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江の島の歴史
江の島歴史年表
江の島散策マップ
江の島の文化財
江の島を訪れた人々
資料種類しりょうしゅるい(大分類だいぶんるい):
資料種類しりょうしゅるい(中分類ちゅうぶんるい):
資料種類しりょうしゅるい(小分類しょうぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(大分類だいぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(中分類ちゅうぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(小分類しょうぶんるい):
作者さくしゃ(50音分類おんぶんるい):
作者さくしゃ:
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明治(めいじ)13年(ねん)(1880年に東京(とうきょう)の新富座(しんとみざ)で上演(じょうえん)された歌舞伎舞踊(かぶきぶよう)「首尾(しゅびも)四谷(よつや)色(いろに)大山(おおやま)」を描(えが)いた作品(さくひん)です。大山(おおやま)詣(もうで)を題材(だいざい)にした演目(えんもく)で、題名(だいめい)は「首尾(しゅび)も良(よ)し」の“よし”に、大山道(おおやまみち)入口(いりぐち)の地名(ちめい)「四(よ)ツ谷(や)」(藤沢市城南(ふじさわしじょうなん))の“よつ”を掛(か)けたものです。 主要人物(しゅようじんぶつ)7人(にん)(展示(てんじ)では6人(にん)分(ぶん))を役者(やくしゃ)の似顔(にがお)で一(いち)枚(まい)ずつ描(えが)いています。
大山(おおやま)詣(まいり)役者(やくしゃ)見立(みたて) 菊松(きくまつ) 尾上菊五郎(おのえきくごろう)
製作(せいさく)時期(じき):弘化(こうか)4年(ねん)(1847)~嘉永(かえい)5年(ねん)(1852)。板元(はんもと):丸屋清次郎(まるやせいじろう) このシリーズは表題(ひょうだい)の書体(しょたい)から俗(ぞく)に隷書(れいしょ)東海道(とうかいどう)と呼(よ)ばれ、保永(ほえい)堂(どう)版(ばん)、行書(ぎょうしょ)版(ばん)と共(とも)に三(さん)大(だい)傑作(けっさく)シリーズの一(ひと)つです。藤沢宿(ふじさわしゅく)の夜(よる)の風景(ふうけい)で、右側(みぎがわ)にある鳥居(とりい)が江(え)の島(しま)一(いち)ノ鳥居(とりい)(江(え)の島道(しまみち)入口(いりぐち))、左手(ひだりて)にあるのが大鋸橋(だいぎりばし) (現(げん)遊行寺橋(ゆぎょうじばし))です。宿場(しゅくば)に着(つ)いた人々(ひとびと)と客引(きゃくひ)きをする宿(やど)の人々(ひとびと)の様子(ようす)が描(えが)かれ、にぎわいが感(かん)じられます。
東海道(とうかいどう)七(なな) 五十三次(ごじゅうさんつぎ) 藤沢(ふじさわ)(隷書(れいしょ)東海道(とうかいどう))
三(さん)人(にん)の子(こ)どもが養蚕(ようさん)の作業(さぎょう)を行(おこな)っており、女児(じょじ)が繭(まゆ)を釜(かま)で煮(に)て糸(いと)を繰(く)り、男児(だんじ)がその糸(いと)を竿(さお)に干(ほ)す様子(ようす)が描(えが)かれています。 この作品(さくひん)は、役者(やくしゃ)や遊女(ゆうじょ)といった娯楽(ごらく)に関連(かんれん)する浮世絵(うきよえ)出版(しゅっぱん)を禁止(きんし)した、天保(てんぽう)の改革(かいかく)の渦中(かちゅう)において出版(しゅっぱん)された作品(さくひん)でもあり、題材(だいざい)としては禁令(きんれい)に触(ふ)れないものを選(えら)びましたが、奢侈(しゃし)の禁令(きんれい)に違反(いはん)する十(じゅう)枚(まい)続(つづき)の作品(さくひん)であるとして一(いち)度(ど)発禁(はっきん)処分(しょぶん)を受(う)けました。 展示(てんじ)作品(さくひん)については、発禁(はっきん)の後(のち)に三枚(さんまい)続(つづき)として売(う)り出(だ)されたものであることが、題字(だいじ)横(よこ)の「竹(たけ)(松(まつ)・竹(たけ)・梅(うめ)の一部(いちぶ)であるという意味(いみ))」という文字(もじ)からわかります。
蚕(さん)家(か)織子(しょくし)之(の)図(ず)
女性(じょせい)は湯上(ゆあが)りの様子(ようす)です。小田原(おだわら)から箱根(はこね)に続(つづ)く温泉町(おんせんまち)を彷彿(ほうふつ)させます。その女性(じょせい)を見上(みあ)げる少女(しょうじょ)は、コマなどの玩具(おもちゃ)が入(はい)った箱(はこ)に手(て)を入(い)れています。籠(かご)の外(そと)には寄木細工(よせぎざいく)の箱(はこ)もあります。こういった木製(もくせい)の玩具(おもちゃ)や箱(はこ)は、現在(げんざい)でもこの地方(ちほう)の名産(めいさん)品(ひん)です。 コマ絵(え)には酒匂川(さかわがわ)(さかわがわ)と箱根(はこね)の山(やま)が描(えが)かれています。ここは防衛(ぼうえい)のために橋(はし)や船(ふね)がなく、旅人(たびびと)たちは徒歩(とほ)渡(わた)しで川(かわ)を渡(わた)っていました。画面(がめん)右端(みぎはし)に見(み)えるのは小田原城(おだわらじょう)です。
