ふりがな
江の島の歴史
江の島歴史年表
江の島散策マップ
江の島の文化財
江の島を訪れた人々
資料種類しりょうしゅるい(大分類だいぶんるい):
資料種類しりょうしゅるい(中分類ちゅうぶんるい):
資料種類しりょうしゅるい(小分類しょうぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(大分類だいぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(中分類ちゅうぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(小分類しょうぶんるい):
作者さくしゃ(50音分類おんぶんるい):
作者さくしゃ:
フリーワード:
制作(せいさく)時期(じき):文化(ぶんか)5年(ねん)(1808) 8月(がつ)。 板元(はんもと):山口(やまぐち) 人々(ひとびと)が岩屋(いわや)に集(たか)ったところを描(えが)いたもので、構図(こうず)の中心人物(ちゅうしんじんぶつ)は扇子(せんす)を持(も)った若(わか)い男性(だんせい)で、その前(まえ)には尾頭(おかしら)つきの鯛(たい)などの料理(りょうり)が並(なら)べられており、何(なに)か特別(とくべつ)な祝(しゅく)事(ごと)がこの年(とし)にあった事(こと)を示(しめ)しているようです。作品(さくひん)としては右(みぎ)の1枚(まい)が少(すこ)し短(みじか)くなっています。
相州(そうしゅう)江(え)ノ嶋(しま)巌(いわ)屋(や)の図(ず)
制作(せいさく)時期(じき):不明(ふめい)。落款(らっかん)なし 喜多川(きたがわ)歌政(かせい)の作(さく)と伝(つた)えられます。紙本(しほん)著色(ちょしょく)六曲(ろっきょく)一隻(いっせき)屏風(びょうぶ)で、金地(きんじ)の六曲(ろくきょく)屏風(びょうぶ)に七里ガ浜(しちりがはま)から見(み)た江(え)の島(しま)を描(えが)き、左方(さかた)には房総半島(ぼうそうはんとう)もかすかに見(み)えます。 江(え)の島(しま)とそれに弧(こ)を描(えが)いて続(つづ)く七里ガ浜(しちりがはま)と丘陵(きゅうりょう)は、南画(なんが)風(ふう)の描法(びょうほう)が感(かん)じられます。七里ガ浜(しちりがはま)を行(い)く参詣(さんけい)人(にん)の男女(だんじょ)は浮世絵(うきよえ)風(ふう)、やや人物(じんぶつ)と背景(はいけい)のバランスがくずれ、画面(がめん)の広(ひろ)さを十分(じゅうぶん)生(い)かしきれないところがあります。 落款(らっかん)がなく、伝(でん)喜多川(きたがわ)歌政(かせい)となっていますが、初代(しょだい)歌政(かせい)の作品(さくひん)というよりは二代(にだい)歌政(かせい)ではないかと考(かんが)えられます。描法(びょうほう)などの比較(ひかく)研究(けんきゅう)が必要(ひつよう)で、結論(けつろん)は今後(こんご)の研究(けんきゅう)に委(ゆだ)ねられます。
題名(だいめい)不詳(ふしょう)(七里ガ浜(しちりがはま)より見(み)た江(え)の島(しま)風景(ふうけい)図(ず))
板元(はんもと):加賀屋吉右衛門(かがやきちえもん)か萬屋(よろずや)吉兵衛(きちべえ) 裸(はだか)の海女(あま)の鮑(あわび)取(と)りを、豪華(ごうか)な着物(きもの)を着(き)た女性(じょせい)たちが見物(けんぶつ)する様子(ようす)が描(えが)かれていますが、これは実在(じつざい)の光景(こうけい)ではなく、見立絵(みたてえ)です。実際(じっさい)の江(え)の島(しま)では女(おんな)の海女(あま)は存在(そんざい)せず、男(おとこ)の海士(あま)が鮑(あわび)取(と)りを生業(なりわい)として行(い)っていました。この作品(さくひん)では、絵(え)の作意(さくい)として、男(おとこ)を女(おんな)に置(お)き換(か)えた変(か)えたのではないかと思(おも)われます。
江之島(えのしま)蚫(あわび)猟(とり)之(の)図(ず)
