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江の島の歴史
江の島歴史年表
江の島散策マップ
江の島の文化財
江の島を訪れた人々
資料種類しりょうしゅるい(大分類だいぶんるい):
資料種類しりょうしゅるい(中分類ちゅうぶんるい):
資料種類しりょうしゅるい(小分類しょうぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(大分類だいぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(中分類ちゅうぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(小分類しょうぶんるい):
作者さくしゃ(50音分類おんぶんるい):
作者さくしゃ:
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製作時期(せいさくじき):万延元年(まんえん)(1860)。板元(はんもと):當世屋(とうせいや)(品川屋久助(しながわやきゅうすけ)) 草津(くさつ)の矢倉(やぐら)(やぐら)の立場(たちば)では茶屋(ちゃや)の「姥が餅(うばがもち)」が有名(ゆうめい)でした。弥次(やじ)さんがその姥が餅(うばがもち)を一気(いっき)に七(なな)つも口(くち)に入(い)れたところ、喉(のど)につかえて、すべて吐(は)き出(だ)してしまいました。 このシリーズは大(だい)ヒットした十返舎一九(じっぺんしゃいっく)の『東海道中膝栗毛(とうかいどうちゅうひざくりげ)』を摸(も)して作(つく)られています。各宿(かくしゅく)には弥次(やじ)さん、北(きた)さんが登場(とうじょう)し、芳幾(よしいく)が二人(ふたり)のくりひろげる道中(どうちゅう)模様(もよう)をユーモラスに描(えが)き、魯文(ろぶん)が各宿(かくしゅく)のテーマとなる文章(ぶんしょう)、狂歌一句(きょうかいっく)と二人(ふたり)の会話(かいわ)をおもしろおかしく記(しる)しています。
東海道(とうかいどう)中(ちゅう)栗毛(くりげ)彌次馬(やじうま) 草津(くさつ)
製作時期(せいさくじき):万延元年(まんえん)(1860)。板元(はんもと):當世屋(とうせいや)(品川屋久助(しながわやきゅうすけ)) 店(みせ)の看板(かんばん)に「鯰(なまず)の蒲焼(かばやき)」とかかれています。江戸時代(えどじだい)にはナマズも一般的(いっぱんてき)に食(た)べられていたようです。画中(がちゅう)のナマズがとても大(おお)きく描(えが)かれていますが、これは大津(おおつ)の土産物(みやげもの)として有名(ゆうめい)だった大津絵(おおつえ)から発展(はってん)した鯰絵(なまずえ)を意識(いしき)したものと思(おも)われます。 このシリーズは大(だい)ヒットした十返舎一九(じっぺんしゃいっく)の『東海道中膝栗毛(とうかいどうちゅうひざくりげ)』を摸(も)して作(つく)られています。各宿(かくやど)には弥次(やじ)さん、北(きた)さんが登場(とうじょう)し、芳幾(よしいく)が二人(ふたり)のくりひろげる道中(どうちゅう)模様(もよう)をユーモラスに描(えが)き、魯文(ろぶん)が各宿(かくしゅく)のテーマとなる文章(ぶんしょう)、狂歌一句(きょうかいっく)と二人(ふたり)の会話(かいわ)をおもしろおかしく記(しる)しています。
東海道(とうかいどう)中(ちゅう)栗毛(くりげ)彌次馬(やじうま) 大津(おおつ)
