ふりがな
江の島の歴史
江の島歴史年表
江の島散策マップ
江の島の文化財
江の島を訪れた人々
資料種類しりょうしゅるい(大分類だいぶんるい):
資料種類しりょうしゅるい(中分類ちゅうぶんるい):
資料種類しりょうしゅるい(小分類しょうぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(大分類だいぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(中分類ちゅうぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(小分類しょうぶんるい):
作者さくしゃ(50音分類おんぶんるい):
作者さくしゃ:
フリーワード:
製作時期(せいさくじき):天保(てんぽう)10年頃(ねんごろ)(1839)。 板元(はんもと):佐野喜(さのきち)(佐野屋喜兵衛(さのやきへえ)) 左奥(ひだりおく)に描(えが)かれた小高(こだか)い塚(つか)が日本武尊(やまとたける)陵(りょう)(ヤマトタケルの墓(はか))と伝(つた)えられる白鳥塚(しらとりづか)(古墳(こふん))です。 手前(てまえ)の女性(じょせい)は、頭(あたま)に毛筋立(けすじたて)(そのまま「髪結(かみゆ)いに用(もち)いる櫛(くし)」でも可(か))を2本(ほん)挿(さ)していることから、髪結(かみゆ)いの女性(じょせい)と思(おも)われます。脇(わき)に抱(かか)えているのは髪結(かみゆ)いの道具箱(どうぐばこ)でしょう。 国貞(くにさだ)(三代豊国(さんだいとよくに)の前名(まえな))描(えが)くこの東海道(とうかいどう)シリーズは、各宿(かくやど)の風景(ふうけい)をバックにして前面(ぜんめん)に立(た)ち姿(すがた)の美人(びじん)を描(えが)いたもので、全(ぜん)シリーズを通(とお)し、バックの風景画(ふうけいが)は広重(ひろしげ)の保永堂版東海道(ほえいどうばんとうかいどう)に非常(ひじょう)によく似(に)ています。
東海道五十三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ)之(の)内(うち) 石薬師(いしやくし)ノ図(ず)
製作時期(せいさくじき):天保(てんぽう)10年頃(ねんごろ)(1839)。 板元(はんもと):佐野喜(さのきち)(佐野屋喜兵衛(さのやきへえ)) 宮宿(みやしゅく)からは、四日市宿(よっかいちしゅく)を除(のぞ)き、広重(ひろしげ)の保永堂版東海道(ほえいどうばんとうかいどう)の図(ず)を用(もち)いない背景(はいけい)へと変化(へんか)します。 これについては、国貞(くにさだ)の作品(さくひん)が広重(ひろしげ)の作品(さくひん)に先行(せんこう)して出版(しゅっぱん)されるようになったためではないかと推察(すいさつ)されています。 本作(ほんさく)の背景(はいけい)は『東海道名所図会(とうかいどうめいしょずえ)』巻之三(まきのさん)(寛政(かんせい)9年(ねん)[1797]刊(かん))より「宮駅(みやえき) 浜鳥居(はまとりい)」を参考(さんこう)にしていると考(かんが)えられますが、帆(ほ)を広(ひろ)げようとしている船(ふね)の図案(ずあん)などは、国貞(くにさだ)のオリジナルと思(おも)われます。宮宿(みやしゅく)は熱田神宮(あつたじんぐう)の門前町(もんぜんまち)で、画面(がめん)左手(ひだりて)にある鳥居(とりい)が浜鳥居(はまとりい)です。 手前(てまえ)の女性(じょせい)は右手(みぎて)に神事(しんじ)で用(もち)いる神楽鈴(かぐらすず)を持(も)ち、熱田神宮(あつたじんぐう)の巫女(みこ)に扮(ふん)したものでしょう。板元(はんもと)は森屋治兵衛(もりやじへえ)。 国貞(くにさだ)(三代豊国(さんだいとよくに)の前名(まえな))描(えが)くこの東海道(とうかいどう)シリーズは、各宿(かくやど)の風景(ふうけい)をバックにして前面(ぜんめん)に立(た)ち姿(すがた)の美人(びじん)を描(えが)いたもので、全(ぜん)シリーズを通(とお)し、バックの風景画(ふうけいが)は広重(ひろしげ)の保永堂版東海道(ほえいどうばんとうかいどう)に非常(ひじょう)によく似(に)ています。
東海道五十三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ)之(の)内(うち) 宮(みや)之(の)図(ず)
