ふりがな
江の島の歴史
江の島歴史年表
江の島散策マップ
江の島の文化財
江の島を訪れた人々
資料種類しりょうしゅるい(大分類だいぶんるい):
資料種類しりょうしゅるい(中分類ちゅうぶんるい):
資料種類しりょうしゅるい(小分類しょうぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(大分類だいぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(中分類ちゅうぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(小分類しょうぶんるい):
作者さくしゃ(50音分類おんぶんるい):
作者さくしゃ:
フリーワード:
板元(はんもと)印(しるし)なし 上洛東海道(じょうらくとうかいどう)シリーズからの一枚(いちまい)で、南湖(なんご)の風景(ふうけい)を描(えが)いた作品(さくひん)です。 南湖(なんご)は現在(げんざい)の茅ヶ崎市南部(ちがさきしなんぶ)の海岸(かいがん)に接(せっ)した地域名(ちいきめい)ですが、この地域(ちいき)の北端(ほくたん)は東海道(とうかいどう)を含(ふく)んでおり、ここに立場(たてば)(宿場間(しゅくばかん)の休憩所(きゅうけいしょ))がありました。 松並木(まつなみき)と、東海道(とうかいどう)に二(に)か所(しょ)しかない「左富士(ひだりふじ)」が名所(めいしょ)となっています。
東海道(とうかいどう)名所(めいしょ)之(の)内(うち) 南湖(なんご)
製作時期(せいさくじき):文久(ぶんきゅう)3年(ねん)(1863)。 板元(はんもと)印(しるし)なし 「上洛東海道(じょうらくとうかいどう)」シリーズの一枚(いちまい)です。由比ヶ浜(ゆいがはま)の鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)の一の鳥居(いちのとりい)の前(まえ)あたりから、稲村ヶ崎(いなむらがさき)、腰越(こしごえ)、江(え)の島(しま)、さらには遠(とお)く箱根山(はこねやま)、二子岳(ふたごだけ)、下田(しもだ)、そして富士(ふじ)までを望(のぞ)む景観(けいかん)が地名(ちめい)と共(とも)に描(えが)かれており、鳥瞰的(ちょうかんてき)な名所絵(めいしょえ)に長(ちょう)じた貞秀(さだひで)ならではの作品(さくひん)です。 また、中央(ちゅうおう)には画面(がめん)を二分(にぶん)するように松(まつ)の木(き)が描(えが)かれるといった、斬新(ざんしん)な構成(こうせい)も見(み)られます。波打(なみう)ち際(ぎわ)に立(た)っているのが将軍家茂(しょうぐんいえもち)と思(おも)われますが、実際(じっさい)に家茂(いえもち)がこの場所(ばしょ)に立(た)つことはなく、40番(ばん)の作品(さくひん)と同様(どうよう)に源頼朝(みなもとのよりとも)に仮託(かたく)して描(えが)かれたものと考(かんが)えられています。 文久(ぶんきゅう)3年(ねん)(1863)の十四代(じゅうよんだい)将軍家茂(しょうぐんいえもち)の上洛(じょうらく)を意識(いしき)して出版(しゅっぱん)された「上洛東海道(じょうらくとうかいどう)」と言(い)われているものの一枚(いちまい)です。由比ヶ浜(ゆいがはま)の鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)の一ノ鳥居(いちのとりい)の前(ぜん)あたりから、稲村ヶ崎(いなむらがさき)、腰越(こしごえ)、江(え)の島(しま)、さらには遠(とお)く箱根山(はこねやま)、二子岳(ふたごだけ)、下田(しもだ)、そして富士(ふじ)を望(のぞ)む景観(けいかん)が描(えが)かれています。実際(じっさい)にこのように見(み)えるかはともかく、鳥瞰図(ちょうかんず)や一覧図(いちらんず)に長(ちょう)じた、貞秀(さだひで)ならではの作品(さくひん)といえましょう。また、画面(がめん)中央(ちゅうおう)を分(わ)けるように描(えが)かれた松(まつ)の枝(えだ)や、ふたつの大波(おおなみ)など、斬新(ざんしん)な構図(こうず)を思(おも)いのままに描(えが)いた初代広重(しょだいひろしげ)顔負(かおま)けの構成力(こうせいりょく)にも、貞秀(さだひで)の絵師(えし)としての非凡(ひぼん)さが見(み)て取(と)れます。 中央(ちゅうおう)下辺(かへん)に立(た)っているのが将軍家茂(しょうぐんいえもち)と思(おも)われますが、実際(じっさい)に家茂(いえもち)がこの場所(ばしょ)に立(た)つことはありませんでした。源頼朝(みなもとのよりとも)に仮託(かたく)して描(えが)かれたものと考(かんが)えられています。
