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江の島の歴史
江の島歴史年表
江の島散策マップ
江の島の文化財
江の島を訪れた人々
資料種類しりょうしゅるい(大分類だいぶんるい):
資料種類しりょうしゅるい(中分類ちゅうぶんるい):
資料種類しりょうしゅるい(小分類しょうぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(大分類だいぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(中分類ちゅうぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(小分類しょうぶんるい):
作者さくしゃ(50音分類おんぶんるい):
作者さくしゃ:
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製作(せいさく)時期(じき):天保(てんぽう)11年(ねん)頃(ごろ)(1840)。 板元(はんもと):佐野屋(さのや)喜兵衛(きへえ) このシリーズは図柄(ずがら)の中(なか)に狂歌(きょうか)が1首(しゅ)ずつ折(お)り込(こ)まれているために俗(ぞく)に「狂歌(きょうか)入(いり)東海道(とうかいどう)」と呼(よ)ばれています。 保永(ほえい)堂(どう)版(ばん)と反対(はんたい)に遊行寺(ゆぎょうじ)の側(がわ)から大鋸橋(だいぎりばし) (現(げん)遊行寺橋(ゆぎょうじばし))と江(え)の島(しま)一ノ(いちの)鳥居(とりい)を描(えが)いたもので、背景(はいけい)にある山(やま)は大山(おおやま)です。 橋(はし)の上(うえ)の人物(じんぶつ)が担(かつ)いでいるのは御神酒(おみき)枠(わく)(大山(おおやま)から水(みず)や酒(さけ)を持(も)ち帰(かえ)るためのもの)で大山(おおやま)詣(もうで)を象徴(しょうちょう)しています。橋(はし)のたもとの高札場(こうさつば)など、宿場(しゅくば)の様子(ようす)も窺(うかが)えます。
東海道五拾三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ) 藤沢(ふじさわ)(狂歌(きょうか)入(いり)東海道(とうかいどう))
狂歌(きょうか):霞(かすみ)日(び)を とつかの駅路(えきろ) とつかはと いそぎて旅(たび)を 双六(すごろく)のうへ(遊竹館一調) 戸塚宿(とつかしゅく)の西側(にしがわ)にあたる大坂(おおさか)の風景(ふうけい)です。戸塚宿(とつかしゅく)は東側(ひがしがわ)(江戸(えど)側(がわ))に権(ごん)太(た)坂(ざか)、西側(にしがわ)(京(きょう)側(がわ))に大(だい)坂(さか)と、坂(さか)に挟(はさ)まれた宿場(しゅくば)であるため、それぞれの坂(さか)を越(こ)えた旅人(たびびと)が休憩(きゅうけい)をとる場所(ばしょ)として賑(にぎ)わっていました。画面(がめん)手前(てまえ)の松(まつ)は、街道(かいどう)の両側(りょうがわ)の傾斜(けいしゃ)から、まるで街道(かいどう)を見下(みお)ろすように立(た)ち、画面(がめん)中央(ちゅうおう)の街道(かいどう)または画面(がめん)奥(おく)に見(み)える戸塚宿(とつかしゅく)に視点(してん)が集中(しゅうちゅう)するような工夫(くふう)が感(かん)じられます。
東海道五拾三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ) 戸塚(とつか)(狂歌(きょうか)入(いり)東海道(とうかいどう))
狂歌(きょうか):諺(ことわざ)の まはるもはやき 双六(すごろく)や いそげばいそぐ 程(ほど)がやのえき(遊鶴亭千代子) 境木(さかいぎ)の立場(たてば)の情景(じょうけい)が描(えが)かれています。立場(たてば)の茶屋(ちゃや)からの景色(けしき)を楽(たの)しむ客(きゃく)や、店(みせ)の外(そと)で駕籠(かご)に乗(の)ったまま注文(ちゅうもん)する客(きゃく)、茶屋(ちゃや)のすぐ前(まえ)の街道(かいどう)を行(い)き交(か)う人々(ひとびと)などが描(えが)かれ、立場(たてば)の賑(にぎ)わいが伝(つた)わってきます。生(お)い茂(しげ)る松(まつ)の木(き)や色(いろ)味(み)を抑(おさ)えた背景(はいけい)に、色彩(しきさい)豊(ゆた)かな茶屋(ちゃや)の風景(ふうけい)が映(は)える作品(さくひん)です。
