ふりがな
江の島の歴史
江の島歴史年表
江の島散策マップ
江の島の文化財
江の島を訪れた人々
資料種類しりょうしゅるい(大分類だいぶんるい):
資料種類しりょうしゅるい(中分類ちゅうぶんるい):
資料種類しりょうしゅるい(小分類しょうぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(大分類だいぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(中分類ちゅうぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(小分類しょうぶんるい):
作者さくしゃ(50音分類おんぶんるい):
作者さくしゃ:
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日本(にほん)各地(かくち)の著名(ちょめい)な神社(じんじゃ)仏閣(ぶっかく)を描(えが)いた画帖(がじょう)です。信州(しんしゅう)は善光寺(ぜんこうじ)、相州(そうしゅう)は江(え)の島(しま)の風景(ふうけい)が描(えが)かれています。明治(めいじ)年間(ねんかん)に刊行(かんこう)された作品(さくひん)であるため、摺(す)りに化学(かがく)染料(せんりょう)が多用(たよう)され、紅(べに)や紫(むらさき)が鮮(あざ)やかな発色(はっしょく)となっています。
大日本(だいにっぽん)神社(じんじゃ)仏閣(ぶっかく)
江(え)の島(しま)を背景(はいけい)に、女性(じょせい)二人(ふたり)が荷担(にかつ)ぎと共(とも)に浜辺(はまべ)を鎌倉(かまくら)方面(ほうめん)へ向(む)かって歩(ある)く様子(ようす)が描(えが)かれています。これは上部(じょうぶ)に狂歌(きょうか)の書(か)かれた摺物(すりもの)(私家(しか)版(ばん)として作(つく)られた配(くば)り物(もの))の作品(さくひん)であり、一般(いっぱん)売(う)りされる錦絵(にしきえ)とは異(こと)なり、波際(なみぎわ)などの摺(す)りや色合(いろあ)いが繊細(せんさい)な表現(ひょうげん)となっているところが特徴(とくちょう)です。 作者(さくしゃ)の秀麿(ひでまる)についての詳(くわ)しい来歴(らいれき)は不明(ふめい)ですが、初代(しょだい)歌麿(うたまろ)の弟子(でし)で、美人画(びじんが)を多(おお)く残(のこ)しました。
題名(だいめい)不詳(ふしょう)(江(え)の島(しま)道中(どうちゅう)風景(ふうけい))
文化(ぶんか)6年(ねん)(1809)頃(ころ) 三枚(さんまい)続(つづき)の一(いち)図(ず)(中央(ちゅうおう))です。参詣者(さんけいしゃ)と思(おも)われる旅姿(たびすがた)の男性(だんせい)と海女(あま)の姿(すがた)が描(えが)かれています。「開帳(かいちょう)」と文字(もじ)の入(はい)った提灯(ちょうちん)が描(えが)かれていることから、文化(ぶんか)6年(ねん)(1809)の六十年(ねん)に一度(いちど)の三社(さんしゃ)惣開(そうかい)帳(ちょう)(本宮(もとみや)・上之宮(うえのみや)・下之宮(しものみや))にあわせて刊行(かんこう)されたものと思(おも)われます。
題名(だいめい)不詳(ふしょう)(江(え)の島(しま)弁財天(べんざいてん)開帳(かいちょう))
製作時期(せいさくじき):慶応元年(けいおうがんねん)(1865)。 板元(はんもと)印(しるし)なし 二代広重(にだいひろしげ)は初代広重(しょだいひろしげ)長女(ちょうじょ)との結婚以前(けっこんいぜん)の重宣時代(しげのぶじだい)、二代広重(にだいひろしげ)時代(じだい)、離婚後(りこんご)横浜(よこはま)に住(す)んでからの立祥時代(りゅうしょうじだい)(慶応元年(けいおうがんねん)~明治二年(めいじにねん))のそれぞれの画銘(がめい)の時(とき)に数点(すうてん)の東海道(とうかいどう)シリーズを残(のこ)しています。
東海道(とうかいどう)五拾(ごじゅう)三(さん)駅(えき) 日本橋(にほんばし) 繁栄(はんえい)之(の)図(ず)
