Fujisawa Net Museum

資料一覧

平成(へいせい)10(ねん)(1998)2(がつ)12(にち)指定(してい)総高(そうだか)100.5㎝、口径(こうけい)54.0㎝/銘文(めいぶん)によると、元々(もともと)この梵鐘(ぼんしょう)()(しま)所在(しょざい)した金亀山江島寺(きんきざんえじまでら)(かね)として寛永(かんえい)6(ねん)(1629)に鋳造(ちゅうぞう)されました。追銘(ついめい)から、明和(めいわ)8(ねん)(1771)に江島寺(えしまでら)(かね)再鋳(さいちゅう)された(さい)、この寛永(かんえい)(かね)石井平七(いしいへいしち)()()り、慈眼寺(じがんじ)施入(せにゅう)したことがわかります。作者(さくしゃ)の酒巻庄五郎定勝は相模国外(さがみのくにがい)鋳物師(いもじ)(おも)われます。元和(がんな)(1615)以降(いこう)鋳造(ちゅうぞう)された梵鐘(ぼんしょう)は、ほとんどが太平洋戦争中(たいへいようせんそうちゅう)軍事目的(ぐんじもくてき)から金属資源(きんぞくしげん)として回収(かいしゅう)されたため、現存(げんそん)するものが(すく)なく、中世(ちゅうせい)作例(さくれい)(おと)らず貴重(きちょう)なものです。所有管理者(しょゆうかんりしゃ)慈眼寺(じがんじ)

(きゅう)江島(えじま)(でら)梵鐘(ぼんしょう)

昭和(しょうわ)29(ねん)(1954)3月20日(がつはつか)指定(してい)折本(おりほん)(たて)23.4㎝、(よこ)8.4㎝、僧衆(そうしゅ)144(おり)尼衆(じしゅう)84(おり)遊行上人(ゆぎょうしょうにん)所持(しょじ)過去帳(かこちょう)で「僧衆(そうしゅ)」「尼衆(じしゅう)」の2(じょう)があります。代々(だいだい)上人(しょうにん)諸国遊行(しょこくゆぎょう)携行(けいこう)し、死亡(しぼう)した僧尼(そうに)法名(ほうみょう)真筆(しんぴつ)()()いだもので、『往古過去帳(おうごのかこちよう)』とも()ばれています。一遍在世中(いっぺんざいせいちゅう)弘安2年(こうあんにねん)(1279)6月(ろくがつ)二祖(にそ)真教(しんきょう)(ふで)(はじ)まり、30代有三(だいゆうぞう)遊行(ゆぎょう)相続(そうぞく)した永禄(えいろく)6(ねん)(1563)まで、285(ねん)で12000(ちか)くの霊数(れいすう)(しる)されています。後代(こうだい)には信者(しんじゃ)法名(ほうみょう)記入(きにゅう)され、これを「お過去帳入(かこちょうい)り」と(しょう)して、浄土往生(じょうどおうじょう)(あかし)(かんが)えられるようになりました。かつては巻子(かんす)でしたが、現在(げんざい)折本(おりほん)のかたちになっています。所有管理者(しょゆうかんりしゃ)清浄光寺(しょうじょうこうじ)遊行寺(ゆぎょうじ)

()(しゅう)過去帳(かこちょう) 2(じょう)

昭和(しょうわ)29(ねん)(1954)3月20日(がつはつか)指定(してい)枡型綴葉装(ますがたてっちょうそう)(たて)16.3㎝、(よこ)16.6㎝、(表紙(ひょうし))紺紙金泥蓮花文(こんしこんでいれんげもん)、(見返(みかえし))金箔(きんぱく)日本語(にほんご)(ほとけ)礼拝讃嘆(れいはいさんだん)する(うた)(和讃(わさん))が(しる)されています。時宗(じしゅう)では、一昼夜(いっちゅうや)を6つに()けた、晨朝(じんじょう)日中(にっちゅう)日没(にちぼつ)初夜(しょや)中夜(ちゅうや)後夜(ごや)六時(ろくじ)に、この和讃(わさん)(とな)えました。内容(ないよう)恵心僧都(えしんそうず)(源信(げんしん))(せん)(つた)える六時居讃(ろくじいさん)写本(しゃほん)です。鎌倉期(かまくらき)二祖(にそ)真教筆(しんきょうひつ)(つた)えられていますが、書風(しょふう)から南北朝期(なんぼくちょうき)写本(しゃほん)推定(すいてい)されています。末紙(すえがみ)に「カミ(すう)44まい」とありますが、現在(げんざい)本紙(ほんし)は51(まい)あります。「安食問答(あじきもんどう)」と()わせて1(けん)として、重要文化財(じゅうようぶんかざい)指定(してい)されています。所有管理者(しょゆうかんりしゃ)清浄光寺(しょうじょうこうじ)遊行寺(ゆぎょうじ)