東海道五拾三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ) 保土ヶ谷(ほどがや) 境木(さかいぎ)立場(たてば)(狂歌(きょうか)入(いり)東海道(とうかいどう))
狂歌(きょうか):双六(すごろく)の 旅(たび)もいろはの かな川(がわ)に あがるもたのし 春雨(はるさめ)の空(そら)(松本亭篶躬) 神奈川(かながわ)台(だい)のはずれにある簡素(かんそ)な茶屋(ちゃや)と、その後景(こうけい)に広(ひろ)がる神奈川(かながわ)沖(おき)が描(えが)かれています。神奈川(かながわ)沖(おき)の右(みぎ)奥(おく)に見(み)えるのは野毛(のげ)と本牧(ほんもく)です。海上(かいじょう)をすすむ帆船(はんせん)は遠(とお)くなるにつれて小(ちい)さく描(えが)かれ、画面(がめん)奥(おく)へと続(つづ)く広大(こうだい)な海(うみ)が表現(ひょうげん)されています。神奈川(かながわ)台(だい)の高台(たかだい)から海(うみ)を見渡(みわた)す風景(ふうけい)が評判(ひょうばん)となり、神奈川(かながわ)台(だい)には多(おお)くの茶屋(ちゃや)が軒(のき)を連(つら)ね賑(にぎ)わっていましたが、この画(が)ではその喧騒(けんそう)から離(はな)れてのどかな風景(ふうけい)が描(えが)かれています。
東海道五拾三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ) 神奈川(かながわ)(狂歌(きょうか)入(いり)東海道(とうかいどう))
狂歌(きょうか):春霞(はるがすみ) ともに立(たち)出(で)て めをとばし わたりつるみの 心(こころ)のとけし(春園静枝) 六郷(ろくごう)川(がわ)を西側(にしがわ)(川崎(かわさき)側(がわ))の岸(きし)から見(み)た景色(けしき)です。六郷川(ろくごうがわ)を行(い)き交(か)う渡(わた)し舟(ぶね)には、多(おお)くの人(ひと)が乗(の)る様子(ようす)が見(み)え、川崎宿(かわさきしゅく)あたりの交通量(こうつうりょう)の多(おお)さがうかがえます。画面(がめん)左下(ひだりした)にみえる簡素(かんそ)な小屋(こや)は川(かわ)会所(かいしょ)で、川(かわ)を渡(わた)る人々(ひとびと)はここで料金(りょうきん)を払(はら)っていました。川岸(かわぎし)で舟(ふね)を待(ま)つ親子(おやこ)や、話(はな)し込(こ)むような女性(じょせい)の姿(すがた)など、街道(かいどう)をゆく人々(ひとびと)の情景(じょうけい)も描(えが)かれています。
東海道五拾三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ) 川崎(かわさき)(狂歌(きょうか)入(いり)東海道(とうかいどう))
狂歌(きょうか):送(おく)り来(く)る 旅(たび)の別(わかれ)も 親(おや)舟(ふね)を 見(み)かへりながら 過(すぎ)る品川(しながわ)(花前亭友頼) 手前(てまえ)に品川宿(しながわしゅく)を俯瞰的(ふかんてき)に描(えが)き、その右(みぎ)奥(おく)に漁師町(りょうしまち)と品川(しながわ)沖(おき)が広(ひろ)がっています。宿場(しゅくば)に描(えが)かれる人々(ひとびと)は旅人(たびびと)だけでなく、膳(ぜん)を運(はこ)ぶ人(ひと)や棒手振(ぼてふ)り(行商人(ぎょうしょうにん))、または客(きゃく)を運(はこ)ぶ駕籠(かご)かきなどが忙(せわ)しなく行(い)き交(か)っています。中(ちゅう)景(けい)の左(ひだり)には帆(ほ)をたたみ停泊(ていはく)する廻船(かいせん)が見(み)え、賑(にぎ)やかな宿場(しゅくば)と対照(たいしょう)に穏(おだ)やかな海(うみ)が描(えが)かれています。
東海道五拾三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ) 品川(しながわ)(狂歌(きょうか)入(いり)東海道(とうかいどう))
