Fujisawa Net Museum

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繪図屋(えずや)善兵衛(ぜんべえ)
文化(ぶんか)5(ねん)(1808)
この絵図(えず)は、()(しま)()(くち)に「絵図(えず)()」の屋号(やごう)のお(みせ)販売(はんばい)していた(しま)案内(あんない)()です。当時(とうじ)参詣(さんけい)(しゃ)島内(とうない)観光(かんこう)のために()られていました。
画面(がめん)(みぎ)()(しま)北側(きたがわ)入口(いりぐち))にあたる箇所(かしょ)(はい)しており、本来(ほんらい)なら()(ちゅう)には()えない位置(いち)にある南側(みなみがわ)岩屋(いわや)などが画面(がめん)(ひだり)展開(てんかい)されて(えが)かれ、()(しま)全体(ぜんたい)()(ちゅう)一望(いちぼう)できるような立体(りったい)(てき)構図(こうず)となっています。No.23やNo.25と(くら)べると、()(しま)(かたち)(こと)なりますが、No.25と同様(どうよう)富士山(ふじさん)()(ちゅう)右側(みぎがわ)(えが)かれています。さらに、富士山(ふじさん)手前(てまえ)には(げん)茅ヶ崎(ちがさき)海岸(かいがん)沖合(おきあい)にある「烏帽子岩(えぼしいわ)」が(えが)かれています。
()右上(みぎうえ)には版元(はんもと)店先(みせさき)寛政(かんせい)7(ねん)(1795)に火事(かじ)()い、版木(はんぎ)消滅(しょうめつ)した記述(きじゅつ)()かれており、こちらの絵図(えず)その()()りなおされた版木(はんぎ)()()しされたものです。左下(ひだりした)には「えのしま入口(いりぐち)(ひだり)がは かど」と版元(はんもと)住所(じゅうしょ)(しる)されています。版元(はんもと)の「絵図(えず)()」は、現在(げんざい)同地(どうち)土産物(みやげもの)()(いとな)んでいます。

江嶋(えのしま)一望(いちぼう)()

制作(せいさく)時期(じき):弘化(こうか)嘉永(かえい)()(1844~1854)

画面(がめん)一杯(いっぱい)(ちゃ)藍色(あいいろ)(えが)かれた(おお)きな力強(ちからづよ)(いわ)(かたまり)表現(ひょうげん)しています。岩屋(いわや)稚児ヶ淵(ちごがふち)附近(ふきん)岩場(いわば)(めぐ)参詣(さんけい)(にん)姿(すがた)は、あくまでも(ちい)さく(あり)のように(えが)かれ、()(しま)(おお)きさと対称(たいしょう)(てき)です。

(しま)上部(じょうぶ)には(かみ)(みや)(しも)(みや)遠目鏡(とおめがね)(みぎ)下方(かほう)漁師町(りょうしまち)(ひだり)下方(かほう)岩屋(いわや)稚児ヶ淵(ちごがふち)があります。()(しま)全体(ぜんたい)(おお)きな(かたまり)でとらえたところは洋風(ようふう)()()んだ国芳(くによし)らしい作品(さくひん)です。

国芳(くによし)()(けい)はその門人(もんじん)(よし)(とら)(よし)(いく)芳年(よしとし)など幕末(ばくまつ)から明治(めいじ)初期(しょき)大家(たいか)輩出(はいしゅつ)しました。そして芳年(よしとし)には年方(としかた)年方(としかた)には清方(きよかた)清方(きよかた)には深水(しんすい)巴水(はすい)()して、明治(めいじ)大正(たいしょう)昭和(しょうわ)(つづ)浮世絵(うきよえ)系統(けいとう)(はな)()えています。

歌川国芳 相州江之嶋之図

相州(そうしゅう)()()(しま)()()