製作時期(せいさくじき):不明(ふめい)。落款(らっかん)なし 泥絵(どろえ)とは、泥絵具(どろえのぐ)という粗悪(そあく)な顔料(がんりょう)に胡粉(ごふん)を混(ま)ぜた絵具(えのぐ)で描(えが)いたもので、宝暦頃(ほうれきごろ)を最初(さいしょ)として、19世紀前中頃(せいきぜんなかごろ)まで職人(しょくにん)画工(がこう)の手(て)で作(つく)られた遠近法(えんきんほう)を主体(しゅたい)とした洋風表現(ようふうひょうげん)の強(つよ)い絵(え)のことです。眼鏡絵(めがねえ)として制作(せいさく)されたものが多(おお)いので、銅版(どうはん)や木版(もくはん)で制作(せいさく)された作品(さくひん)以外(いがい)の肉筆眼鏡絵(にくひつめがねえ)を泥絵(どろえ)と称(しょう)する場合(ばあい)もあります。この絵(え)も左右(さゆう)逆影(ぎゃくえい)に描(えが)かれており、のぞき眼鏡用(めがねよう)に制作(せいさく)されたものであることがわかります。左右(さゆう)を逆(ぎゃく)に反転(はんてん)すると、初代(しょだい)広重(ひろしげ)の「狂歌入り東海道(きょうかいりとうかいどう)」に似(に)た構図(こうず)の作品(さくひん)であることが分(わ)かります。「別(べつ)の画像(がぞう)を見(み)ます」で反転画像(はんてんがぞう)をご覧(らん)ください。
題名(だいめい)不詳(ふしょう)(藤沢宿(ふじさわしゅく)風景(ふうけい))
上下(じょうげ)2巻(かん)。江の島(えのしま)の出現(しゅつげん)(湧(わ)き出(だ)し)(訳注(やくちゅう):海(うみ)から島(しま)が湧(わ)き出(だ)したという伝説(でんせつ)をさしています)から島内(とうない)のさまざまな特徴(とくちょう)(雑記(ざっき))や、役行者(えんのぎょうじゃ)(訳注(やくちゅう):日本(にほん)で有名(ゆうめい)な呪術者(じゅじゅつしゃ))を始(はじ)めとする修行者(しゅぎょうしゃ)や江の島(えのしま)に係(かか)わりのある人々(ひとびと)の伝記(でんき)や言い伝(いいつた)えなどをまとめた書物(しょもつ)です。 江の島(えのしま)と富士山(ふじさん)がつながっているという伝説(でんせつ)がありますが、本書(ほんしょ)の「雑記(ざっき)」中(ちゅう)に「仁田抜穴(にったのぬけあな)」の記述(きじゅつ)があります。「山(やま)二(ふた)つより南(みなみ)の石壁(いしかべ)に昔(むかし)は穴(あな)の形(かたち)ち有(あり)しとなり、今(いま)はなし。伝(つた)う、仁田忠常(にったのただつね)、富士(ふじ)の人穴(ひとあな)より入(いり)て此(こ)の山(やま)の半(はん)腹(ぷく)へ抜(ぬ)け出(で)たりと云(い)う」穴(あな)の場所(ばしょ)は、地図(ちず)にも示(しめ)されています。
江島(えのしま)大艸(おおそう)紙(し)
製作時期(せいさくじき):万延(まんえん)元年(がんねん)(1860)。板元(はんもと):當世屋(とうせいや)(品川屋久助(しながわやきゅうすけ)) このシリーズは大(だい)ヒットした十返舎一九(じっぺんしゃいっく)の『東海道中膝栗毛(とうかいどうちゅうひざくりげ)』を摸(も)して作(つく)られています。各宿(かくしゅく)には弥次(やじ)さん、北(きた)さんが登場(とうじょう)し、芳幾(よしいく)が二人(ふたり)のくりひろげる道中(どうちゅう)模様(もよう)をユーモラスに描(えが)き、魯文(ろぶん)が各宿(かくしゅく)のテーマとなる文章(ぶんしょう)、狂歌一句(きょうかいっく)と二人(ふたり)の会話(かいわ)をおもしろおかしく記(しる)しています。
東海道(とうかいどう)中(ちゅう)栗毛(くりげ)彌次馬(やじうま) 五條(ごじょう)橋(ばし)
製作時期(せいさくじき):万延(まんえん)元年(がんねん)(1860)。板元(はんもと):當世屋(とうせいや)(品川屋久助(しながわやきゅうすけ)) 京(きょう)に着(つ)いた二人(ふたり)は、女商人(おんなしょうにん)から半(なか)ば強引(ごういん)に梯子(はしご)を買(か)わされてしまいます。邪魔(じゃま)な梯子(はしご)を担(かつ)ぎながら京(きょう)の街中(まちなか)を進(すす)みますが、次々(つぎつぎ)に人々(ひとびと)にぶつかっているようです。 このシリーズは大(だい)ヒットした十返舎(じっぺんしゃ)一九(いっく)の『東海道中膝栗毛(とうかいどうちゅうひざくりげ)』を摸(も)して作(つく)られています。各宿(かくやど)には弥次(やじ)さん、北(きた)さんが登場(とうじょう)し、芳幾(よしいく)が二人(ふたり)のくりひろげる道中(どうちゅう)模様(もよう)をユーモラスに描(えが)き、魯文(ろぶん)が各宿(かくしゅく)のテーマとなる文章(ぶんしょう)、狂歌(きょうか)一句(いっく)と二人(ふたり)の会話(かいわ)をおもしろおかしく記(しる)しています。
