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江の島の歴史
江の島歴史年表
江の島散策マップ
江の島の文化財
江の島を訪れた人々
資料種類しりょうしゅるい(大分類だいぶんるい):
資料種類しりょうしゅるい(中分類ちゅうぶんるい):
資料種類しりょうしゅるい(小分類しょうぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(大分類だいぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(中分類ちゅうぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(小分類しょうぶんるい):
作者さくしゃ(50音分類おんぶんるい):
作者さくしゃ:
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農家(のうか)による稲作(いなさく)の時間(じかん)経過(けいか)を描(えが)いた浮世絵(うきよえ)です。左上(ひだりうえ)から斜(なな)めに右下(みぎした)に向(む)かう様(よう)に田植(たう)えから収穫(しゅうかく)へと進(すす)みます。右(みぎ)の家屋(かおく)の中(なか)にはモミ殻(がら)やゴミを飛(と)ばす唐箕(とうみ)や稲(いな)こきなど様々(さまざま)な精米(せいまい)の道具(どうぐ)が描(えが)かれています。絵(え)の真(ま)ん中(なか)あたりに赤(あか)い服(ふく)を着(き)た子供(こども)が、亀(かめ)にひもをつけてひいている姿(すがた)など全体的(ぜんたいてき)にほのぼのとした風景(ふうけい)です。
農民(のうみん)耕作(こうさく)之(の)図(ず)
「かゐこやしなひ草(ぐさ)」は、勝川(かつかわ)春章(しゅんしょう)と北尾重政(きたおしげまさ)が描(えが)いた12枚(まい)1組(くみ)の揃(そろい)物(もの)で、それぞれが6枚(まい)ずつ担当(たんとう)しています。蚕(かいこ)を育(そだ)て、生糸(きいと)を取(と)って、絹糸(きぬいと)を作(つく)り、製品(せいひん)化(か)して売(う)るまでの様子(ようす)を描(えが)いたもので、四番目(よんばんめ)の作品(さくひん)です。 画面(がめん)上部(じょうぶ)には、「蚕(かいこ)の四度目(よんどめ)の休(やす)みを大(おお)ねむりといいます。じきに起(お)きる頃合(ころあ)いを見計(みはか)らって、次(つぎ)の用意(ようい)をしています」と場面(ばめん)の説明(せつめい)が書(か)かれています。 蚕(かいこ)は、四回(よんかい)脱皮(だっぴ)をしますが、脱皮(だっぴ)の間(あいだ)は動(うご)かなくなるので、それを「眠(みん)」といいます。この場面(ばめん)は、四回(よんかい)目(め)の脱皮(だっぴ)(四眠(しみん))の様子(ようす)を描(えが)いています。四回(よんかい)脱皮(だっぴ)をした蚕(かいこ)は大(おお)きく育(そだ)ち、繭(まゆ)を作(つく)ります。 勝川(かつかわ)春章(しゅんしょう)は、宮川春水(みやがわしゅんすい)、高(こう)崇(すう)谷(こく)に学(まな)び、版画(はんが)、版本(はんぽん)挿絵(さしえ)、肉筆(にくひつ)浮世絵(うきよえ)で活躍(かつやく)しました。特(とく)に役者絵(やくしゃえ)では、従来(じゅうらい)の鳥居(とりい)派(は)の描法(びょうほう)から離(はな)れ、写実的(しゃじつてき)な役者(やくしゃ)似顔(にがお)を描(えが)き、好評(こうひょう)を得(え)ました。
かゐこやしなひ草(ぐさ) 第四(だいよん)
養蚕(ようさん)(製糸(せいし))は、幕府(ばくふ)の奨励(しょうれい)や藩(はん)の殖産(しょくさん)政策(せいさく)により、幕末期(ばくまつき)には各地(かくち)で盛(さか)んになり、養蚕(ようさん)・製糸(せいし)にかかわる浮世絵(うきよえ)も盛(さか)んに描(えが)かれるようになりました。 「蚕(かいこ)いとなみの図(ず)」は、蚕(かいこ)から生糸(きいと)が作(つく)られる作業(さぎょう)過程(かてい)を図(ず)にしたもので、作業(さぎょう)する人々(ひとびと)に交(ま)じって七福神(しちふくじん)が働(はたら)いているユーモラスな作品(さくひん)になっています。蚕(かいこ)から生糸(きいと)ができるまでの工程(こうてい)が8場面(ばめん)に分(わ)けて描(えが)かれています。 