歌川貞秀(うたがわさだひで)
元治(げんじ)元年(がんねん)(1864)
風景(ふうけい)動物(どうぶつ)植物(しょくぶつ)など様々(さまざま)事物(じぶつ)紹介(しょうかい)された図絵(ずえ)(しゅう)です。題名(だいめい)使(つか)われている「写真(しゃしん)」とは、「(しん)(うつ)し、実物(じつぶつ)実景(じっけい)をそのままとらえる」という意味(いみ)がありました。本作(もとさく)には旅行(りょこう)案内(あんない)役割(やくわり)()たしていた名所絵(めいしょえ)多数(たすう)(ふく)まれており、景色(けしき)とともに名称(めいしょう)(しる)されています。絵師(えし)貞秀(さだひで)は、役者絵(やくしゃえ)美人画(びじんが)風景画(ふうけいが)など幅広(はばひろ)いジャンルの浮世絵(うきよえ)手掛(てが)け、鳥瞰図(ちょうかんず)多数(たすう)制作(せいさく)した(こと)でも()られています。
展示(てんじ)(ちゅう)(ぺーじ)()(しま)(ない)名所(めいしょ)富士山(ふじさん)箱根山(はこねやま)豆州(ずしゅう)下田(しもだ)(みさき)紹介(しょうかい)しており、()(しま)岩屋(いわや)正面(しょうめん)(えが)かれています。(ひだり)から「(りゅう)(あかり)(まつ)」、「龍穴(りゅうけつ)」、「上ノ宮(かみのみや)」、「ロウ(もん)楼門(ろうもん))」、「(とう)」、「(しも)(みや)」、「岩本院(いわもといん)」、「茶屋(ちゃや)(まち)」、「(いち)ノトリ()(いち)鳥居(とりい))」、や「リヤウンマチ(漁師町(りょうしまち))」といった島内(とうない)重要(じゅうよう)要所(ようしょ)(しる)されています。


鳥瞰図(ちょうかんず)(ひい)で「空飛ぶ絵師(そらと)絵師(えし)」とも()ばれた貞秀(さだひで)による【画帳(がちょう)】。
(だい)(さん)(へん)には、(たき)(やま)(しま)(など)風景画譜(ふうけいがふ)仁王像(におうぞう)(とう)画像(がぞう)(えが)かれています。

万象(ばんしょう)写真(しゃしん) 図譜(ずふ) (だい)(さん)(ぺん)

鍬形(くわがた)蕙斎(けいさい)
文化(ぶんか)年間(ねんかん)(1804-18)
(たか)視点(してん)から日本(にっぽん)国土(こくど)隅々(すみずみ)まで(とら)えた鳥瞰図(ちょうかんず)です。日本(にっぽん)(かたち)圧縮(あっしゅく)され、本州(ほんしゅう)手前(てまえ)(かく)(はん)(しろ)名所(めいしょ)(こま)かく(しる)されています。画面(がめん)下部(かぶ)記載(きさい)されている「相模(さがみ)」の箇所(かしょ)では()(しま)(おも)われる(しま)(えが)かれています。日本(にっぽん)全体(ぜんたい)上空(じょうくう)から見下(みお)ろしたように(えが)いた構図(こうず)当時(とうじ)(めずら)しかったのか、葛飾北斎(かつしかほくさい)真似(まね)て、「東海道(とうかいどう)名所(めいしょ)一覧(いちらん)」に応用(おうよう)したといわれています。作者(さくしゃ)鍬形(くわがた)蕙斎(けいさい)北尾政美(きたおまさよし))は、北尾重政(きたおしげまさ)門人(もんじん)ですが、寛政(かんせい)6(ねん)(1794) 31(さい)津山藩(つやまはん)(げん)岡山県(おかやまけん))のお(かか)絵師(えし)となり、鍬形(くわがた)蕙斎(けいさい)紹真(つぐざね)(しょう)しました。

日本名(にほんめい)(しょ)()()

製作時期(せいさくじき):文久(ぶんきゅう)3(ねん)(1863)。
板元(はんもと):越平(こしひら)(越村屋平助(こしむらやへいすけ))

行列(ぎょうれつ)主役(しゅやく)である(わか)武将(ぶしょう)(うま)()りあがろうとしている場面(ばめん)(えが)いています。

画面左(がめんひだり)桑名城(くわなじょう)石垣(いしがき)()えることから、この()宮宿(みやしゅく)から桑名宿(くわなしゅく)(あいだ)をつなぐ海上路(かいじょうろ)伊勢湾(いせわん))の「七里(しちり)(わた)し」を(わた)り、桑名(くわな)(わた)(ぐち)到着(とうちゃく)した場面(ばめん)(えが)いたものと(かんが)えられます。

文久(ぶんきゅう)3(ねん)(1863)の十四代(じゅうよんだい)将軍家茂(しょうぐんいえもち)上洛(じょうらく)意識(いしき)して出版(しゅっぱん)された東海道(とうかいどう)シリーズで「上洛東海道(じょうらくとうかいどう)」と()われているものです。このシリーズは、どの作品(さくひん)にも武士(ぶし)姿(すがた)大名行列(だいみょうぎょうれつ)(えが)かれています。
東海道(とうかいどう)宿場(しゅくば)だけではなく、街道筋(かいどうすじ)名所(めいしょ)()()げているため、150(まい)()える膨大(ぼうだい)(そろ)(ぶつ)となっています。
(えが)いている絵師(えし)三代歌川豊国(さんだいうたがわとよくに)二代広重(にだいひろしげ)をはじめ、十数名(じゅうすうめい)当時(とうじ)()れっ()絵師(えし)分担(ぶんたん)して(えが)いています。

