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江の島の歴史
江の島歴史年表
江の島散策マップ
江の島の文化財
江の島を訪れた人々
資料種類しりょうしゅるい(大分類だいぶんるい):
資料種類しりょうしゅるい(中分類ちゅうぶんるい):
資料種類しりょうしゅるい(小分類しょうぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(大分類だいぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(中分類ちゅうぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(小分類しょうぶんるい):
作者さくしゃ(50音分類おんぶんるい):
作者さくしゃ:
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明治(めいじ)5年(ねん)(1872)に新橋(しんばし)-横浜(よこはま)間(かん)で開通(かいつう)された鉄道(てつどう)のうち、新橋(しんばし)-品川(しながわ)間(かん)では、陸地(りくち)ではなく高輪(たかなわ)の海上(かいじょう)に堤防(ていぼう)を築(きず)き、その上(うえ)を鉄道(てつどう)が通(かよ)っていました。 この作品(さくひん)の発行(はっこう)は鉄道(てつどう)が開通(かいつう)する前年(ぜんねん)であるので、画(が)中(ちゅう)に描(えが)かれている蒸気機関車(じょうききかんしゃ)なども絵師(えし)の想像(そうぞう)で描(えが)かれたものと思(おも)われます。
東京(とうきょう)高輪(たかなわ)海岸(かいがん)蒸気(じょうき)車(しゃ)鉄道(てつどう)ノ図(ず)
横浜(よこはま)の高島町(たかしまちょう)(たかしまちょう)を通(とお)る蒸気(じょうき)車(しゃ)が描(えが)かれています。その後(うし)ろに見(み)える3階建(かいだ)ての建物(たてもの)は横浜(よこはま)の開港(かいこう)場(じょう)近(ちか)くから高島町(たかしまちょう)に移転(いてん)された遊郭(ゆうかく)(ゆうかく)です。高島町(たかしまちょう)は明治(めいじ)5年(ねん)(1872)に新橋(しんばし)-横浜(よこはま)間(かん)で開通(かいつう)された鉄道(てつどう)の、線路(せんろ)敷設(ふせつ)のために海(うみ)を埋(う)め立(た)てて造(つく)られた土地(とち)です。遠景(えんけい)の横浜港(よこはまこう)には洋船(ようせん)がみえます。画面(がめん)上部(じょうぶ)中央(ちゅうおう)の枠(わく)には「テツドウジョウキシャツウカウノヅ」(鉄道(てつどう)蒸気(じょうき)車(しゃ)通行(つうこう)の図(ず))とあり、画面(がめん)左上(ひだりうえ)の枠(わく)には運賃(うんちん)が記(しる)されています。
横浜(よこはま)新(しん)埋(うめ)地(ち)高嶋町(たかしまちょう)揚屋(あげや)三階(さんかい)造(づくり)海岸(かいがん)遠景(えんけい)之(の)図(ず)
製作時期(せいさくじき):明治(めいじ)8年(ねん)。 板元(はんもと):山清(やませい)(山崎屋清七(やまざきやせいしち)) 馬(うま)を引(ひ)く農夫(のうふ)や、地元(じもと)の子(こ)どもたちなど、江戸時代(えどじだい)と変(か)わらぬのどかな街道(かいどう)の風景(ふうけい)が描(えが)かれていますが、画中(がちゅう)に見(み)える電信柱(でんしんばしら)の存在(そんざい)に時代(じだい)の移(うつ)り変(か)わりを感(かん)じます。 画面(がめん)右(みぎ)に見(み)える竹垣(たけがき)は沼津垣(ぬまづがき)と呼(よ)ばれるものです。