東海道(とうかいどう)中(ちゅう)栗毛(くりげ)彌次馬(やじうま) 京都(きょうと)
北側(きたがわ)の島(しま)の入口(いりぐち)にある青銅製(せいどうせい)の鳥居(とりい)のそばに「新地(しんち)」と記(しる)されています。ここは明治(めいじ)になってから埋(う)め立(た)てられた場所(ばしょ)です。参道(さんどう)に両脇(りょうわき)には、「江戸(えど)や」「さぬきや」「堺屋(さかいや)」「岩本楼(いわもとろう)」「恵比寿(えびす)や」といった旅館(りょかん)の名前(なまえ)が見(み)えます。二(ふた)つ目(め)の鳥居(とりい)の先(さき)には「学校(がっこう)」とあります。ここは片瀬小学校江(かたせしょうがっこうえ)の島分校(しまぶんこう)で、江戸時代(えどじだい)には三重塔(さんじゅうのとう)があったところです(現在(げんざい)の市民(しみん)の家(いえ)あたり)。「学校(がっこう)」から南(みなみ)(上方(かみがた))へ進(すす)むと、杉山検校(すぎやまけんぎょう)がその石(いし)につまづいて鍼(はり)の極意(ごくい)を会得(えとく)したという「福石(ふくいし)」があり、その先(さき)に「邊(辺)津宮(へつのみや)」があります。隣接(りんせつ)して「八坂神社(やさかじんじゃ)」があるのは現在(げんざい)も同(おな)じです。「辺津宮(へつみや)」から東(ひがし)へ行(い)くと「中津宮(なかつみや)」があります。「中津宮(なかつみや)」からさらに進(すす)むと左手(ひだりて)に洋風(ようふう)の建物(たてもの)があります。ここは横浜(よこはま)の貿易商(ぼうえきしょう)サムエル・コッキングが明治時代(めいじじだい)に居住(きょじゅう)した邸宅(ていたく)であると考(かんが)えられています(現在(げんざい)のガーデンパーラー )。さらに行(い)くと煉瓦(れんが)(れんが)の塀(へい)に囲(かこ)まれた「植物園(しょくぶつえん)」(現在(げんざい)のサムエル・コッキング苑(えん))が記(しる)されています。さらに進(すす)むと「奥津宮(おくつみや)」に至(いた)り、階段(かいだん)を下(くだ)ると「(嬰(稚児)が淵(ちごがふち))」、「御窟(おんいわや)(岩屋(いわや))」へと至(いた)ります。 入口(いりぐち)の青銅製(せいどうせい)の鳥居(とりい)を左側(ひだりがわ)には「東町(あずままち) 」と記(しる)されている漁師町(りょうしまち)が広(ひろ)がっています。また、関東大震災(かんとうだいしんさい)により隆起(りゅうき)した「聖天島(しょうてんじま)」が、まだ海(うみ)に突(つ)き出(で)ている状態(じょうたい)で描(えが)かれています。
相州(そうしゅう)江之島(えのしま)真景(しんけい)
デッサンスケール線(せん)の上(うえ)に江の島風景(えのしまふうけい)が描(えが)かれています。明治(めいじ)になり、西洋文化(せいようぶんか)を取(と)り入(い)れる中(なか)、奥行(おくゆ)きを正確(せいかく)に捉(とら)える遠近法(えんきんほう)や一点透視図法(いってんとうしずほう)、さらには黄金分割(おうごんぶんかつ)などの絵画(かいが)技法(ぎほう)を日本(にっぽん)でも取(と)り入(い)れるようになったことを物語(ものがた)っています。また明治(めいじ)22年(ねん)(1889)には東京美術学校(とうきょうびじゅつがっこう)(現(げん)・東京藝術大学(とうきょうげいじゅつだいがく))が開校(かいこう)し、西洋絵画(せいようかいが)の研究(けんきゅう)が急速(きゅうそく)に進(すす)められました。
相州(そうしゅう)江(え)之(の)嶋(しまの)之(の)真景(しんけい)