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江の島の歴史
江の島歴史年表
江の島散策マップ
江の島の文化財
江の島を訪れた人々
資料種類しりょうしゅるい(大分類だいぶんるい):
資料種類しりょうしゅるい(中分類ちゅうぶんるい):
資料種類しりょうしゅるい(小分類しょうぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(大分類だいぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(中分類ちゅうぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(小分類しょうぶんるい):
作者さくしゃ(50音分類おんぶんるい):
作者さくしゃ:
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製作時期(せいさくじき):天保(てんぽう)4年頃(ねんごろ)(1833)。 板元(はんもと):佐野喜(さのきち)(佐野屋喜兵衛(さのやきへえ)) 背景(はいけい)は広重(ひろしげ)の保永堂版東海道(ほえいどうばんとうかいどう)「袋井(ふくろい) 出茶屋ノ図(でぢゃやのず)」の構図(こうず)を用(もち)いています。 「出茶屋(でぢゃや)」とは、街道(かいどう)沿(ぞ)いに設(もう)けられた簡素(かんそ)な茶店(ちゃみせ)のことです。画中(がちゅう)では、焚き火(たきび)から煙管(きせる)の火(ひ)を取(と)る姿(すがた)や、駕籠(かご)に寄(よ)りかかって休(やす)む姿(すがた)など、駕籠(かご)かきが休息(きゅうそく)する様子(ようす)を描(えが)いています。 国貞(くにさだ)(三代豊国(さんだいとよくに)の前名(まえな))描(えが)くこの東海道(とうかいどう)シリーズは、各宿(かくやど)の風景(ふうけい)をバックにして前面(ぜんめん)に立(た)ち姿(すがた)の美人(びじん)を描(えが)いたもので、全(ぜん)シリーズを通(とお)し、バックの風景画(ふうけいが)は広重(ひろしげ)の保永堂版東海道(ほえいどうばんとうかいどう)に非常(ひじょう)によく似(に)ています。
東海道五十三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ)之(の)内(うち) 袋井(ふくろい)之(の)図(ず)
製作時期(せいさくじき):天保(てんぽう)4年頃(ねんごろ)(1833)。 板元(はんもと):佐野喜(さのきち)(佐野屋喜兵衛(さのやきへえ)) 背景(はいけい)は広重(ひろしげ)の保永堂版東海道(ほえいどうばんとうかいどう)「掛川(かけがわ) 秋葉山(あきはさん)遠望(えんぼう)」の構図(こうず)を用(もち)いています。右奥(みぎおく)に見(み)える山(やま)は秋葉権現(あきはごんげん)のある秋葉山(あきはさん)です。掛川宿(かけがわしゅく)から西(にし)の先(さき)へ進(すす)んだところに、秋葉権現(あきばごんげん)へ至(いた)る秋葉道(あきはみち)の分岐(ぶんき)がありました。 画中(がちゅう)の空(そら)に高(たか)く上(あ)がっている凧(たこ)は、この地域(ちいき)の名物(めいぶつ)の遠州凧(えんしゅうだこ)です。 背景(はいけい)の橋(はし)の奥(おく)には田植(たう)えをしている姿(すがた)が見(み)えますが、手前(てまえ)の女性(じょせい)は刈(か)り取(と)った枝(えだ)の束(たば)の上(うえ)に腰(こし)を掛(か)けて、紅葉(こうよう)の枝(えだ)を持(も)つといった晩秋(ばんしゅう)の風情(ふぜい)です。 国貞(くにさだ)(三代豊国(さんだいとよくに)の前名(まえな))描(えが)くこの東海道(とうかいどう)シリーズは、各宿(かくやど)の風景(ふうけい)をバックにして前面(ぜんめん)に立(た)ち姿(すがた)の美人(びじん)を描(えが)いたもので、全(ぜん)シリーズを通(とお)し、バックの風景画(ふうけいが)は広重(ひろしげ)の保永堂版東海道(ほえいどうばんとうかいどう)に非常(ひじょう)によく似(に)ています。
東海道五十三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ)之(の)内(うち) 掛川(かけがわ)之(の)図(ず)