東海道(とうかいどう)名所(めいしょ)ノ内(うち) 由井ヶ(ゆいが)浜(はま)
製作時期(せいさくじき):文久(ぶんきゅう)3年(ねん)(1863)。 板元(はんもと):越平(こしひら)(越村屋平助(こしむらやへいすけ) 神奈川宿(かながわしゅく)の台(だい)の茶屋(ちゃや)を通(とお)る行列(ぎょうれつ)が描(えが)かれています。 後景(こうけい)に見(み)える丘(おか)のような台地(だいち)は野毛切通(のげのきりどおし)で、その奥(おく)には開港(かいこう)されたばかりの横浜(よこはま)の開港場(かいこうじょう)が描(えが)かれており、湾(わん)には洋船(ようせん)が停泊(ていはく)しています。 文久(ぶんきゅう)3年(ねん)(1863)の十四代将軍(じゅうよんだいしょうぐん)家茂(いえもち)の上洛(じょうらく)を意識(いしき)して出版(しゅっぱん)された東海道(とうかいどう)シリーズで「上洛東海道(じょうらくとうかいどう)」と言(い)われているものです。 このシリーズは、どの作品(さくひん)にも武士(ぶし)の姿(すがた)や大名行列(だいみょうぎょうれつ)が描(えが)かれています。東海道(とうかいどう)の宿場(しゅくば)だけではなく、街道筋(かいどうすじ)の名所(めいしょ)も取(と)り上(あ)げているため、150枚(まい)を越(こ)える膨大(ぼうだい)な揃(そろ)い物(もの)となっています。描(えが)いている絵師(えし)も三代(さんだい)歌川豊国(うたがわとよくに)、二代(にだい)広重(ひろしげ)をはじめ、十数名(じゅうすうめい)を越(こ)える当時(とうじ)の売(う)れっ子(こ)絵師(えし)が分担(ぶんたん)して描(えが)いています。
東海道(とうかいどう) 神奈川(かながわ)(御(ご)上洛(じょうらく)東海道(とうかいどう))
文久(ぶんきゅう)3年(さんねん)(1863)に第(だい)十四代(じゅうよんだい)将軍(しょうぐん)徳川家茂(とくがわいえもち)が、孝明天皇(こうめいてんのう)からの要請(ようせい)に応(こた)えて上洛(じょうらく)した際(さい)の行列(ぎょうれつ)を描(えが)いた作品(さくひん)です。翌年(よくねん)の元治(げんち)元年(がんねん)(1864)に刊行(かんこう)されました。 三代(さんだい)徳川家光(とくがわいえみつ)以来(いらい)229年(ねん)ぶりの徳川(とくがわ)将軍(しょうぐん)の上洛(じょうらく)で、総勢(そうぜい)3000名(めい)にのぼる大行列(だいぎょうれつ)で行(おこな)われました。12枚(まい)続(ぞく)の大作(たいさく)で、全編(ぜんぺん)に行列(ぎょうれつ)が描(えが)かれています。 江戸城(えどじょう)を背景(はいけい)に日本橋(にほんばし)から始(はじ)まり、京(きょう)の御所(ごしょ)までの街道(かいどう)をかなり湾曲(わんきょく)させて描(えが)き、道中(どうちゅう)には赤(あか)い枠(わく)で名所(めいしょ)や名物(めいぶつ)が記(しる)されています。
東海道名所図会(とうかいどうめいしょずえ)
箱根七湯(はこねしちとう)の一(ひと)つ「堂ヶ島湯宿(どうがしまゆやど)」の風景(ふうけい)が描(えが)かれています。堂ヶ島(どうがしま)は南北朝時代(なんぼくちょうじだい)の高僧(こうそう)である夢窓疎石(むそうそせき)によって開(ひら)かれたと伝(つた)えられ、古(ふる)くから多数(たすう)の湯治客(とうじきゃく)を集(あつ)めました。画面(がめん)右(みぎ)には、「白糸の滝(しらいとのたき)」の表記(ひょうき)があり、山(やま)の高(たか)いところから水(みず)が流(なが)れ落(お)ちる様(さま)が描(えが)かれます。
東海道(とうかいどう)名所(めいしょ) 箱根(はこね)湯治場(とうじば)