狂歌(きょうか):日本橋(にほんばし) たゞ(だ)一(ひと)すぢに都(みやこ)まで 遠(とお)くて近(ちか)き はるがすみかな(あのや幸久) 画面(がめん)手前(てまえ)を横切(よこぎ)るように描(えが)かれた日本橋(にほんばし)を、大名行列(だいみょうぎょうれつ)が渡(わた)る様子(ようす)を描(えが)いています。橋(はし)向(む)こうに立(た)ち並(なら)ぶ蔵(くら)や、川(かわ)の両(りょう)岸(きし)に停泊(ていはく)する舟(ふね)は、一点(いってん)透視(とうし)図法(ずほう)を用(もち)いて描(えが)かれています。遠景(えんけい)の右(みぎ)には江戸城(えどじょう)の城郭(じょうかく)、左(ひだり)には富士山(ふじさん)が描(えが)かれおり、浮(う)かぶように描(えが)かれた富士山(ふじさん)と、大名行列(だいみょうぎょうれつ)の高(たか)く伸(の)びた毛槍(けやり)でもって画面(がめん)上部(じょうぶ)に空(そら)の広(ひろ)がりを演出(えんしゅつ)しています。
東海道五拾三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ) 日本橋(にほんばし)(狂歌(きょうか)入(いり)東海道(とうかいどう))
制作(せいさく)時期(じき):万延(まんえん)元年(がんねん)(1860)1212月(がつ)。板元(はんもと):相(あい)卜(ぼく) 七里ガ浜(しちりがはま)の小動(こゆるぎ)崎(さき)の付近(ふきん)を牛(うし)の背(せ)に揺(ゆ)られながら江(え)の島(しま)に向(む)かう光(ひかり)の君(きみ)、画題(がだい)には「七里ヶ浜(しちりがはま)遊覧(ゆうらん)之(の)図(ず)」としかありませんが、図様(ずよう)は柳亭種彦(りゅうていたねひこ)作(さく)、歌川国貞(うたがわくにさだ)(三代(さんだい)豊国(とよくに))画(が)の大長編(だいちょうへん)合巻(ごうかん)『偐紫田舎源氏(にせむらさきいなかげんじ)』全(ぜん)38巻(かん)の文政(ぶんせい)12年(ねん)(1829年(ねん))から天保(てんぽう)13年(ねん)(1842年(ねん))にかけて刊行(かんこう)された、略称(りゃくしょう)『田舎(いなか)源氏(げんじ)』の主人公(しゅじんこう)光(ひかり)の君(きみ)が七里ガ浜(しちりがはま)を遊覧(ゆうらん)しているところを描(えが)いている見立絵(みたてえ)です。田舎(いなか)源氏(げんじ)は『源氏物語(げんじものがたり)』を草子(そうし)形式(けいしき)に翻案(ほんあん)したもので、「偐紫」は似(に)せ、偽(にせ)紫式部(むらさきしきぶ)で「田舎(いなか)」は卑俗(ひぞく)なまがい物(もの)の『源氏物語(げんじものがたり)』を意味(いみ)します。この田舎(いなか)源氏(げんじ)は刊行(かんこう)以来(いらい)大変(たいへん)な人気(にんき)を呼(よ)びましたが、天保(てんぽう)の改革(かいかく)で筆禍(ひっか)を受(う)けて中絶(ちゅうぜつ)し、著者(ちょしゃ)種彦(たねひこ)も没(ぼっ)してしまいますが、水野忠邦(みずのただくに)失脚(しっきゃく)後(ご)に復活(ふっかつ)します。そして原作(げんさく)挿絵(さしえ)の名(めい)場面(ばめん)を錦絵(にしきえ)化(か)して刊行(かんこう)し、いわゆる「源氏絵(げんじえ)」の流行(りゅうこう)となり、歌川派(うたがわは)の絵師(えし)のほとんどがこの画題(がだい)を手掛(てが)けています。また歌舞伎(かぶき)にも採用(さいよう)され、「内裡(だいり)模様(もよう)源氏紫(げんじのえどころ)」(天保(てんぽう)9年(ねん))、「東山(ひがしやま)桜(さくら)荘子(そうし)」・「源氏(げんじ)模様(もよう)娘(むすめ)雛形(ひながた)」(嘉永(かえい)4年(ねん))などがあります。これらのうち浄瑠璃(じょうるり)「名(めい)夕顔(ゆうがお)雨(あめ)の旧寺(ふるでら)」は「古寺(ふるでら)」という名(な)で現在(げんざい)も上演(じょうえん)されることもあります。版画(はんが)の作例(さくれい)として最(もっと)も早(はや)いものは、初代(しょだい)国貞(くにさだ)の「偐紫田舎源氏(にせむらさきいなかげんじ)」(大判(おおばん)、天保(てんぽう)期(き))が数(すう)種(しゅ)出版(しゅっぱん)されています。また「亀戸(かめいど)天満宮(てんまんぐう)奉納(ほうのう)田舎(いなか)源氏(げんじ)額面(がくめん)写(うつし)」(天保(てんぽう)10年(ねん)刊(かん))があります。
七里ケ浜(しちりがはま)遊覧(ゆうらん)之(の)図(ず) 江(え)のしま眺望(ちょうぼう)之景(のけい)