(ちょう) 平塚(ひらつか) 馬入川(ばにゅうがわ)(わた)



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