製作時期(せいさくじき):天保(てんぽう)10年頃(ねんごろ)(1839)。 板元(はんもと):佐野喜(さのきち)(佐野屋喜兵衛(さのやきへえ)) 背景(はいけい)は広重(ひろしげ)の保永堂版東海道(ほえいどうばんとうかいどう)「鳴海(なるみ) 名物有松絞(めいぶつありまつしぼり)」の構図(こうず)を用(もち)いています。 有松絞(ありまつしぼ)りは、鳴海宿(なるみしゅく)の東(ひがし)にあった有松村(ありまつむら)でつくられ、街道(かいどう)沿(ぞ)いの店(みせ)で売(う)られていました。店先(みせさき)には、色(いろ)とりどりの着物(きもの)が掛(か)けられ、旅人(たびびと)の足(あし)をひきとめています。 手前(てまえ)の女性(じょせい)は、扇(おうぎ)売(う)りの装(よそお)いです。肩(かた)に担(かつ)いでいる荷物(にもつ)の一番(いちばん)上(じょう)にみえる黒(くろ)い箱(はこ)の中(なか)に、扇(おうぎ)の地紙(じがみ)が入(はい)っており、客(きゃく)に呼(よ)び込(こ)まれると、その場(ば)で折(お)って扇(おうぎ)を仕立(した)てて売(う)ったそうです。この女性(じょせい)が頭(あたま)にかぶっている手(て)ぬぐいと、着物(きもの)の生地(きじ)が有松絞(ありまつしぼり)です。
東海道五十三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ)之(の)内(うち) 鳴海(なるみ)之(の)図(ず)
製作時期(せいさくじき):天保(てんぽう)10年頃(ねんごろ)(1839)。 板元(はんもと):佐野喜(さのきち)(佐野屋喜兵衛(さのやきへえ)) 背景(はいけい)は広重(ひろしげ)の保永堂版東海道(ほえいどうばんとうかいどう)「池鯉鮒(ちりゅう) 首夏馬市(しゅかうまいち)」の構図(こうず)を用(もち)いています。 首夏(しゅか)とは陰暦(いんれき)4月(しがつ)のことで、この時期(じき)に行(おこな)われたていた馬市(うまいち)のようすが描(えが)かれています。 手前(てまえ)の女性(じょせい)は、竹(たけ)かごを背負(せお)って熊手(くまで)を持(も)つという秣(まぐさ)集(あつ)めの装(よそお)いですが、当時(とうじ)このように振(ふ)り袖(そで)姿(すがた)で作業(さぎょう)をしていたわけではなく、美人画(びじんが)に彩(いろど)りを持(も)たせるための国貞(くにさだ)の演出(えんしゅつ)であろうと思(おも)われます。 国貞(くにさだ)(三代豊国(さんだいとよくに)の前名(まえな))描(えが)くこの東海道(とうかいどう)シリーズは、各宿(かくやど)の風景(ふうけい)をバックにして前面(ぜんめん)に立(た)ち姿(すがた)の美人(びじん)を描(えが)いたもので、全(ぜん)シリーズを通(とお)し、バックの風景画(ふうけいが)は広重(ひろしげ)の保永堂版東海道(ほえいどうばんとうかいどう)に非常(ひじょう)によく似(に)ています。
東海道五十三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ)之(の)内(うち) 池鯉鮒(ちりゅう)ノ図(ず)
製作時期(せいさくじき):天保(てんぽう)10年頃(ねんごろ)(1839)。 板元(はんもと):佐野喜(さのきち)(佐野屋喜兵衛(さのやきへえ)) 手前(てまえ)の女性(じょせい)は、猿回(さるまわ)し(サルの曲芸(きょくげい))に扮(ふん)した姿(すがた)で描(えが)かれています。「猿(さる)」と呼(よ)ばれていた豊臣秀吉(とよとみひでよし)の逸話(いつわ)と関(かか)わりをみせるような作図(さくず)となっています。 国貞(くにさだ)(三代豊国(さんだいとよくに)の前名(まえな))描(えが)くこの東海道(とうかいどう)シリーズは、各宿(かくやど)の風景(ふうけい)をバックにして前面(ぜんめん)に立(た)ち姿(すがた)の美人(びじん)を描(えが)いたもので、全(ぜん)シリーズを通(とお)し、バックの風景画(ふうけいが)は広重(ひろしげ)の保永堂版東海道(ほえいどうばんとうかいどう)に非常(ひじょう)によく似(に)ています。
東海道五十三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ)之(の)内(うち) 岡崎(おかざき)ノ図(ず)