東海道 桑名(上洛東海道)

東海道(とうかいどう) 桑名(くわな)()上洛(じょうらく)東海道(とうかいどう)

製作時期(せいさくじき):文久(ぶんきゅう)3(ねん)(1863)。
板元(はんもと):越平(こしひら)(越村屋平助(こしむらやへいすけ))

浜名湖(はまなこ)遠州灘(えんしゅうなだ)がつながる今切(いまぎり)(わた)しを、行列(ぎょうれつ)()せた屋型(やかた)つきの豪華(ごうか)(ふね)(わた)っています。 この(ふね)御座船(ござぶね)といわれる貴人(きじん)()せる(ふね)のことです。

文久(ぶんきゅう)3(ねん)(1863)の十四代(じゅうよんだい)将軍家茂(しょうぐんいえもち)上洛(じょうらく)意識(いしき)して出版(しゅっぱん)された東海道(とうかいどう)シリーズで「上洛東海道(じょうらくとうかいどう)」と()われているものです。このシリーズは、どの作品(さくひん)にも武士(ぶし)姿(すがた)大名行列(だいみょうぎょうれつ)(えが)かれています。
東海道(とうかいどう)宿場(しゅくば)だけではなく、街道筋(かいどうすじ)名所(めいしょ)()()げているため、150(まい)()える膨大(ぼうだい)(そろ)(ぶつ)となっています。
(えが)いている絵師(えし)三代歌川豊国(さんだいうたがわとよくに)二代広重(にだいひろしげ)をはじめ、十数名(じゅうすうめい)当時(とうじ)()れっ()絵師(えし)分担(ぶんたん)して(えが)いています。

東海道 舞坂(上洛東海道)

東海道(とうかいどう) 舞坂(まいさか)()上洛(じょうらく)東海道(とうかいどう)

製作時期(せいさくじき):文久(ぶんきゅう)3(ねん)(1863)。板元(はんもと):越平(こしひら)(越村屋平助(こしむらやへいすけ))

藤枝宿(ふじえだしゅく)行列(ぎょうれつ)通過(つうか)する場面(ばめん)を、旅籠(はたご)(なか)から()構図(こうず)となっています。 行列(ぎょうれつ)手前(てまえ)土下座(どげざ)をしている旅籠(はたご)男性(だんせい)たちに(たい)して、女中(じょちゅう)たちは興味津々(きょうみしんしん)といった様子(ようす)(かお)をあげています。

旅籠(はたご)店先(みせさき)にはいくつもの木札(きふだ)()げられているのが()えます。これらは講札(こうさつ)といい、参詣(さんけい)(たび)をする(こう)一行(いっこう)が、あらかじめ()められた茶屋(ちゃや)旅籠(はたご)()つける目印(めじるし)として(かか)げられたものです。 まるで現代(げんだい)のツアー予約(よやく)のようなイメージです。
画面右手前(がめんみぎてまえ)講札(こうさつ)には「絵草紙講中(えぞうしこうじゅう)」など洒落(しゃれ)のきいた創作(そうさく)(こう)()かれたものもあります。行列(ぎょうれつ)()こうに()える旅籠(はたご)看板(かんばん)には、この(ばん)版元(はんもと)(あらわ)遠州屋(えんしゅうや)文字(もじ)(しる)されています。

文久(ぶんきゅう)3(ねん)(1863)の十四代(じゅうよんだい)将軍家茂(しょうぐんいえもち)上洛(じょうらく)意識(いしき)して出版(しゅっぱん)された東海道(とうかいどう)シリーズで「上洛東海道(じょうらくとうかいどう)」と()われているものです。
このシリーズは、どの作品(さくひん)にも武士(ぶし)姿(すがた)大名行列(だいみょうぎょうれつ)(えが)かれています。東海道(とうかいどう)宿場(しゅくば)だけではなく、街道筋(かいどうすじ)名所(めいしょ)()()げているため、150(まい)()える膨大(ぼうだい)(そろ)(ぶつ)となっています。(えが)いている絵師(えし)三代歌川豊国(さんだいうたがわとよくに)二代広重(にだいひろしげ)をはじめ、十数名(じゅうすうめい)当時(とうじ)()れっ()絵師(えし)分担(ぶんたん)して(えが)いています

東海道 藤枝(上洛東海道)

東海道(とうかいどう) 藤枝(ふじえだ)()上洛(じょうらく)東海道(とうかいどう)



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