大判(おおばん)横(よこ)1枚(まい) 縦(たて)25.3 横(よこ)36.3 制作(せいさく)時期(じき):文化(ぶんか)年間(ねんかん)(1804~18)頃(ころ)。板元(はんもと):「○に浜(はま)」印(しるし) 女性(じょせい)が牛(うし)に乗(の)り子(こ)どもがその牛(うし)を引(ひ)いている姿(すがた)が描(えが)かれています。このように、砂浜(すなはま)を牛(うし)を引(ひ)いて歩(ある)くという構図(こうず)は国芳(くによし)や広重(ひろしげ)など、他(た)の絵師(えし)の作品(さくひん)にも多(おお)く見(み)られる典型(てんけい)的(てき)なものです。実際(じっさい)にも、江(え)の島(しま)周辺(しゅうへん)ではこうした風習(ふうしゅう)はあったようで、十返舎一九(じっぺんしゃいっく)作(さく)『滑稽(こっけい)江(え)之(の)嶋家(しまいえ)土産(みやげ)』の序(ついで)に「牛(うし)にひかれて善行寺(ぜんぎょうじ)ならぬ岩本院(いわもといん)にあゆみをはこぶものおほしとかや」とあり、また、七里ガ浜(しちりがはま)で牛(うし)引(び)きが待(ま)ち受(う)けていたという場面(ばめん)も出(で)てきます。浮世絵(うきよえ)では、牛(うし)に乗(の)る客(きゃく)は女性(じょせい)、牛(うし)引(び)きは子(こ)どもの姿(すがた)で描(えが)かれていますが、実際(じっさい)には男性客(だんせいきゃく)も乗(の)り、牛(うし)引(び)きは大人(おとな)であったようです。
江之島(えのしま)の風景(ふうけい)
制作(せいさく)時期(じき):文化(ぶんか)年間(ねんかん)(1804~18)頃(ころ)。板元(はんもと):山口(やまぐち)か 女性(じょせい)2名(めい)が伴(とも)の男性(だんせい)を連(つ)れて江(え)の島(しま)詣(もうで)に来(き)たというよく見(み)られる構図(こうず)ですが、左手(ひだりて)にさざえを売(う)る子(こ)どもが描(えが)かれているのは珍(めずら)しい作品(さくひん)です。摺(す)り、色彩(しきさい)とも少(すこ)し荒(あ)れたところがあるので、後(あと)摺(す)りではないかと考(かんが)えられます。また右手(みぎて)、松(まつ)の背景(はいけい)には桜(さくら)が咲(さ)いており、季節(きせつ)は4月(がつ)頃(ごろ)であるのを示(しめ)しています。
優草(なとりぐさ)名所(めいしょ)風景(ふうけい)
本作(ほんさく)は画面上部(がめんじょうぶ)に青(あお)の濃淡(のうたん)で絵柄(えがら)を表現(ひょうげん)する「藍摺(あいずり)」で江の島(えのしま)と富士(ふじ)の風景(ふうけい)が配(はい)されており、下部(かぶ)には当時(とうじ)評判(ひょうばん)の遊女(ゆうじょ)が手紙(てがみ)を書(か)く様子(ようす)が描(えが)かれています。鶴屋(つるや)というのは吉原(よしわら)にあった遊女屋(ゆうじょや)の名前(なまえ)で、「かしく」が遊女(ゆうじょ)の源氏名(げんじな)です。
和国(わこく)名所(めいしょ)江(え)の嶌(しま) 全(ぜん)勢揃(せいそろえ) 鶴屋(つるや)内(ない)かしく
作画(さくが)期(き)が短(みじか)かった二代(ふたよ)歌川(うたがわ)豊国(とよくに)の最高傑作(さいこうけっさく)と呼(よ)ばれる「名勝(めいしょう)八景(はっけい)」シリーズのひとつです。雨(あめ)の表現(ひょうげん)が特徴(とくちょう)的(てき)で、背景(はいけい)の大山(おおやま)のシルエットを分断(ぶんだん)することで、風雨(ふうう)の激(はげ)しさを感(かん)じさせる巧(たく)みな構成(こうせい)です。よく見(み)れば急峻(きゅうしゅん)に描(えが)かれた石段(いしだん)を上(のぼ)る大山(おおやま)詣(まい)(まい)りの人物(じんぶつ)が描(えが)かれており、奉納(ほうのう)太刀(たち)を担(かつ)いでいる人(ひと)も見(み)えます。 ※大山詣(おおやままい)り 現(げん)・神奈川県伊勢原市(かながわけんいせはらし)の大山(おおやま)に祀(まつ)られる石(せき)(せき)尊大(そんだい)(そんだい)権現(ごんげん)(ごんげん)(大(おお)山阿(やまあ)(あ)夫(ふ)(ふ)利(り)(り)神社(じんじゃ))へ参拝(さんぱい)すること。江戸時代(えどじだい)に隆盛(りゅうせい)し、歌舞伎(かぶき)の外題(げだい)や落語(らくご)にも多(おお)く残(のこ)され往時(おうじ)の人気(にんき)の高(たか)さがうかがえる。
名勝(めいしょう)八景(はっけい) 大山(おおやま)夜(や)雨(う)
副題(ふくだい)「玉川(たまがわ)鮎(あゆ)汲(くみ)の図(ず)」 満月(まんげつ)の明(あか)るい夜(よる)に、玉川(たまがわ)(多摩川(たまがわ))で鮎(あゆ)漁(りょう)をする人々(ひとびと)の様子(ようす)が描(えが)かれています。 玉川(たまがわ)は、古来(こらい)歌枕(うたまくら)として和歌(わか)に詠(よ)まれた名所(めいしょ)であり、また月見(つきみ)の名所(めいしょ)、鮎(あゆ)の産地(さんち)としても知(し)られていました。
名勝(めいしょう)八景(はっけい) 玉川(たまがわ)秋月(しゅうげつ)