ふりがな
江の島の歴史
江の島歴史年表
江の島散策マップ
江の島の文化財
江の島を訪れた人々
資料種類しりょうしゅるい(大分類だいぶんるい):
資料種類しりょうしゅるい(中分類ちゅうぶんるい):
資料種類しりょうしゅるい(小分類しょうぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(大分類だいぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(中分類ちゅうぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(小分類しょうぶんるい):
作者さくしゃ(50音分類おんぶんるい):
作者さくしゃ:
フリーワード:
デッサンスケール線(せん)の上(うえ)に江の島風景(えのしまふうけい)が描(えが)かれています。明治(めいじ)になり、西洋文化(せいようぶんか)を取(と)り入(い)れる中(なか)、奥行(おくゆ)きを正確(せいかく)に捉(とら)える遠近法(えんきんほう)や一点透視図法(いってんとうしずほう)、さらには黄金分割(おうごんぶんかつ)などの絵画(かいが)技法(ぎほう)を日本(にっぽん)でも取(と)り入(い)れるようになったことを物語(ものがた)っています。また明治(めいじ)22年(ねん)(1889)には東京美術学校(とうきょうびじゅつがっこう)(現(げん)・東京藝術大学(とうきょうげいじゅつだいがく))が開校(かいこう)し、西洋絵画(せいようかいが)の研究(けんきゅう)が急速(きゅうそく)に進(すす)められました。
相州(そうしゅう)江(え)之(の)嶋(しまの)之(の)真景(しんけい)
製作時期(せいさくじき):文久(ぶんきゅう)3年(ねん)(1863)。 板元(はんもと):越平(こしひら)(越村屋平助(こしむらやへいすけ)) 島田宿(しまだしゅく)と金谷宿(かなやしゅく)の間(あいだ)を流(なが)れる大井川(おおいがわ)を、島田宿側(しまだしゅくがわ)から見(み)た風景(ふうけい)です。 大井川(おおいがわ)は川幅(かわはば)が広(ひろ)いうえに川筋(かわすじ)が一定(いってい)しないため、橋(はし)や舟(ふね)も渡(わた)せず、人足(にんそく)による徒歩渡(かちわた)しで渡(わた)るしかありませんでした。川(かわ)の増水(ぞうすい)で川留(かわど)めとなることも多(おお)く、そのため東海道一(とうかいどういち)の難所(なんしょ)として知(し)られていました。 文久(ぶんきゅう)3年(ねん)(1863)の十四代(じゅうよんだい)将軍家茂(しょうぐんいえもち)の上洛(じょうらく)を意識(いしき)して出版(しゅっぱん)された東海道(とうかいどう)シリーズで「上洛東海道(じょうらくとうかいどう)」と言(い)われているものです。 このシリーズは、どの作品(さくひん)にも武士(ぶし)の姿(すがた)や大名行列(だいみょうぎょうれつ)が描(えが)かれています。東海道(とうかいどう)の宿場(しゅくば)だけではなく、街道筋(かいどうすじ)の名所(めいしょ)も取(と)り上(あ)げているため、150枚(まい)を越(こ)える膨大(ぼうだい)な揃(そろ)い物(ぶつ)となっています。描(えが)いている絵師(えし)も三代歌川豊国(さんだいうたがわとよくに)、二代広重(にだいひろしげ)をはじめ、十数名(じゅうすうめい)の当時(とうじ)の売(う)れっ子(こ)絵師(えし)が分担(ぶんたん)して描(えが)いています。
東海道(とうかいどう) 嶌田(しまだ)(御(ご)上洛(じょうらく)東海道(とうかいどう))