双(そう)筆(ひつ)五十三次(ごじゅうさんつぎ) 小田原(おだわら)
製作(せいさく)時期(じき):弘化(こうか)4年(ねん)(1848)~嘉永(かえい)5年(ねん)(1852)。 板元(はんもと):藤(ふじ)慶(けい)(藤屋(ふじや)慶次郎(けいじろう)) このシリーズは前面(ぜんめん)に美人(びじん)姿(すがた)を大(おお)きく描(えが)いているので一般(いっぱん)に美人(びじん)東海道(とうかいどう)と呼(よ)ばれます。広重(ひろしげ)は風景画(ふうけいが)の大家(たいか)であると共(とも)に美人画(びじんが)でも評価(ひょうか)が高(たか)かったようです。 右端(みぎはし)に「相州(そうしゅう) 江(え)の嶋(しま)詣(もうで)」とあるのでこの女性(じょせい)が江(え)の島(しま)帰(がえ)りであることがわかりますが、女性(じょせい)の脇(わき)の駕籠(かご)の上(うえ)に乗(の)っている品物(しなもの)は、江(え)の島(しま)名物(めいぶつ)「アワビの粕漬(かすづ)け」です。背景(はいけい)(上段(じょうだん))は藤沢宿(ふじさわしゅく)の景観(けいかん)で、後(うし)ろに見(み)える山(やま)は大山(おおやま)です。
東海道(とうかいどう)五(ご)十(じゅう)三(さん)図会(ずえ)七(なな) 藤沢(ふじさわ)(美人(びじん)東海道(とうかいどう))
製作時期(せいさくじき):天保(てんぽう)10年頃(ねんごろ)(1839)。 板元(はんもと):佐野喜(さのきち)(佐野屋喜兵衛(さのやきへえ)) 国貞(くにさだ)(三代豊国(さんだいとよくに)の前名(まえな))描(えが)くこの東海道(とうかいどう)シリーズは、各宿(かくやど)の風景(ふうけい)をバックにして前面(ぜんめん)に立(た)ち姿(すがた)の美人(びじん)を描(えが)いたもので、全(ぜん)シリーズを通(とお)し、バックの風景画(ふうけいが)は広重(ひろしげ)の保永堂版東海道(ほえいどうばんとうかいどう)に非常(ひじょう)によく似(に)ています。
東海道五十三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ)之(の)内(うち) 川崎(かわさき)之(の)図(ず)
本作品(ほんさくひん)の背景(はいけい)には、広重(ひろしげ)による保永(ほえい)堂(どう)版(ばん)東海道(とうかいどう)の二川(ふたがわ)の絵柄(えがら)がほぼそのまま用(もち)いられており、左(ひだり)には「名物(めいぶつ) かしは餅(もち)」の看板(かんばん)も見(み)られます。手前(てまえ)の人物(じんぶつ)は四代目(よだいめ)市(いち)川小(かわこ)団次(だんじ)演(えん)じる石川(いしかわ)友市(ともいち)で、実(じつ)は大泥棒(おおどろぼう)の石川五右衛門(いしかわごえもん)と同一(どういつ)人物(じんぶつ)です。石川(いしかわ)友市(ともいち)の衣装(いしょう)には正面(しょうめん)摺(ずり)(絵具(えのぐ)を使用(しよう)しないで、圧力(あつりょく)で紙(かみ)の面(めん)をつぶして艶(つや)を出(だ)す技法(ぎほう))が施(ほどこ)されており、一見(いっけん)真(ま)っ黒(くろ)に見(み)える部分(ぶぶん)にも、角度(かくど)によっては模様(もよう)が浮(う)かび上(あ)がるようになっています。
東海道五十三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ)之(の)内(うち) 二川(ふたがわ) 石川(いしかわ)友市(ともいち)(四代目(よだいめ)市(いち)川小(かわこ)団次(だんじ))
元禄(げんろく)期(き)(1688-1704)に起(お)きた大阪(おおさか)の額(がく)風呂(ふろ)の湯(ゆ)女(おんな)であった小(こ)さんと歌舞伎(かぶき)役者(やくしゃ)の金屋(かなや)金五郎(きんごろう)の心中(しんじゅう)事件(じけん)を題材(だいざい)にした演目(えんもく)系統(けいとう)「小(こ)三金(さんきん)五郎(ごろう)物(もの)」に登場(とうじょう)する額(がく)の小(こ)さんが描(えが)かれています。「小(こ)三金(さんきん)五郎(ごろう)物(もの)」は元禄(げんろく)15年(ねん)(1702)に大阪(おおさか)で人形(にんぎょう)浄瑠璃(じょうるり)として最初(さいしょ)に劇化(げきか)されました。江戸(えど)でも文化(ぶんか)8年(ねん)(1811)から劇化(げきか)されていますが、多(おお)くは人物(じんぶつ)名(な)を借(か)りただけで実際(じっさい)の事件(じけん)とかけ離(はな)れた物語(ものがたり)でした。本図(ほんず)で額(がく)の小(こ)さんを演(えん)じる役者(やくしゃ)は刊行(かんこう)時(じ)にはすでに故人(こじん)であった六代目(ろくだいめ)岩井半四郎(いわいはんしろう)です。
東海道五十三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ)の内(うち) 四日市(よっかいち) 額(がく)の小(こ)さん