ね助(すけ)と頓(とん)太郎(たろう)という二人(ふたり)の主人公(しゅじんこう)が江(え)の島(しま)参詣(さんけい)をする道中(どうちゅう)で、さまざまな失敗(しっぱい)や滑稽(こっけい)をくり広(ひろ)げるさまを書(か)いた物語(ものがたり)です。主人公(しゅじんこう)の名前(なまえ)は違(ちが)えど、一九(いっく)ら弥次喜多(やじきた)を意識(いしき)して生(う)み出(だ)したキャラクターと思(おも)われます。 挿絵(さしえ)は、荷(に)編(へん)を初代(しょだい)喜多川(きたがわ)歌麿(うたまろ)門下(もんか)の喜多川月麿(きたがわつきまろ)が描(えが)いています。月(つき)麿(まろ)は初名(はつな)が菊(きく)麿(まろ)で、享和(きょうわ)2年(ねん)(1802)に喜久麿(きくまろ)、そして文化(ぶんか)1年(ねん)(1804)に月(つき)麿(まろ)と改名(かいめい)しました。美人画(びじんが)を得意(とくい)とし、草双紙(くさぞうし)の挿絵(さしえ)も描(えが)いています。
江之島(えのしま)土産(みやげ)
十四(じゅうよん)代(だい)将軍(しょうぐん)徳川(とくがわ)家茂(いえもち)の上洛(じょうらく)に際(さい)して作(つく)られた、十(じゅう)枚(まい)続(つづき)という大作(たいさく)の名所(めいしょ)絵(え)です。画面(がめん)全体(ぜんたい)を巻物(まきもの)の形態(けいたい)に似(に)せており、行列(ぎょうれつ)を描(えが)きつつ各(かく)宿場(しゅくば)や沿道(えんどう)の名所(めいしょ)も記(しる)されています。 俯瞰(ふかん)的(てき)な視点(してん)で描(えが)かれ、東海道(とうかいどう)を一望(いちぼう)できるようになっています。
東海道五十三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ)一覧(いちらん)
弘化(こうか)4年(ねん)-嘉永(かえい)5年(ねん)(1847-52) 初代(しょだい)広重(ひろしげ)の蔦屋(つたや)版(ばん)東海道(とうかいどう)シリーズの一枚(いちまい)です。原宿(はらじゅく)は、東海道(とうかいどう)で最(もっと)も富士山(ふじさん)に近(ちか)い位置(いち)にあるため、画(が)中(ちゅう)では、富士山(ふじさん)が枠線(わくせん)を超(こ)えて雄大(ゆうだい)に描(えが)かれています。
東海道(とうかいどう) 十四(じゅうよん) 五十三次(ごじゅうさんつぎ)之(の)内(うち) 原(はら)
製作時期(せいさくじき):天保(てんぽう)10年頃(ねんごろ)(1839)。 板元(はんもと):佐野喜(さのきち)(佐野屋喜兵衛(さのやきへえ)) 背景(はいけい)は広重(ひろしげ)の保永堂版東海道(ほえいどうばんとうかいどう)「日本橋(にほんばし) 朝之景(あさのかげ)」の構図(こうず)を用(もち)いています。 広重(ひろしげ)の作品(さくひん)では橋(はし)の上(うえ)に大名行列(だいみょうぎょうれつ)の出立風景(しゅったつふうけい)が描(えが)かれますが、本作(ほんさく)では橋(はし)の上(うえ)は荷(に)を満載(まんさい)した大八車(だいはちぐるま)、橋(はし)の手前(てまえ)は天秤棒(てんびんぼう)を担(かつ)いだ棒手振(ぼてふ)りが描(えが)かれるなど、庶民(しょみん)の通交風景(つうこうふうけい)となっています。 また画面(がめん)左上(ひだりうえ)には富士山(ふじさん)が書(か)き加(くわ)えられ、正月(しょうがつ)の風情(ふぜい)でしょうか、並(なら)ぶように凧(たこ)が揚(あ)がっています。手前(てまえ)の女性(じょせい)の振(ふ)り袖(そで)の柄(がら)も大輪(たいりん)の梅(うめ)で、正月(しょうがつ)にふさわしいものとなっています。板元(はんもと)は森屋治兵衛(もりやじへえ)。 国貞(くにさだ)(三代豊国(さんだいとよくに)の前名(まえな))描(えが)くこの東海道(とうかいどう)シリーズは、各宿(かくやど)の風景(ふうけい)をバックにして前面(ぜんめん)に立(た)ち姿(すがた)の美人(びじん)を描(えが)いたもので、全(ぜん)シリーズを通(とお)し、バックの風景画(ふうけいが)は広重(ひろしげ)の保永堂版東海道(ほえいどうばんとうかいどう)に非常(ひじょう)によく似(に)ています。
東海道五十三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ)之(の)内(うち) 日本橋(にほんばし)之(の)図(ず)