Fujisawa Net Museum

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製作時期(せいさくじき):天保(てんぽう)4年頃(ねんごろ)(1833)。
板元(はんもと):佐野喜(さのきち)(佐野屋喜兵衛(さのやきへえ))

背景(はいけい)広重(ひろしげ)保永堂版東海道(ほえいどうばんとうかいどう)日坂(ひさか) 佐夜ノ中山(さよのなかやま)」の構図(こうず)(もち)いています。
小夜(さよ)中山峠(なかやまとうげ)難所(なんしょ)としてだけでなく、「母親(ははおや)(れい)(うつ)った(いし)から毎晩(まいばん)()(ごえ)()こえた」という伝説(でんせつ)をもつ「()()(いし)」があることでも有名(ゆうめい)でした。
図中(ずちゅう)でも、街道(かいどう)()(なか)(みち)をふさぐようにある夜泣(よな)(いし)(まえ)で、旅人(たびびと)()()まっている様子(ようす)(えが)かれています。 手前(てまえ)女性(じょせい)は、(ふち)()いた巻紙(まきがみ)(ふみ)をしたためているところです。

国貞(くにさだ)(三代豊国(さんだいとよくに)前名(まえな))(えが)くこの東海道(とうかいどう)シリーズは、各宿(かくやど)風景(ふうけい)をバックにして前面(ぜんめん)()姿(すがた)美人(びじん)(えが)いたもので、(ぜん)シリーズを(とお)し、バックの風景画(ふうけいが)広重(ひろしげ)保永堂版東海道(ほえいどうばんとうかいどう)非常(ひじょう)によく()ています。

東海道五拾三次之内 日坂之図

東海道五十三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ)()(うち) 日坂(にっさか)()()

製作時期(せいさくじき):天保(てんぽう)10年頃(ねんごろ)(1839)。
板元(はんもと):佐野喜(さのきち)(佐野屋喜兵衛(さのやきへえ))

背景(はいけい)広重(ひろしげ)保永堂版東海道(ほえいどうばんとうかいどう)金谷(かなや) 大井川遠岸(おおいがわえんがん)」の構図(こうず)(もち)いています。
遠岸(えんがん)」は遠江(とおとうみ)国側(くにがわ)(きし)意味(いみ)します。「嶋田(しまだ)」の()とはちょうど反対側(はんたいがわ)の、金谷側(かなやがわ)川岸(かわぎし)からみた大井川(おおいがわ)景色(けしき)です。
嶋田(しまだ)」の()で、大井川(おおいがわ)(わた)っていた行列(ぎょうれつ)先頭部分(せんとうぶぶん)(えが)いたかたちになっています。(おお)きな駕籠(かご)()せた輦台(れんだい)大勢(おおぜい)人足(にんそく)(かつ)いで川渡(かわわた)しを(おこな)っている様子(ようす)などから、大名行列(だいみょうぎょうれつ)川越(かわごえ)えであることがわかります。
手前(てまえ)女性(じょせい)三味線(しゃみせん)()った芸妓姿(げいぎすがた)で、(あし)もとに()かれた(はこ)三味線(しゃみせん)収納(しゅうのう)した(はこ)のようです。

国貞(くにさだ)(三代豊国(さんだいとよくに)前名(まえな))(えが)くこの東海道(とうかいどう)シリーズは、各宿(かくやど)風景(ふうけい)をバックにして前面(ぜんめん)()姿(すがた)美人(びじん)(えが)いたもので、(ぜん)シリーズを(とお)し、バックの風景画(ふうけいが)広重(ひろしげ)保永堂版東海道(ほえいどうばんとうかいどう)非常(ひじょう)によく()ています。

東海道五拾三次之内 金谷之図

東海道五十三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ)()(うち) 金谷(かなや)()()

製作時期(せいさくじき):天保(てんぽう)10年頃(ねんごろ)(1839)。
板元(はんもと):佐野喜(さのきち)(佐野屋喜兵衛(さのやきへえ))

藤枝(ふじえだ)では、背景(はいけい)荷物(にもつ)()()えの様子(ようす)(えが)かれます。東海道(とうかいどう)では基本的(きほんてき)に、宿駅毎(しゅくえきごと)荷運(にはこ)びの(うま)人足(にんそく)交代(こうたい)させました。
(みぎ)建物(たてもの)は、荷継(につ)ぎの手続(てつづ)きなどを(おこな)った問屋場(とんやば)です。
手前(てまえ)女性(じょせい)着物(きもの)(がら)(かんざし)(かみ)かざり)の(かざ)りが(さくら)になっており、裕福(ゆうふく)(いえ)(むすめ)服装(ふくそう)(おも)われます。