駿河湾(するがわん)に面(めん)した沼津(ぬまづ)では強(つよ)い西風(にしかぜ)が吹(ふ)くため、家屋(かおく)や農作物(のうさくもつ)を守(まも)るために覆(おお)われるものです。 三代広重(さんだいひろしげ)描(えが)くこのシリーズは、明治前期(めいじぜんき)の東海道各宿駅(とうかいどうかくしゅくえき)の風景(ふうけい)が華(はな)やかな色彩(しきさい)(幕末(ばくまつ)から明治初期(めいじしょき)に海外(かいがい)からあざやかな科学顔料(かがくがんりょう)が入(はい)り使用(しよう)される)で描(えが)かれています。
東海(とうかい)名所(めいしょ) 改正(かいせい)道中(どうちゅう)記(き) 十四(じゅうよん) 足柄山(あしがらやま)の景(けい) 沼津(ぬまづ) はら迄(まで)一(いち)り半(はん)
製作時期(せいさくじき):明治(めいじ)8年(ねん)。 板元(はんもと):山清(やませい)(山崎屋清七(やまざきやせいしち)) 三代広重(さんだいひろしげ)描(えが)くこのシリーズは、明治前期(めいじぜんき)の東海道各宿駅(とうかいどうかくしゅくえき)の風景(ふうけい)が華(はな)やかな色彩(しきさい)(幕末(ばくまつ)から明治初期(めいじしょき)に海外(かいがい)からあざやかな科学顔料(かがくがんりょう)が入(はい)り使用(しよう)される)で描(えが)かれています。
東海(とうかい)名所(めいしょ) 改正(かいせい)道中(どうちゅう)記(き) 十三(じゅうさん) 沼津(ぬまづ)迄(まで)一(いち)り半(はん)三嶋(みしま) 明神(みょうじん)の社内(しゃない)
製作時期(せいさくじき):明治(めいじ)8年(ねん)。 板元(はんもと):山清(やませい)(山崎屋清七(やまざきやせいしち)) 芦ノ湖(あしのこ)とそのまわりを取(と)り囲(かこ)む山々(やまやま)、そして後景(こうけい)に配(はい)された雪(ゆき)深(ふか)い富士山(ふじさん)の存在感(そんざいかん)が際立(きわだ)ちます。芦ノ湖(あしのこ)のほとりに立(た)つ一行(いっこう)は旅人(たびびと)でしょうか。画面右手(がめんみぎて)に続(つづ)く街道(かいどう)には、箱根(はこね)の街道(かいどう)の名物(めいぶつ)でもある石畳(いしだたみ)が見(み)えます。 三代広重(さんだいひろしげ)描(えが)くこのシリーズは、明治前期(めいじぜんき)の東海道各宿駅(とうかいどうかくしゅくえき)の風景(ふうけい)が華(はな)やかな色彩(しきさい)(幕末(ばくまつ)から明治初期(めいじしょき)に海外(かいがい)からあざやかな科学顔料(かがくがんりょう)が入(はい)り使用(しよう)される)で描(えが)かれています。
東海(とうかい)名所(めいしょ) 改正(かいせい)道中(どうちゅう)記(き) 十二(じゅうに) 三(み)しま迄(まで)三(さん)り二十(にじゅう)八(はっ)丁(ちょう) 箱根(はこね) 山上(さんじょう)の湖水(こすい)
製作時期(せいさくじき):明治(めいじ)8年(ねん)。 板元(はんもと):山清(やませい)(山崎屋清七(やまざきやせいしち)) 酒匂川(さかわがわ)に架(か)けられた木橋(きばし)の上(うえ)を、旅人(たびびと)や人力車(じんりきしゃ)が通行(つうこう)しています。画面奥(がめんおく)には箱根連山(はこねれんざん)が連(つら)なっています。 江戸時代(えどじだい)から徒歩渡(かちわた)しが行(おこな)われていた酒匂川(さかわがわ)の渡(わた)しですが、冬(ふゆ)の渇水期(かっすいき)などには仮橋(かりはし)が架(か)けられました。 三代広重(さんだいひろしげ)描(えが)くこのシリーズは、明治前期(めいじぜんき)の東海道各宿駅(とうかいどうかくしゅくえき)の風景(ふうけい)が華(はな)やかな色彩(しきさい)(幕末(ばくまつ)から明治初期(めいじしょき)に海外(かいがい)からあざやかな科学顔料(かがくがんりょう)が入(はい)り使用(しよう)される)で描(えが)かれています。