箱根山麓(はこねさんろく)と渓谷(けいこく)が描(えが)かれ、画面(がめん)右(みぎ)より、明礬山(みょうばんやま)、駒ケ嶽(こまがたけ)、冠ケ嶽(かんむりがたけ)と表記(ひょうき)されています。明礬山(みょうばんやま)は現在(げんざい)の神山付近(かみやまふきん)の山(やま)であったと考(かんが)えられ、明礬山(みょうばんやま)から産出(さんしゅつ)された明礬(みょうばん)は箱根土産(はこねみやげ)の一(ひと)つであったそうです。 本作(ほんさく)は東海道(とうかいどう)の名所(めいしょ)風景(ふうけい)に、当代諸家(とうだいしょか)の発句集(ほっくしゅう)を配(はい)した絵俳書(えばいしょ)です。嘉永(かえい)4年(ねん)(1851)に版元(はんもと)の永楽屋丈助(えいらくやじょうすけ)より刊行(かんこう)された『東海道名所発句集(とうかいどうめいしょほっくしゅう)』の改題本(かいだいぼん)で、元(もと)は版本(はんぽん)として売(う)り出(だ)されたものが、江戸(えど)から伊豆(いず)にかけての風景(ふうけい)を画帖(がじょう) の形式(けいしき)で再版(さいはん)されたものらしく、各図(かくず)が独立(どくりつ)した一枚(いちまい)の絵(え)として鑑賞(かんしょう)できるようになっています。本作(ほんさく)を描(えが)いた時期(じき)、広重(ひろしげ)は天童藩(てんどうはん)からの依頼(いらい)により多数(たすう)の肉筆画(にくひつが)を描(えが)いており、自然(しぜん)な奥行(おくゆ)きを感(かん)じさせる構図(こうず)や、青(あお)みがかった淡(あわ)い色調(しきちょう)など、肉筆(にくひつ)(直接(ちょくせつ)に筆(ふで)で描(えが)いた作品(さくひん))の風景画(ふうけいが)に通(つう)じる表現(ひょうげん)も見(み)られます。
東海道(とうかいどう)名所(めいしょ) 箱根(はこね)高嶺(たかみね)
箱根(はこね)の山並(やまな)みを背景(はいけい)に、芦ノ湖(あしのこ)の風景(ふうけい)が描(えが)かれています。画面(がめん)右(みぎ)に書(か)かれている「賽ノ河原(さいのかわら)」は、江戸時代(えどじだい)には地蔵信仰(じぞうしんこう)の地(ち)として有名(ゆうめい)で、多数(たすう)の石仏(せきぶつ)・石塔(せきとう)が湖畔(こはん)に並(なら)んでいたとされます。左下(ひだりした)に書(か)かれている「権現道(ごんげんどう)」は、箱根権現(はこねごんげん)と称(しょう)される箱根神社(はこねじんじゃ)に続(つづ)く道(みち)です。 本作(ほんさく)は東海道(とうかいどう)の名所(めいしょ)風景(ふうけい)に、当代諸家(とうだいしょか)の発句集(ほっくしゅう)を配(はい)した絵俳書(えばいしょ)です。嘉永(かえい)4年(ねん)(1851)に版元(はんもと)の永楽屋丈助(えいらくやじょうすけ)より刊行(かんこう)された『東海道名所発句集(とうかいどうめいしょほっくしゅう)』の改題本(かいだいぼん)で、元(もと)は版本(はんぽん)として売(う)り出(だ)されたものが、江戸(えど)から伊豆(いず)にかけての風景(ふうけい)を画帖(がじょう) の形式(けいしき)で再版(さいはん)されたものらしく、各図(かくず)が独立(どくりつ)した一枚(いちまい)の絵(え)として鑑賞(かんしょう)できるようになっています。本作(ほんさく)を描(えが)いた時期(じき)、広重(ひろしげ)は天童藩(てんどうはん)からの依頼(いらい)により多数(たすう)の肉筆画(にくひつが)を描(えが)いており、自然(しぜん)な奥行(おくゆ)きを感(かん)じさせる構図(こうず)や、青(あお)みがかった淡(あわ)い色調(しきちょう)など、肉筆(にくひつ)(直接(ちょくせつ)に筆(ふで)で描(えが)いた作品(さくひん))の風景画(ふうけいが)に通(つう)じる表現(ひょうげん)も見(み)られます。
東海道(とうかいどう)名所(めいしょ) 箱根(はこね)湖水(こすい) 権現(ごんげん)社(しゃ)
江(え)の島(しま)に遊山(ゆさん)へ来(き)た三人(さんにん)の女性(じょせい)が描(えが)かれます。左(ひだり)の女性(じょせい)は上着(うわぎ)を片肌(かたはだ)脱(ぬ)いで、あちらへ行(い)こうと指(ゆび)さす仕草(しぐさ)で描(えが)かれています。中央(ちゅうおう)の女性(じょせい)は眉(まゆ)を落(お)とし、髪型(かみがた)も落(お)ち着(つ)いていることから、既婚女性(きこんじょせい)の風俗(ふうぞく)とわかります。背景(はいけい)は波(なみ)がうねる様子(ようす)が特徴的(とくちょうてき)で、江(え)の島(しま)の岩肌(いわはだ)が波(なみ)の形(かたち)に呼応(こおう)しているようにも見(み)えます。なお本作(ほんさく)を描(えが)いた歌川久国(うたがわひさくに)は、作品数(さくひんすう)が非常(ひじょう)に少(すく)なく、謎(なぞ)多(おお)き絵師(えし)です。
相州(そうしゅう)江(え)之(の)嶋(しま)之(の)図(ず)