Fujisawa Net Museum

資料一覧

平成(へいせい)8(ねん)(1996)3月1日(がつついたち)指定(してい)(たて)27.6㎝/天平宝字(てんぴょうほうじ)2(ねん)(758)4(がつ)21(にち)勘経(かんぎょう)((きょう)のつき()わせ)・対読(ついどく)(()()わせ)、翌年(よくとし)12(がつ)16(にち)書写(しょしゃ)奥書(おくがき)がある古写経(こしゃきょう)市内現存(しないげんそん)最古(さいこ)史料(しりょう)です。巻首端裏(かんしゅはしうら)奥題下(おくだいか)の2ヵ所(かしょ)に、隷書体(れいしょたい)無郭(むかく)朱印(しゅいん)善光(ぜんこう)」が()されていることから、「善光朱印経(ぜんこうしゅいんきょう)」とも()ばれています。奥書(おくがき)用紙数(ようしすう)18とありますが、現存(げんそん)するのは8(まい)で、(だい)8()から(だい)17()(うしな)われています。全体的(ぜんたいてき)保存状態(ほぞんじょうたい)()く、勘経(かんぎょう)書写(しょしゃ)校正(こうせい)装丁(そうてい)(いた)制作(せいさく)についての奥書(おくがき)貴重(きちょう)です。「善光朱印経(ぜんこうしゅいんきょう)」は奈良後期(ならこうき)(おこな)われた写経事業(しゃきょうじぎょう)遺巻(いかん)で、本巻(ほんかん)(ふく)全国(ぜんこく)で32(かん)確認(かくにん)されています。所有管理者(しょゆうかんりしゃ)清浄光寺(しょうじょうこうじ)遊行寺(ゆぎょうじ)

増壹阿鋡経(ぞういつあごんきょう) (まき)(だい)(さん)(じゅう)(ろく)

平成(へいせい)10(ねん)(1998)2(がつ)12(にち)指定(してい)線装綴(せんそうぼん)後補(こうほ))、(たて)25.2㎝、(よこ)16.6㎝、紙数(しすう)66(まい)聖徳太子(しょうとくたいし)一代記(いちだいき)です。著者(ちょしゃ)諸説(しょせつ)あって現状(げんじょう)では不明(ふめい)平安末期頃(へいあんまっきごろ)原作(げんさく)(かんが)えられます。諸種(しょしゅ)ある太子(たいし)伝記(でんき)(うち)(もっと)もまとまっており、後世(こうせい)太子信仰(たいししんこう)形成(けいせい)(おお)きな影響(えいきょう)(あた)えた伝記(でんき)です。本来(ほんらい)上下(じょうげ)2(かん)ですが、この伝暦(でんりゃく)上巻(じょうかん)(うしな)われ下巻(げかん)(太子(たいし)10歳以降(さいいこう))のみです。奥書(おくがき)嘉暦元年(かりゃくがんねん)(1326)の記載(きさい)があり、現存(げんそん)伝本(でんぽん)(うち)番目(ばんめ)(ふる)写本(しゃほん)です。系統(けいとう)現存(げんそん)しない四天王寺(してんのうじ)(ほん)(うつ)しなので、()写本(しゃほん)にない記事(きじ)四天王寺(してんのうじ)関連(かんれん)()()みがあり、()との比較検討(ひかくけんとう)にも重要(じゅうよう)で、太子(たいし)子供(こども)についても(ほか)とは(こと)なる記載(きさい)があります。所有管理者(しょゆうかんりしゃ)清浄光寺(しょうじょうこうじ)遊行寺(ゆぎょうじ)

聖徳太子伝暦(しょうとくたいしでんりゃく)