東海(とうかい)名所(めいしょ) 改正(かいせい)道中(どうちゅう)記(き) 十一(じゅういち) 小田原(おだわら) 酒匂川(さかわがわ)の仮(かり)ばし
製作時期(せいさくじき):明治(めいじ)8年(ねん)。 板元(はんもと):山清(やませい)(山崎屋清七(やまざきやせいしち)) 景勝地(けいしょうち)として知(し)られた鴫立沢(しぎたつさわ)の場面(ばめん)を描(えが)いています。松(まつ)の木(き)が立(た)ち並(なら)ぶ街道(かいどう)をゆく人々(ひとびと)と、その後景(こうけい)に相模湾(さがみわん)が広(ひろ)がっています。 松(まつ)の木(き)のふもとでは、巡礼者(じゅんれいしゃ)の一行(いっこう)が休憩(きゅうけい)をしているようです。現在(げんざい)も、大磯(おおいそ)を通(とお)る東海道沿(とうかいどうぞ)いには松並木(まつなみき)が多(おお)く残(のこ)されています。 三代広重(さんだいひろしげ)描(えが)くこのシリーズは、明治前期(めいじぜんき)の東海道各宿駅(とうかいどうかくしゅくえき)の風景(ふうけい)が華(はな)やかな色彩(しきさい)(幕末(ばくまつ)から明治初期(めいじしょき)に海外(かいがい)からあざやかな科学顔料(かがくがんりょう)が入(はい)り使用(しよう)される)で描(えが)かれています。
東海(とうかい)名所(めいしょ) 改正(かいせい)道中記(どうちゅうき) 十(じゅう) 小田原(おだわら)迄(まで)四(よ)ん里(り) 大磯(おおいそ) 鴫(しぎ)立沢(たつさわ)
製作時期(せいさくじき):明治(めいじ)8年(ねん)。 板元(はんもと):山清(やませい)(山崎屋清七(やまざきやせいしち)) 馬入川(ばにゅうがわ)の渡(わた)しの景色(けしき)を描(えが)いています。馬入川(ばにゅうがわ)は相模川(さがみがわ)の下流域(かりゅういき)の名称(めいしょう)です。明治(めいじ)11年(ねん)(1878)に馬入川(ばにゅうがわ)に最初(さいしょ)の木桁橋(もくげたきょう)が架(か)けられるまで、江戸時代(えどじだい)と変(か)わりなく渡(わた)し舟(ぶね)を利用(りよう)していました。 馬入(ばにゅう)の渡(わた)しは、富士山(ふじさん)と大山(おおやま)を望(のぞ)める名所(めいしょ)として、初代広重(しょだいひろしげ)の頃(ころ)からも浮世絵(うきよえ)に描(えが)かれました。 茅葺(かやぶ)き屋根(やね)の家屋(かおく)や、渡(わた)し舟(ぶね)に乗(の)る着物姿(きものすがた)の人々(ひとびと)など、一見(いっけん)、江戸時代(えどじだい)の景色(けしき)と変(か)わらぬように見(み)えますが、渡(わた)し舟(ぶね)に乗(の)せられた人力車(じんりきしゃ)や、この舟(ふね)に乗(の)り遅(おく)れたのか、岸(きし)に立(た)ちつくしている男性(だんせい)が手(て)に持(も)っている洋傘(ようがさ)などから、文明開化(ぶんめいかいか)の影響(えいきょう)が感(かん)じられます。 三代広重(さんだいひろしげ)描(えが)くこのシリーズは、明治前期(めいじぜんき)の東海道各宿駅(とうかいどうかくしゅくえき)の風景(ふうけい)が華(はな)やかな色彩(しきさい)(幕末(ばくまつ)から明治初期(めいじしょき)に海外(かいがい)からあざやかな科学顔料(かがくがんりょう)が入(はい)り使用(しよう)される)で描(えが)かれています。
東海(とうかい)名所(めいしょ) 改正(かいせい)道中(どうちゅう)記(き) 九(きゅう) 大磯(おおいそ)迄(まで)廿(にじゅう)七(なな)丁(ちょう) 平塚(ひらつか) 馬入川(ばにゅうがわ)の渡(わた)し