国貞(くにさだ)(三代豊国(さんだいとよくに)前名(まえな))(えが)くこの東海道(とうかいどう)シリーズは、各宿(かくやど)風景(ふうけい)をバックにして前面(ぜんめん)()姿(すがた)美人(びじん)(えが)いたもので、(ぜん)シリーズを(とお)し、バックの風景画(ふうけいが)広重(ひろしげ)保永堂版東海道(ほえいどうばんとうかいどう)非常(ひじょう)によく()ています。

東海道五拾三次之内 藤枝ノ図

東海道五十三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ)()(うち) 藤枝(ふじえだ)()

製作時期(せいさくじき):天保(てんぽう)10年頃(ねんごろ)(1839)。
板元(はんもと):佐野喜(さのきち)(佐野屋喜兵衛(さのやきへえ))

岡部(おかべ)背景(はいけい)(えが)かれるのは宇津ノ谷峠(うつのたにとうげ)で、東海道(とうかいどう)(みち)としては豊臣秀吉(とよとみひでよし)小田原征伐(おだわらせいばつ)(さい)整備(せいび)されました。
手前(てまえ)女性(じょせい)は、(よこ)(たい)尾頭付(おかしらつ)きが(えが)かれており、銚子(ちょうし)()っているため(うたげ)(せき)にいるという設定(せってい)ですが、服装(ふくそう)良家(りょうけ)子女(しじょ)といった様子(ようす)です。

国貞(くにさだ)(三代豊国(さんだいとよくに)前名(まえな))(えが)くこの東海道(とうかいどう)シリーズは、各宿(かくやど)風景(ふうけい)をバックにして前面(ぜんめん)()姿(すがた)美人(びじん)(えが)いたもので、(ぜん)シリーズを(とお)し、バックの風景画(ふうけいが)広重(ひろしげ)保永堂版東海道(ほえいどうばんとうかいどう)非常(ひじょう)によく()ています。

東海道五拾三次之内 岡部之図

東海道五十三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ)()(うち) 岡部(おかべ)(これ)()

製作時期(せいさくじき):天保(てんぽう)10年頃(ねんごろ)(1839)。
板元(はんもと):佐野喜(さのきち)(佐野屋喜兵衛(さのやきへえ))

背景(はいけい)には、旅人(たびびと)たちが鞠子宿(まりこしゅく)名物(めいぶつ)「とろろ(じる)」をかき()んでいる様子(ようす)(えが)かれます。
このとろろ(じる)は、松尾芭蕉(まつおばしょう)江戸時代(えどじだい)有名(ゆうめい)俳人(はいじん))の()にも登場(とうじょう)し、(むかし)から人々(ひとびと)(した)しまれていました。前景(ぜんけい)女性(じょせい)は、(さかづき)(あら)盃洗(はいせん)(よこ)(えが)かれていることから、(うたげ)(せき)にいる芸者(げいしゃ)(おも)われます。

国貞(くにさだ)(三代豊国(さんだいとよくに)前名(まえな))(えが)くこの東海道(とうかいどう)シリーズは、各宿(かくやど)風景(ふうけい)をバックにして前面(ぜんめん)()姿(すがた)美人(びじん)(えが)いたもので、(ぜん)シリーズを(とお)し、バックの風景画(ふうけいが)広重(ひろしげ)保永堂版東海道(ほえいどうばんとうかいどう)非常(ひじょう)によく()ています。

東海道五拾三次之内 鞠子ノ図

東海道五十三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ)()(うち) 鞠子(まりこ)()

製作時期(せいさくじき):天保(てんぽう)10年頃(ねんごろ)(1839)。
板元(はんもと):佐野喜(さのきち)(佐野屋喜兵衛(さのやきへえ))

東海道(とうかいどう)には様々(さまざま)(かわ)があり、(はし)()かっていない(かわ)については、それぞれ(ふね)(わた)るもの、人足(にんそく)(やと)って(わた)るものが()まっていました。府中(ふちゅう)背景(はいけい)(えが)かれた大井川(おおいがわ)は、人足(にんそく)(やと)う「徒歩渡(かちわた)し」の(かわ)でした。
前景(ぜんけい)女性(じょせい)荷運(にはこ)びの人足(にんそく)恰好(かっこう)をしていますが、実際(じっさい)にこの(よう)人足(にんそく)がいたわけではなく、国貞(くにさだ)創意(そうい)によるものです。

国貞(くにさだ)(三代豊国(さんだいとよくに)前名(まえな))(えが)くこの東海道(とうかいどう)シリーズは、各宿(かくやど)風景(ふうけい)をバックにして前面(ぜんめん)()姿(すがた)美人(びじん)(えが)いたもので、(ぜん)シリーズを(とお)し、バックの風景画(ふうけいが)広重(ひろしげ)保永堂版東海道(ほえいどうばんとうかいどう)非常(ひじょう)によく()ています。

東海道五拾三次之内 府中之図

東海道五十三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ)()(うち) 府中(ふちゅう)()()



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