製作時期(せいさくじき):文久(ぶんきゅう)3年(ねん)(1863)。板元(はんもと):越平(こしひら)(越村屋平助(こしむらやへいすけ)) 藤枝宿(ふじえだしゅく)を行列(ぎょうれつ)が通過(つうか)する場面(ばめん)を、旅籠(はたご)の中(なか)から見(み)た構図(こうず)となっています。 行列(ぎょうれつ)の手前(てまえ)で土下座(どげざ)をしている旅籠(はたご)の男性(だんせい)たちに対(たい)して、女中(じょちゅう)たちは興味津々(きょうみしんしん)といった様子(ようす)で顔(かお)をあげています。 旅籠(はたご)の店先(みせさき)にはいくつもの木札(きふだ)が下(さ)げられているのが見(み)えます。これらは講札(こうさつ)といい、参詣(さんけい)の旅(たび)をする講(こう)の一行(いっこう)が、あらかじめ決(き)められた茶屋(ちゃや)や旅籠(はたご)を見(み)つける目印(めじるし)として掲(かか)げられたものです。 まるで現代(げんだい)のツアー予約(よやく)のようなイメージです。 画面右手前(がめんみぎてまえ)の講札(こうさつ)には「絵草紙講中(えぞうしこうじゅう)」など洒落(しゃれ)のきいた創作(そうさく)の講(こう)が書(か)かれたものもあります。行列(ぎょうれつ)の向(む)こうに見(み)える旅籠(はたご)の看板(かんばん)には、この版(ばん)の版元(はんもと)を表(あらわ)す遠州屋(えんしゅうや)の文字(もじ)が記(しる)されています。 文久(ぶんきゅう)3年(ねん)(1863)の十四代(じゅうよんだい)将軍家茂(しょうぐんいえもち)の上洛(じょうらく)を意識(いしき)して出版(しゅっぱん)された東海道(とうかいどう)シリーズで「上洛東海道(じょうらくとうかいどう)」と言(い)われているものです。 このシリーズは、どの作品(さくひん)にも武士(ぶし)の姿(すがた)や大名行列(だいみょうぎょうれつ)が描(えが)かれています。東海道(とうかいどう)の宿場(しゅくば)だけではなく、街道筋(かいどうすじ)の名所(めいしょ)も取(と)り上(あ)げているため、150枚(まい)を越(こ)える膨大(ぼうだい)な揃(そろ)い物(ぶつ)となっています。描(えが)いている絵師(えし)も三代歌川豊国(さんだいうたがわとよくに)、二代広重(にだいひろしげ)をはじめ、十数名(じゅうすうめい)の当時(とうじ)の売(う)れっ子(こ)絵師(えし)が分担(ぶんたん)して描(えが)いています
東海道(とうかいどう) 藤枝(ふじえだ)(御(ご)上洛(じょうらく)東海道(とうかいどう))
製作時期(せいさくじき):文久(ぶんきゅう)3年(ねん)(1863)。板元(はんもと):越平(こしひら)(越村屋平助(こしむらやへいすけ)) 岡部宿(おかべしゅく)から鞠子宿(まりこしゅく)へ向(む)かう途中(とちゅう)には、宇津(うつ)の山(やま)(宇津之谷峠(うつのやとうげ))とよばれる峠道(とうげみち)を越(こ)えます。 本作(ほんさく)では宇津(うつ)の山(やま)で将軍(しょうぐん)が鷹狩(たかがり)をする様子(ようす)が描(えが)かれています。多(おお)くの家臣(かしん)たちに囲(かこ)まれ、椅子(いす)に座(すわ)り扇(おうぎ)を持(も)った人物(じんぶつ)が将軍(しょうぐん)でしょう。 そばに控(ひか)える多(おお)くの家臣(かしん)の表情(ひょうじょう)が細(こま)やかに描(えが)かれているのも印象的(いんしょうてき)です。 文久(ぶんきゅう)3年(ねん)(1863)の十四代(じゅうよんだい)将軍家茂(しょうぐんいえもち)の上洛(じょうらく)を意識(いしき)して出版(しゅっぱん)された東海道(とうかいどう)シリーズで「上洛東海道(じょうらくとうかいどう)」と言(い)われているものです。このシリーズは、どの作品(さくひん)にも武士(ぶし)の姿(すがた)や大名行列(だいみょうぎょうれつ)が描(えが)かれています。東海道(とうかいどう)の宿場(しゅくば)だけではなく、街道筋(かいどうすじ)の名所(めいしょ)も取(と)り上(あ)げているため、150枚(まい)を越(こ)える膨大(ぼうだい)な揃(そろ)い物(ぶつ)となっています。描(えが)いている絵師(えし)も三代歌川豊国(さんだいうたがわとよくに)、二代広重(にだいひろしげ)をはじめ、十数名(じゅうすうめい)の当時(とうじ)の売(う)れっ子(こ)絵師(えし)が分担(ぶんたん)して描(えが)いています