昭和(しょうわ)59(ねん)(1984)3(がつ)26(にち)指定(してい)/1(かん)9(つう)古文書(こもんじょ)です。弘治元(こうじがん)-天正(てんしょう)6(ねん)(1555-78)に、小田原(おだわら)北条氏(ほうじょうし)3代(さんだい)氏康(うじやす)玉縄城主(たまなわじょうぬし)綱成(つなしげ)、その()氏繁(うじしげ)らが()した文書(ぶんしょ)で、当時(とうじ)大鋸(だいぎり)あたりの様子(ようす)()ることができます。これによると、森氏(もりし)清浄光寺(しょうじょうこうじ)(遊行寺(ゆぎょうじ))の客僚(きゃくりょう)(半僧半俗(はんそうはんぞく)雑務(ざつむ)をつとめた(ひと)たち)の(あたま)で、大鋸引(おがびき)(製材職人(せいざいしょくにん))の(あたま)としても北条氏(ほうじょうし)命令(めいれい)各地(かくち)製材(せいざい)(おもむ)いています。当時(とうじ)清浄光寺(しょうじょうこうじ)戦火(せんか)焼失(しょうしつ)していましたが、付近(ふきん)伝馬(てんま)(逓送用(ていそうよう)(うま))が()かれていたこと、商売(しょうばい)(おこな)われていた様子(ようす)などがうかがえます。現在(げんざい)藤沢市文書館(ふじさわしもんじょかん)寄託(きたく)されています。

(もり)文書(もんじょ)

平成(へいせい)8(ねん)(1996)3月1日(がつついたち)指定(してい)(すみ)(ひと)(かお)(えが)かれた土器(どき)です。2(てん)とも、区画整理事業(くかくせいりじぎょう)(ともな)実施(じっし)された南鍛冶山遺跡(みなみかじやまいせき)(藤沢市石川(ふじさわしいしかわ))の発掘調査(はっくつちょうさ)で、同一(どういつ)奈良時代(ならじだい)竪穴住居址(たてあなじゅうきょし)から出土(しゅつど)しました。1つは、器高(きこう)50㎝(ほど)()三方(さんぽう)弁髪(べんぱつ)(ひげ)をもつ人面(じんめん)描写(びょうしゃ)されています。底部(ていぶ)欠落(けつらく)していますが、残部(ざんぶ)に「相模国大住郡三宅郷(さがみのくにおおすみぐんみやけごう))」の文字(もじ)判読(はんどく)され、この(あと)人名(じんめい)(つづ)いていたと推定(すいてい)されています。もう1つは、器高(きこう)20㎝(ほど)()二方(ふたかた)人面(じんめん)描写(びょうしゃ)されています。人面墨書土器(じんめんぼくしょどき)は、全国的(ぜんこくてき)にはかなりの(かず)出土(しゅつど)していますが、神奈川県内(かながわけんない)では本件(ほんけん)(ふく)め7(てん)確認(かくにん)されるのみで、貴重(きちょう)存在(そんざい)となっています。出土地(しゅつどち)石川(いしかわ)所有者(しょゆうしゃ)藤沢市教育委員会(ふじさわしきょういくいいんかい)

(みなみ)鍛冶山(かじやま)遺跡(いせき)出土(しゅつど)人面墨書土器(じんめんぼくしょどき)