製作時期(せいさくじき):天保(てんぽう)10年頃(ねんごろ)(1839)。 板元(はんもと):佐野喜(さのきち)(佐野屋喜兵衛(さのやきへえ)) 宿場(しゅくば)の入口(いりぐち)を、飾(かざ)り付(つ)けられた馬(うま)を引(ひ)き連(つ)れた行列(ぎょうれつ)が入(はい)ってくる場面(ばめん)を描(えが)いています。(馬(うま)には御幣(ごへい)がつけられています。江戸幕府(えどばくふ)から京(きょう)の天皇(てんのう)に馬(うま)を献上(けんじょう)する行事(ぎょうじ)を描(えが)いています) 手前(てまえ)の女性(じょせい)は、洗濯物(せんたくもの)を入(い)れた たらいを小脇(こわき)に抱(かか)えています。 国貞(くにさだ)(三代豊国(さんだいとよくに)の前名(まえな))描(えが)くこの東海道(とうかいどう)シリーズは、各宿(かくやど)の風景(ふうけい)をバックにして前面(ぜんめん)に立(た)ち姿(すがた)の美人(びじん)を描(えが)いたもので、全(ぜん)シリーズを通(とお)し、バックの風景画(ふうけいが)は広重(ひろしげ)の保永堂版東海道(ほえいどうばんとうかいどう)に非常(ひじょう)によく似(に)ています。
東海道五十三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ)之(の)内(うち) 藤川(ふじかわ)ノ図(ず)
製作時期(せいさくじき):天保(てんぽう)4年頃(ねんごろ)(1833)。 板元(はんもと):佐野喜(さのきち)(佐野屋喜兵衛(さのやきへえ)) 背景(はいけい)は広重(ひろしげ)の保永堂版東海道(ほえいどうばんとうかいどう)「赤阪(あかさか) 旅舎招婦ノ図(りょしゃしょうふのず)」の構図(こうず)を用(もち)いています。 旅籠(はたご)のそれぞれの部屋(へや)で思(おも)い思(おも)いに過(す)ごす宿泊客(しゅくはくきゃく)や、働(はたら)く人々(ひとびと)の姿(すがた)が見(み)られます。 手前(てまえ)の女性(じょせい)は、手(て)ぬぐいをかみしめている様子(ようす)です。手(て)ぬぐいの柄(がら)は、国貞(くにさだ)の画号(がごう)の印章(いんしょう)が用(もち)いられており、「国亭(くにてい)」「一螮(いっちょう)」などの文字(もじ)が見(み)られます。 国貞(くにさだ)(三代豊国(さんだいとよくに)の前名(まえな))描(えが)くこの東海道(とうかいどう)シリーズは、各宿(かくやど)の風景(ふうけい)をバックにして前面(ぜんめん)に立(た)ち姿(すがた)の美人(びじん)を描(えが)いたもので、全(ぜん)シリーズを通(とお)し、バックの風景画(ふうけいが)は広重(ひろしげ)の保永堂版東海道(ほえいどうばんとうかいどう)に非常(ひじょう)によく似(に)ています。
東海道五十三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ)之(の)内(うち) 赤坂(あかさか)ノ図(ず)
製作時期(せいさくじき):天保(てんぽう)4年頃(ねんごろ)(1833)。 板元(はんもと):佐野喜(さのきち)(佐野屋喜兵衛(さのやきへえ)) 背景(はいけい)は広重(ひろしげ)の保永堂版東海道(ほえいどうばんとうかいどう)「御油(ごゆ) 旅人留女(たびびととめおんな)」の構図(こうず)を用(もち)いています。 御油宿(ごゆしゅく)から次(つぎ)の赤坂宿(あかさかしゅく)までは十六町(じゅうろくちょう)(約(やく)1.7km)しか離(はな)れていなかったので、宿泊客(しゅくはくきゃく)の奪(うば)い合(あ)いが激(はげ)しかったそうです。 画中(がちゅう)でも、旅籠(はたご)の留女(とめおんな)が、旅人(たびびと)の腕(うで)や荷物(にもつ)を強引(ごういん)に引(ひ)っ張(ぱ)っている様子(ようす)が見(み)られます。 手前(てまえ)の女性(じょせい)は、着物(きもの)を小脇(こわき)に抱(かか)え、手(て)ぬぐいで汗(あせ)をぬぐっている様子(ようす)から、湯屋(ゆや)の帰(かえ)り道(みち)と思(おも)われます。 国貞(くにさだ)(三代豊国(さんだいとよくに)の前名(まえな))描(えが)くこの東海道(とうかいどう)シリーズは、各宿(かくやど)の風景(ふうけい)をバックにして前面(ぜんめん)に立(た)ち姿(すがた)の美人(びじん)を描(えが)いたもので、全(ぜん)シリーズを通(とお)し、バックの風景画(ふうけいが)は広重(ひろしげ)の保永堂版東海道(ほえいどうばんとうかいどう)に非常(ひじょう)によく似(に)ています。
東海道五十三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ)之(の)内(うち) 御油(ごゆ)之(の)図(ず)