東海道(とうかいどう) 岡部(おかべ)(御(ご)上洛(じょうらく)東海道(とうかいどう))
製作時期(せいさくじき):文久(ぶんきゅう)3年(ねん)(1863)。 板元(はんもと):越平(こしひら)(越村屋平助(こしむらやへいすけ)) 鞠子(まりこ)(丸子(まるこ))宿(しゅく)といえば、とろろ汁(じる)が有名(ゆうめい)です。画中(がちゅう)でも、街道(かいどう)の両脇(りょうわき)に「とろろ汁(じる)」の看板(かんばん)を掲(かか)げた店(みせ)がいくつも連(つら)なっています。 鞠子宿(まりこしゅく)(現在(げんざい)は丸子(まるこ))は東海道(とうかいどう)で最(もっと)も小(ちい)さな宿駅(しゅくえき)でしたが、宇津之谷峠(うつのやとうげ)を控(ひか)えた休憩地(きゅうけいち)として賑(にぎ)わっていました。 画面手前右(がめんてまえみぎ)の茶屋(ちゃや)の店先(みせさき)にいる女性(じょせい)たちはちょうど行列(ぎょうれつ)に気(き)づいたところのようです。茶屋(ちゃや)の屋根(やね)の奥(おく)から、大名行列(だいみょうぎょうれつ)の先頭(せんとう)をゆく毛槍(けやり)が顔(かお)を出(だ)しています。 文久(ぶんきゅう)3年(ねん)(1863)の十四代(じゅうよんだい)将軍家茂(しょうぐんいえもち)の上洛(じょうらく)を意識(いしき)して出版(しゅっぱん)された東海道(とうかいどう)シリーズで「上洛東海道(じょうらくとうかいどう)」と言(い)われているものです。 このシリーズは、どの作品(さくひん)にも武士(ぶし)の姿(すがた)や大名行列(だいみょうぎょうれつ)が描(えが)かれています。東海道(とうかいどう)の宿場(しゅくば)だけではなく、街道筋(かいどうすじ)の名所(めいしょ)も取(と)り上(あ)げているため、150枚(まい)を越(こ)える膨大(ぼうだい)な揃(そろ)い物(ぶつ)となっています。描(えが)いている絵師(えし)も三代歌川豊国(さんだいうたがわとよくに)、二代広重(にだいひろしげ)をはじめ、十数名(じゅうすうめい)の当時(とうじ)の売(う)れっ子(こ)絵師(えし)が分担(ぶんたん)して描(えが)いています
東海道(とうかいどう) 鞠子(まりこ)(御(ご)上洛(じょうらく)東海道(とうかいどう))
製作時期(せいさくじき):文久(ぶんきゅう)3年(ねん)(1863)。 板元(はんもと):越平(こしひら)(越村屋平助(こしむらやへいすけ) 府中宿(ふちゅうしゅく)を行列(ぎょうれつ)が通(とお)ります。中景(ちゅうけい)にみえる黒(くろ)い門(もん)は、府中宿(ふちゅうしゅく)にあった二丁町(にちょうまち)の遊郭(ゆうかく)です。 ちょうど門(もん)の手前(てまえ)の見(み)える白馬(はくば)に赤(あか)い傘(かさ)をさしている人物(じんぶつ)が将軍(しょうぐん)に見立(みた)てられています。ぼかしの奥(おく)の後景(こうけい)には、駿府城(すんぷじょう)と、富士山(ふじさん)が大(おお)きく配(はい)されています。 文久(ぶんきゅう)3年(ねん)(1863)の十四代将軍(じゅうよんだいしょうぐん)家茂(いえもち)の上洛(じょうらく)を意識(いしき)して出版(しゅっぱん)された東海道(とうかいどう)シリーズで「上洛東海道(じょうらくとうかいどう)」と言(い)われているものです。 このシリーズは、どの作品(さくひん)にも武士(ぶし)の姿(すがた)や大名行列(だいみょうぎょうれつ)が描(えが)かれています。東海道(とうかいどう)の宿場(しゅくば)だけではなく、街道筋(かいどうすじ)の名所(めいしょ)も取(と)り上(あ)げているため、150枚(まい)を越(こ)える膨大(ぼうだい)な揃(そろ)い物(もの)となっています。描(えが)いている絵師(えし)も三代(さんだい)歌川豊国(うたがわとよくに)、二代(にだい)広重(ひろしげ)をはじめ、十数名(じゅうすうめい)を越(こ)える当時(とうじ)の売(う)れっ子(こ)絵師(えし)が分担(ぶんたん)して描(えが)いています。