六時(ろじ)()(さん) 1(じょう)

昭和(しょうわ)29(ねん)(1954)3月20日(がつはつか)指定(してい)枡型綴葉装(ますがたてっちょうそう)(たて)16.3㎝、(よこ)15.3㎝、紙数(しすう)94枚(きゅうじゅうよんまい)、(表紙(ひょうし))茶地菊花文金襴(ちゃじきくかもんきんらん)、(見返(みかえし)金箔(きんぱく)二祖(にそ)真教(しんきょう)が、近江国安食(おうみのくにあじき)(滋賀県豊郷町(しがけんとよさとちょう)あたり)の九郎左衛門入道実阿弥陀仏(くろうさえもんにゅうどうじつあみだぶつ)からの質問(しつもん)(こた)えた返事(へんじ)です。四十八ヵ条(よんじゅうはちかじょう)からなり、一条(いちじょう)ごとに(じゅん)()って(こた)える形式(けいしき)()かれています。末尾(まつび)正和(しょうわ)3(ねん)(1314)9月9日(がつここのか)日付(ひづけ)と「他阿弥陀佛(たあみだぶつ)」(遊行上人(ゆぎょうしょうにん)称号(しょうごう))の署名(しょめい)があり、真教(しんきょう)自筆(じひつ)(かんが)えられています。真教(しんきょう)(かんが)えを()(うえ)貴重(きちょう)宝典(ほうてん)です。「六時居讃(ろくじいざん)」と()わせて1(けん)として、(くに)重要文化財(じゅうようぶんかざい)指定(してい)されています。所有管理者(しょゆうかんりしゃ)清浄光寺(しょうじょうこうじ)遊行寺(ゆぎょうじ)

安食(あじき)問答(もんどう) 1(じょう)

昭和(しょうわ)50(ねん)(1975)2月7日(がつなのか)指定(してい)()(しま)岩本院(いわもといん)伝来(でんらい)した(やく)400(てん)古文書(こもんじょ)です。(たて)51.2㎝・(よこ)69.5㎝の折本(おりほん)通称(つうしょう)される1(じょう)と、巻子(かんす)50(かん)整理(せいり)されています。江戸時代(えどじだい)()(しま)弁天社(べんてんしゃ)本宮岩屋(ほんぐういわや)上之宮(うえのみや)下之宮(しものみや)三社(さんしゃ)があり、江嶋寺(えのしまでら)総称(そうしょう)される三坊(さんぼう)三社(さんしゃ)管理(かんり)していました。三坊(さんぼう)とも明治元年(めいじがんねん)(1868)に廃寺(はいじ)となりましたが、その(うち)本宮(ほんぐう)(あず)かっていたのが岩本院(いわもといん)で、全体(ぜんたい)総別当(そうべっとう)でもありました。岩本院文書(いわもといんぶんしょ)は、享徳(きょうとく)4(ねん)(1455)の足利成氏(あしかがしげうじ)感状(かんじょう)(戦功(せんこう)をたたえる文書(ぶんしょ))以下(いか)古河公方(こがくぼう)足利氏(あしかがし)小田原(おだわら)北条氏(ほうじょうし)徳川将軍家(とくがわしょうぐんけ)本山(ほんざん)だった京都(きょうと)仁和寺(にんなじ)との(かか)わり、島内(とうない)のできごと、弁財天信仰(べざいてんしんこう)など、中世(ちゅうせい)から近世(きんせい)(いた)()(しま)様子(ようす)()らせてくれます。現在(げんざい)文書館(もんじょかん)寄託(きたく)されています。

岩本院(いわもといん)文書(もんじょ)



Page Top