場面(ばめん)ごとに短冊形(たんざくがた)の中(なか)に、作業(さぎょう)内容(ないよう)が書(か)かれています。 ① 生(う)まれた蚕(かいこ)を育(そだ)てるために紙(かみ)に移(うつ)します ② 蚕(かいこ)の餌(えさ)の桑(くわ)の葉(は)を細(こま)かに刻(きざ)んでいます ③ 大(おお)きくなった蚕(かいこ)のために桑(くわ)の葉(は)を集(あつ)めます ④ 十分(じゅうぶん)に育(そだ)った蚕(かいこ)を箱(はこ)へ取(と)り分(わ)けます ⑤ 繭(まゆ)を煮(に)て、綿(わた)にします ⑤綿(わた)を干(ほ)します ⑥ 繭(まゆ)を引(ひ)いて、生糸(きいと)を作(つく)ります ⑦ 蛾(が)になる蚕(かいこ)の繭(まゆ)を枝(えだ)から取(と)り出(だ)します ⑧ 蛾(が)になった蚕(かいこ)を空(そら)に放(はな)します なぜか、⑤が2か所(しょ)ありますね。続(つづ)き作業(さぎょう)だからでしょうか。説明(せつめい)に出(で)てくる綿(わた)は、木綿(もめん)ではなくて、真綿(まわた)です。真綿(まわた)は、繭(まゆ)を煮(に)て引(ひ)き延(の)ばして綿状(めんじょう)にした絹(きぬ)の元(もと)です。交(ま)じって働(はたら)いている七福神(しちふくじん)は、①大黒天(だいこくてん) ③布袋(ほてい) ④毘沙門天(びしゃもんてん) ⑤福禄寿(ふくろくじゅ) ⑥恵比寿(えびす) ⑦寿老人(じゅろうじん) ⑧弁財天(べんざいてん)です。神様(かみさま)たちも機嫌(きげん)よく働(はたら)いています。七福神(しちふくじん)と一緒(いっしょ)なら、質(しつ)のいい生糸(きいと)ができあがりそうです。
蚕(かいこ)いとなみの図(ず)(七福神(しちふくじん))
土(つち)粘土(ねんど)で作(つく)られた土(つち)人形(にんぎょう)や紙(かみ)を貼(は)り合(あ)わせた張(は)り子(こ)の作(つく)り物(もの)がたくさん吊(つ)るされています。江戸時代(えどじだい)に楽(たの)しまれた玩具(がんぐ)であり、主(おも)におめでたい物(もの)や珍(めずら)しい物(もの)が好(この)まれていました。この絵(え)には、七福神(しちふくじん)の宝船(たからぶね)、酒樽(さかだる)や動物(どうぶつ)の象(ぞう)の姿(すがた)も見(み)えます。また、制作(せいさく)年(ねん)の慶応(けいおう)3年(ねん)(1867)が日本(にほん)の開国(かいこく)後(ご)であり、外国船(がいこくせん)(黒船(くろふね))の姿(すがた)も見(み)ることができます。
夕涼(ゆうすずみ)流行(りゅうこう)手遊(てあそ)び 当世(とうせい)はやり商人(しょうにん)
浜辺(はまべ)から海浜(かいひん)一帯(いったい)の景観(けいかん)を描(えが)いています。画面(がめん)前景(ぜんけい)には松(まつ)が植(う)わる海浜(かいひん)、後景(こうけい)には山(やま)が連(つら)なり奥行(おくゆ)きの深(ふか)い画面(がめん)構成(こうせい)です。広々(ひろびろ)とした水景(すいけい)が広(ひろ)がり、陸(りく)には人物(じんぶつ)や馬(うま)、舟(ふね)が描(えが)かれています。画面(がめん)に点在(てんざい)する松(まつ)はどれも異(こと)なる形状(けいじょう)で描(えが)かれ、ぐにゃりと曲(ま)がる様(さま)は、今(いま)にも動(うご)き出(だ)しそうです。 松並木(まつなみき)は街道(かいどう)を往来(おうらい)する旅人(たびびと)にとって道(みち)しるべでもあり、日陰(ひかげ)をつくるだけでなく、風雨(ふうう)から身(み)を守(まも)り、休息(きゅうそく)の場(ば)にもなりました。この作品(さくひん)が描(えが)かれた場所(ばしょ)は特定(とくてい)できませんが、東海道(とうかいどう)を始(はじ)めとする街道(かいどう)沿(ぞ)いには、こうした松並木(まつなみき)が多(おお)く植(う)えられています。 作者(さくしゃ)の伊村(いむら)栄(えい)以(い)(1798?-1863)は幕末(ばくまつ)水戸(みと)藩(はん)の絵師(えし)で狩野(かのう)派(は)・晴川(せいせん)院(いん)養信(おさのぶ)(1796-1846)の門弟(もんてい)です。「山内(やまうち)伊村(いむら)」と表記(ひょうき)する場合(ばあい)もあります。栄(えい)以(い)に関(かん)しては多(おお)くが謎(なぞ)に包(つつ)まれていますが、天保(てんぽう)12年(ねん)(1841)5月(がつ)9日(にち)に徳丸(とくまる)原(がはら)で行(おこな)われた西洋(せいよう)式(しき)の砲術(ほうじゅつ)訓練(くんれん)の様子(ようす)を詳細(しょうさい)に描(えが)いた『高島(たかしま)四郎(しろう)太夫(たいふ)砲術(ほうじゅつ)稽古(けいこ)業(わざ)見分(けんぶん)之(の)図(ず)』(板橋(いたばし)区立(くりつ)郷土(きょうど)資料館(しりょうかん)蔵(くら))が知(し)られています。