平成(へいせい)26(ねん)(2014)10月1日(ついたち)指定(してい)昭和(しょうわ)51(ねん)(1976)に新林小学校(しんばやししょうがっこう)建設(けんせつ)にともなう片瀬丘陵(かたせきゅうりゅう)北端部(ほくたんぶ)削平(さくへい)にともない、14()横穴墓(よこあなぼ)発掘調査(はっくつちょうさ)がおこなわれました。その(さい)未開口(みかいこう)であった「右西斜面第(みぎにししゃめんだい)2号墓(ごうはか)」より発見(はっけん)されました。刀身(とうしん)腐食(ふしょく)のため5つに分裂(ぶんれつ)していますが,その()金銅製装飾具(こんどうせいそうしょくぐ)良好(りょうこう)遺存(いそん)している装飾大刀(そうしょくたち)です。(さや)出土(しゅつど)しておらず,また分裂(ぶんれつ)した刀身(とうしん)同士(どうし)接合点(せつごうてん)がないため大刀(たち)正確(せいかく)全長(ぜんちょう)不明(ふめい)です。現在(げんざい)遺存(いそん)状況(じょうきょう)から90㎝前後(ぜんご)であったと(かんが)えられます。()装飾(そうしょく)金銅製(こんどうせい)であり,()()みによる蕨手(わらびで)文様(もんよう)(ほどこ)されています。柄頭(つかがしら)単独(たんどく)鳳凰(ほうおう)意匠(いしょう)(ほどこ)されていますが,(くち)(たま)を咥えていない(てん),冠毛(かんもう)(きざ)()による3本線(さんぼんせん)表現(ひょうげん)している(てん)などから,かなり退化(たいか)した意匠(いしょう)となっています。大刀(たち)年代(ねんだい)は6世紀末(せいきまつ)(かんが)えられますが,土器(どき)などその()副葬品(ふくそうひん)年代(ねんだい)は7世紀代(せいきだい)であることから,伝世(でんせい)された可能性(かのうせい)があります。この「右西斜面第2号墓(みぎにししゃめんだいにごうはか)」の被葬者(ひそうしゃ)中央(ちゅうおう)から下賜(かし)をうけられる地域(ちいき)盟主(めいしゅ)であったことが推測(すいそく)されます。所有管理者(しょゆうかんりしゃ)藤沢市(ふじさわし)

金銅(こんどう)(そう)(たん)鳳環(ほうかん)(とう)大刀(たち)

平成(へいせい)26(ねん)(2014)10月1日(がつついたち)指定(してい)昭和(しょうわ)44(ねん)(1969)5(がつ)鵠沼字藤原(くげぬまあざふじわら)3858((げん)鵠沼海岸(くげぬまかいがん)6丁目(ちょうめ)5(ばん)付近(ふきん))で砂取工事(すなとりこうじ)がおこなわれた(さい)地表(ちひょう)(した)3~4mの(ふか)さから出土(しゅつど)しました。工事(こうじ)()()っていた業者代表者(ぎょうしゃだいひょうしゃ)息女(そくじょ)担任(たんにん)寺田兼方(てらだやすかた)()(湘南学園教諭(しょうなんがくえんきょうろん)当時(とうじ)藤沢市文化財保護委員(ふじさわしぶんかざいほごいいん))であったことから寺田(てらだ)()寄贈(きぞう)され、(のち)寺田(てらだ)()から藤沢市(ふじさわし)寄贈(きぞう)されました。口径(こうけい)12.5cm、底径(ていけい)8.0cm、器高(きこう)3.3cmを(はか)完形品(かんけいひん)相模型(さがみがた)土師器(はじき)(つき)です。年代(ねんだい)は8世紀後半(せいきこうはん)(かんが)えられます。「土甘(どがみ)」の名称(めいしょう)天平(てんぴょう)7(ねん)(735)の『相模國天平七年封戸租交易帳(さがみのくにてんぴょうしちねんふごそこうえきちょう)』の(なか)に「土甘郷(どかみごう)」と()えるのが初見(しょけん)です。「土甘郷(どがみごう)」は片瀬川(かたせがわ)引地川(ひきじがわ)(はさ)まれた鵠沼地区(くげぬまちく)中心(ちゅうしん)とした一帯(いったい)であると推測(すいそく)されています。ただし「土甘郷(どがみごう)」の名称(めいしょう)承平年間(じょうへいねんかん)(931~938)に編纂(へんさん)された『和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)』に記載(きさい)されるのが最後(さいご)であり、平安後期(へいあんこうき)になると当該地(とうがいち)は「鵠沼郷(くげぬまごう)」という名称(めいしょう)(あらわ)れ、「土甘(どかみ)名称(めいしょう)中世(ちゅうせい)では「砥上ヶ原(とがみがはら)(砥上原)」という地名(ちめい)のみに(のこ)ることになります。所有管理者(しょゆうかんりしゃ)藤沢市(ふじさわし)