製作時期(せいさくじき):天保(てんぽう)4年頃(ねんごろ)(1833)。 板元(はんもと):佐野喜(さのきち)(佐野屋喜兵衛(さのやきへえ)) 背景(はいけい)は広重(ひろしげ)の保永堂版東海道(ほえいどうばんとうかいどう)「日坂(ひさか) 佐夜ノ中山(さよのなかやま)」の構図(こうず)を用(もち)いています。 小夜(さよ)の中山峠(なかやまとうげ)は難所(なんしょ)としてだけでなく、「母親(ははおや)の霊(れい)が移(うつ)った石(いし)から毎晩(まいばん)泣(な)き声(ごえ)が聞(き)こえた」という伝説(でんせつ)をもつ「夜(よ)泣(な)き石(いし)」があることでも有名(ゆうめい)でした。 図中(ずちゅう)でも、街道(かいどう)の真(ま)ん中(なか)で路(みち)をふさぐようにある夜泣(よな)き石(いし)の前(まえ)で、旅人(たびびと)が立(た)ち止(ど)まっている様子(ようす)が描(えが)かれています。 手前(てまえ)の女性(じょせい)は、縁(ふち)の付(つ)いた巻紙(まきがみ)に文(ふみ)をしたためているところです。 国貞(くにさだ)(三代豊国(さんだいとよくに)の前名(まえな))描(えが)くこの東海道(とうかいどう)シリーズは、各宿(かくやど)の風景(ふうけい)をバックにして前面(ぜんめん)に立(た)ち姿(すがた)の美人(びじん)を描(えが)いたもので、全(ぜん)シリーズを通(とお)し、バックの風景画(ふうけいが)は広重(ひろしげ)の保永堂版東海道(ほえいどうばんとうかいどう)に非常(ひじょう)によく似(に)ています。
東海道五十三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ)之(の)内(うち) 日坂(にっさか)之(の)図(ず)
製作時期(せいさくじき):天保(てんぽう)10年頃(ねんごろ)(1839)。 板元(はんもと):佐野喜(さのきち)(佐野屋喜兵衛(さのやきへえ)) 背景(はいけい)は広重(ひろしげ)の保永堂版東海道(ほえいどうばんとうかいどう)「金谷(かなや) 大井川遠岸(おおいがわえんがん)」の構図(こうず)を用(もち)いています。 「遠岸(えんがん)」は遠江(とおとうみ)国側(くにがわ)の岸(きし)を意味(いみ)します。「嶋田(しまだ)」の図(ず)とはちょうど反対側(はんたいがわ)の、金谷側(かなやがわ)の川岸(かわぎし)からみた大井川(おおいがわ)の景色(けしき)です。 「嶋田(しまだ)」の図(ず)で、大井川(おおいがわ)を渡(わた)っていた行列(ぎょうれつ)の先頭部分(せんとうぶぶん)を描(えが)いたかたちになっています。大(おお)きな駕籠(かご)を載(の)せた輦台(れんだい)を大勢(おおぜい)の人足(にんそく)が担(かつ)いで川渡(かわわた)しを行(おこな)っている様子(ようす)などから、大名行列(だいみょうぎょうれつ)の川越(かわごえ)えであることがわかります。 手前(てまえ)の女性(じょせい)は三味線(しゃみせん)を持(も)った芸妓姿(げいぎすがた)で、足(あし)もとに置(お)かれた箱(はこ)は三味線(しゃみせん)を収納(しゅうのう)した箱(はこ)のようです。 国貞(くにさだ)(三代豊国(さんだいとよくに)の前名(まえな))描(えが)くこの東海道(とうかいどう)シリーズは、各宿(かくやど)の風景(ふうけい)をバックにして前面(ぜんめん)に立(た)ち姿(すがた)の美人(びじん)を描(えが)いたもので、全(ぜん)シリーズを通(とお)し、バックの風景画(ふうけいが)は広重(ひろしげ)の保永堂版東海道(ほえいどうばんとうかいどう)に非常(ひじょう)によく似(に)ています。
東海道五十三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ)之(の)内(うち) 金谷(かなや)之(の)図(ず)
製作時期(せいさくじき):天保(てんぽう)10年頃(ねんごろ)(1839)。 板元(はんもと):佐野喜(さのきち)(佐野屋喜兵衛(さのやきへえ)) 藤枝(ふじえだ)では、背景(はいけい)に荷物(にもつ)の継(つ)ぎ替(か)えの様子(ようす)が描(えが)かれます。東海道(とうかいどう)では基本的(きほんてき)に、宿駅毎(しゅくえきごと)に荷運(にはこ)びの馬(うま)や人足(にんそく)を交代(こうたい)させました。 右(みぎ)の建物(たてもの)は、荷継(につ)ぎの手続(てつづ)きなどを行(おこな)った問屋場(とんやば)です。 手前(てまえ)の女性(じょせい)は着物(きもの)の柄(がら)や簪(かんざし)(髪(かみ)かざり)の飾(かざ)りが桜(さくら)になっており、裕福(ゆうふく)な家(いえ)の娘(むすめ)の服装(ふくそう)と思(おも)われます。 国貞(くにさだ)(三代豊国(さんだいとよくに)の前名(まえな))描(えが)くこの東海道(とうかいどう)シリーズは、各宿(かくやど)の風景(ふうけい)をバックにして前面(ぜんめん)に立(た)ち姿(すがた)の美人(びじん)を描(えが)いたもので、全(ぜん)シリーズを通(とお)し、バックの風景画(ふうけいが)は広重(ひろしげ)の保永堂版東海道(ほえいどうばんとうかいどう)に非常(ひじょう)によく似(に)ています。