題名(だいめい)不詳(ふしょう)(海浜(かいひん)図(ず)小(しょう)屏風(びょうぶ))
明治(めいじ)8年(ねん)(1875)発行(はっこう)の全国(ぜんこく)物産(ぶっさん)一覧(いちらん)の相模(さがみ)国(くに)部分(ぶぶん)です。 藤沢(ふじさわ)・鎌倉(かまくら)近辺(きんぺん)では、「貝細工(かいざいく)」や海産物(かいさんぶつ)が多(おお)く挙(あ)げられていますが、江(い)豚(るか)が「江(え)の島(しま)より出(で)づ」となっています。また、茅ケ崎(ちがさき)の十間坂(じっけんざか)の名産(めいさん)として「星(ほし)降(ふり)梅(うめ)」が記(しる)されています。
日本物(にほんぶっ)産地(さんじ)引(びき)
宿場(しゅくば)についたばかりの旅人(たびびと)たちでしょうか。画面(がめん)右側(みぎがわ)には、駕籠(かご)から降(お)りようとしている女性(じょせい)、中央(ちゅうおう)には、三宝荒神(さんぼうこうじん)と呼(よ)ばれた三人(さんにん)乗(の)りの鞍(くら)を乗(の)せた馬子(まご)が引(ひ)いている馬(うま)に女性(じょせい)と子供(こども)二人(ふたり)が乗(の)っています。 宿屋(やどや)らしき建物(たてもの)の外壁(がいへき)に立(た)てかけてある看板(かんばん)に、「江戸(えど)地本(じほん)問屋(どんや) 大々(だいだい)講中(こうちゅう)」と書(か)かれています。これは定宿(じょうやど)札(ふだ)で、旅籠(はたご)を定宿(じょうやど)にしているお得意様(とくいさま)である講(こう)の名称(めいしょう)を書(か)いたものです。太々(だいだい)講(こう)(大々(だいだい)講(こう)、代々(だいだい)講(こう)とも書(か)く)とは、伊勢神宮(いせじんぐう)の参詣(さんけい)のために結成(けっせい)された信徒(しんと)集団(しゅうだん)で、旅費(りょひ)を積(つ)み立(た)てておいて、くじに当(あ)たった者(もの)が講(こう)仲間(なかま)の代表(だいひょう)として参詣(さんけい)します。神宮(じんぐう)に太々神楽(だいだいかぐら)を奉納(ほうのう)するので伊勢(いせ)太々(だいだい)講(こう)とも言(い)いました。太々神楽(だいだいかぐら)は、一般(いっぱん)参詣人(さんけいにん)が奉納(ほうのう)する最(もっと)も大(おお)がかりな神楽(かぐら)で、江戸時代(えどじだい)、御師(おんし)の邸内(ていない)で半日(はんにち)にわたって催(もよお)されました。 喜多川月麿(きたがわつきまろ)は、歌麿(うたまろ)の門人(もんじん)で、初(はじ)め、菊麿(きくまろ)の名(な)で錦(にしき)絵(え)を描(か)いていましたが、のちに喜久麿(きくまろ)、月麿(つきまろ)と改名(かいめい)します。美人画(びじんが)や黄表紙(きびょうし)(挿絵(さしえ)のある読(よ)み本(ほん))の挿絵(さしえ)などで活躍(かつやく)しました。
題名(だいめい)不詳(ふしょう)(大々(だいだい)講中(こうちゅう))
明治(めいじ)13年(ねん)(1880年に東京(とうきょう)の新富座(しんとみざ)で上演(じょうえん)された歌舞伎舞踊(かぶきぶよう)「首尾(しゅびも)四谷(よつや)(しゅびもよつや)色(いろに)大山(おおやま)(いろにおおやま)」を描(えが)いた作品(さくひん)です。大山(おおやま)詣(もうで)を題材(だいざい)にした演目(えんもく)で、題名(だいめい)は「首尾(しゅび)も良(よ)し」の“よし”に、大山道(おおやまみち)(おおやまみち)入口(いりぐち)の地名(ちめい)「四(よ)ツ谷(や)(よつや)」(藤沢市城南(ふじさわしじょうなん))の“よつ”を掛(か)けたものです。 主要人物(しゅようじんぶつ)7人(にん)(展示(てんじ)では6人(にん)分(ぶん))を役者(やくしゃ)の似顔(にがお)で一(いち)枚(まい)ずつ描(えが)いています。
大山(おおやま)詣(まいり)役者(やくしゃ)見立(みたて) 升(ます)右衛門(えもん) 市川団十郎(いちかわだんじゅうろう)