()(がみ)(ろい)(こく)(しょ)土師器(はじき)

平成(へいせい)12(ねん)(2000)7月7日(がつなのか)指定(してい)江戸後期(えどこうき)渡内村(わたうちむら)名主(なぬし)福原高峯(ふくはらたかみね)(左平太)が(ちち)高行(たかゆき)遺志(いし)()いで編纂(へんさん)した地誌(ちし)で、本編(ほんぺん)25(さつ)天保(てんぽう)10(ねん)(1839)、附録(ふろく)1(さつ)安政年間(あんせいねんかん)(1854-60)の成立(せいりつ)です。江戸時代(えどじだい)幕府(ばくふ)諸藩(しょはん)により、領内(りょうない)状況(じょうきょう)把握(はあく)するため(おお)くの地誌(ちし)編纂(へんさん)されましたが、「相中留恩記略(そうちゅうりゅうおんきりやく)」は名所案内的(めいしょあんないてき)体裁(ていさい)をもった私撰(しせん)地誌(ちし)です。相模国内(さがみこくない)徳川家康(とくがわいえやす)足跡(あしあと)逸話(いつわ)紹介(しょうかい)中心(ちゅうしん)記述(きじゅつ)され、江戸(えど)絵師(えし)長谷川雪堤(はせがわせってい)写生(しゃせい)した各地(かくち)挿絵(さしえ)収録(しゅうろく)されています。「相中留恩記略(そうちゅうりゅうおんきりやく)(ぜん)26(さつ)関連史料(かんれんしりょう)として、その絵図(えず<)35(まい<)(でん)広重(ひろしげ)(ひつ)小量図(しょうりょうず)1(はば)福原高峯(ふくはらたかみね)福原高行(ふくはらたかゆき)川戸高繁(かわどたかしげ)画像(がぞう)(かく)1(はば)、「留恩永宝(りゅうおんえいほう)」1(かん)左平太昌平坂学問所入門許可状(さへいたしょうへいざかがくもんじょ)1(つう)、の67(てん)指定(してい)されています。現在(げんざい)藤沢市文書館(ふじさわしもんじょかん)寄託(きたく)されています。

相中(そうちゅう)()(おん)()(りゃく)関連(かんれん)史料(しりょう) 67(てん)

平成(へいせい)25(ねん)(2013)12(がつ)11(にち)指定(してい)()(しま)全体(ぜんたい)縮尺(しゅくしゃく)300(ぶん)の1で(えが)いた、たて2.46メートル、よこ3.05メートルの巨大(きょだい)なもので、江島神社(えのしまじんじゃ)別当(べっとう)江戸時代以前(えどじだいいぜん)神仏習合(しんぶつしゅうごう)時代(じだい)神社(じんじゃ)管理(かんり)するために()かれた寺院(じいん))の(なが)れをくむ旅館(りょかん)岩本楼(いわもとろう)保管(ほかん)されています。絵図(えず)からは、江戸時代(えどじだい)江島神社(えのしまじんじゃ)が、岩屋旅所(いわやたびじょ)(げん)奥津宮(おくつみや))、上之宮(うえのみや)(げん)中津宮(なかつみや))、下之宮(しものみや)(げん)辺津宮(へつみや))と()ばれていたことが(わか)りますが、さらに地名(ちめい)人名(じんめい)建造物名(けんぞうぶつめい)(とう)詳細(しょうさい)()()みがあり、百数十年前(ひゃくすうじゅうねんまえ)()(しま)景観(けいかん)町割(まちわ)り、各種(かくしゅ)建造物(けんぞうぶつ)配置(はいち)などを()ることができる貴重(きちょう)歴史資料(れきししりょう)です。所有管理者(しょゆうかんりしゃ)岩本楼(いわもとろう)

()(しま)(おお)絵図(えず)



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