東海道(とうかいどう) 府中(ふちゅう)(御(ご)上洛(じょうらく)東海道(とうかいどう))
製作時期(せいさくじき):文久(ぶんきゅう)3年(ねん)(1863)。 板元(はんもと):越平(こしひら)(越村屋平助(こしむらやへいすけ) 文久(ぶんきゅう)3年(ねん)(1863)の十四代将軍(じゅうよんだいしょうぐん)家茂(いえもち)の上洛(じょうらく)を意識(いしき)して出版(しゅっぱん)された東海道(とうかいどう)シリーズで「上洛東海道(じょうらくとうかいどう)」と言(い)われているものです。 このシリーズは、どの作品(さくひん)にも武士(ぶし)の姿(すがた)や大名行列(だいみょうぎょうれつ)が描(えが)かれています。東海道(とうかいどう)の宿場(しゅくば)だけではなく、街道筋(かいどうすじ)の名所(めいしょ)も取(と)り上(あ)げているため、150枚(まい)を越(こ)える膨大(ぼうだい)な揃(そろ)い物(もの)となっています。描(えが)いている絵師(えし)も三代(さんだい)歌川豊国(うたがわとよくに)、二代(にだい)広重(ひろしげ)をはじめ、十数名(じゅうすうめい)を越(こ)える当時(とうじ)の売(う)れっ子(こ)絵師(えし)が分担(ぶんたん)して描(えが)いています。
東海道(とうかいどう) 江尻(えじり)(御(ご)上洛(じょうらく)東海道(とうかいどう))
製作時期(せいさくじき):文久(ぶんきゅう)3年(ねん)(1863)。 板元(はんもと):越平(こしひら)(越村屋平助(こしむらやへいすけ) 空(そら)は黒(くろ)い雲(くも)で覆(おお)われ、雨(あめ)が激(はげ)しく降(ふ)る中(なか)、興津川(おきつがわ)の川辺(かわべ)を 行列(ぎょうれつ)が通(とお)り過(す)ぎています。行列(ぎょうれつ)の人々(ひとびと)は蓑(みの)を身(み)に着(つ)けています。 先払(さきばら)いと思(おも)われる帯刀(たいとう)した蓑姿(みのすがた)の2人(ふたり)が、見物(けんぶつ)する人(ひと)を追(お)いかけています。 画中(がちゅう)に記(しる)されている「惺々周麿(せいせいちかまろ)」とは、暁斎(きょうさい)の画号(がごう)の一(ひと)つです。 文久(ぶんきゅう)3年(ねん)(1863)の十四代将軍(じゅうよんだいしょうぐん)家茂(いえもち)の上洛(じょうらく)を意識(いしき)して出版(しゅっぱん)された東海道(とうかいどう)シリーズで「上洛東海道(じょうらくとうかいどう)」と言(い)われているものです。 このシリーズは、どの作品(さくひん)にも武士(ぶし)の姿(すがた)や大名行列(だいみょうぎょうれつ)が描(えが)かれています。東海道(とうかいどう)の宿場(しゅくば)だけではなく、街道筋(かいどうすじ)の名所(めいしょ)も取(と)り上(あ)げているため、150枚(まい)を越(こ)える膨大(ぼうだい)な揃(そろ)い物(もの)となっています。描(えが)いている絵師(えし)も三代(さんだい)歌川豊国(うたがわとよくに)、二代(にだい)広重(ひろしげ)をはじめ、十数名(じゅうすうめい)を越(こ)える当時(とうじ)の売(う)れっ子(こ)絵師(えし)が分担(ぶんたん)して描(えが)いています。
東海道(とうかいどう) 興津(おきつ)(御(ご)上洛(じょうらく)東海道(とうかいどう))