東海道五十三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ)之(の)内(うち) 藤枝(ふじえだ)ノ図(ず)
製作時期(せいさくじき):天保(てんぽう)10年頃(ねんごろ)(1839)。 板元(はんもと):佐野喜(さのきち)(佐野屋喜兵衛(さのやきへえ)) 岡部(おかべ)の背景(はいけい)に描(えが)かれるのは宇津ノ谷峠(うつのたにとうげ)で、東海道(とうかいどう)の道(みち)としては豊臣秀吉(とよとみひでよし)の小田原征伐(おだわらせいばつ)の際(さい)に整備(せいび)されました。 手前(てまえ)の女性(じょせい)は、横(よこ)に鯛(たい)の尾頭付(おかしらつ)きが描(えが)かれており、銚子(ちょうし)を持(も)っているため宴(うたげ)の席(せき)にいるという設定(せってい)ですが、服装(ふくそう)は良家(りょうけ)の子女(しじょ)といった様子(ようす)です。 国貞(くにさだ)(三代豊国(さんだいとよくに)の前名(まえな))描(えが)くこの東海道(とうかいどう)シリーズは、各宿(かくやど)の風景(ふうけい)をバックにして前面(ぜんめん)に立(た)ち姿(すがた)の美人(びじん)を描(えが)いたもので、全(ぜん)シリーズを通(とお)し、バックの風景画(ふうけいが)は広重(ひろしげ)の保永堂版東海道(ほえいどうばんとうかいどう)に非常(ひじょう)によく似(に)ています。
東海道五十三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ)之(の)内(うち) 岡部(おかべ)之(これ)図(ず)
製作時期(せいさくじき):天保(てんぽう)10年頃(ねんごろ)(1839)。 板元(はんもと):佐野喜(さのきち)(佐野屋喜兵衛(さのやきへえ)) 背景(はいけい)には、旅人(たびびと)たちが鞠子宿(まりこしゅく)の名物(めいぶつ)「とろろ汁(じる)」をかき込(こ)んでいる様子(ようす)が描(えが)かれます。 このとろろ汁(じる)は、松尾芭蕉(まつおばしょう)(江戸時代(えどじだい)の有名(ゆうめい)な俳人(はいじん))の句(く)にも登場(とうじょう)し、昔(むかし)から人々(ひとびと)に親(した)しまれていました。前景(ぜんけい)の女性(じょせい)は、盃(さかづき)を洗(あら)う盃洗(はいせん)が横(よこ)に描(えが)かれていることから、宴(うたげ)の席(せき)にいる芸者(げいしゃ)と思(おも)われます。 国貞(くにさだ)(三代豊国(さんだいとよくに)の前名(まえな))描(えが)くこの東海道(とうかいどう)シリーズは、各宿(かくやど)の風景(ふうけい)をバックにして前面(ぜんめん)に立(た)ち姿(すがた)の美人(びじん)を描(えが)いたもので、全(ぜん)シリーズを通(とお)し、バックの風景画(ふうけいが)は広重(ひろしげ)の保永堂版東海道(ほえいどうばんとうかいどう)に非常(ひじょう)によく似(に)ています。
東海道五十三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ)之(の)内(うち) 鞠子(まりこ)ノ図(ず)
製作時期(せいさくじき):天保(てんぽう)10年頃(ねんごろ)(1839)。 板元(はんもと):佐野喜(さのきち)(佐野屋喜兵衛(さのやきへえ)) 東海道(とうかいどう)には様々(さまざま)な川(かわ)があり、橋(はし)が架(か)かっていない川(かわ)については、それぞれ船(ふね)で渡(わた)るもの、人足(にんそく)を雇(やと)って渡(わた)るものが決(き)まっていました。府中(ふちゅう)の背景(はいけい)に描(えが)かれた大井川(おおいがわ)は、人足(にんそく)を雇(やと)う「徒歩渡(かちわた)し」の川(かわ)でした。 前景(ぜんけい)の女性(じょせい)は荷運(にはこ)びの人足(にんそく)の恰好(かっこう)をしていますが、実際(じっさい)にこの様(よう)な人足(にんそく)がいたわけではなく、国貞(くにさだ)の創意(そうい)によるものです。 国貞(くにさだ)(三代豊国(さんだいとよくに)の前名(まえな))描(えが)くこの東海道(とうかいどう)シリーズは、各宿(かくやど)の風景(ふうけい)をバックにして前面(ぜんめん)に立(た)ち姿(すがた)の美人(びじん)を描(えが)いたもので、全(ぜん)シリーズを通(とお)し、バックの風景画(ふうけいが)は広重(ひろしげ)の保永堂版東海道(ほえいどうばんとうかいどう)に非常(ひじょう)によく似(に)ています。
東海道五十三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ)之(の)内(うち) 府中(ふちゅう)之(の)図(ず)