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江の島の歴史
江の島歴史年表
江の島散策マップ
江の島の文化財
江の島を訪れた人々
資料種類しりょうしゅるい(大分類だいぶんるい):
資料種類しりょうしゅるい(中分類ちゅうぶんるい):
資料種類しりょうしゅるい(小分類しょうぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(大分類だいぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(中分類ちゅうぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(小分類しょうぶんるい):
作者さくしゃ(50音分類ごじゅうおんぶんるい):
作者さくしゃ:
フリーワードふりーわーど:
丸屋(まるや)鉄次郎(てつじろう)版(ばん) 明治(めいじ)7年(ねん)(1874年(ねん)) 明治(めいじ)5年(ねん)、新橋(しんばし)-横浜駅(よこはまえき)間(かん)に鉄道(てつどう)が開通(かいつう)したのちの東海道(とうかいどう)双六(すごろく)です。振(ふ)り出(だ)しを京都府(きょうとふ)・御所(ごしょ)博覧(はくらん)会(かい)とし、上(あ)がりを東京(とうきょう)として、神奈川(かながわ)(県(けん))以降(いこう)には汽車(きしゃ)や駅舎(えきしゃ)が登場(とうじょう)し、東京(とうきょう)には近代(きんだい)的(てき)な駅舎(えきしゃ)が描(えが)かれています。 各(かく)マスの間(ま)は電信柱(でんしんばしら)で仕切(しき)られていますが、関西(かんさい)方面(ほうめん)の駅(えき)の絵(え)は江戸時代(えどじだい)のものとあまり変(か)わりません。地名(ちめい)(駅名(えきめい))は、吉田(よしだ)が豊橋(とよはし)となり、府中(ふちゅう)が静岡(しずおか)に変(か)わっています。また、静岡(しずおか)に馬車(ばしゃ)が、藤沢(ふじさわ)など数(すう)ヶ所(かしょ)に人力車(じんりきしゃ)が描(えが)かれています。
新撰(しんせん)東海道(とうかいどう)五十三駅(ごじゅうさんえき)電信(でんしん)明細(めいさい)双録(すごろく)
横山良八(よこやまりょうはち)版(ばん) 明治(めいじ)初期(しょき) 振(ふ)り出(だ)しが西京(さいきょう)(京都(きょうと))、上(あ)がりは東京(とうきょう)日本橋(にほんばし)です。題材(だいざい)は江戸時代(えどじだい)そのまま、十返舎(じっぺんしゃ)一九(いっく)『東海道中膝栗毛(とうかいどうちゅうひざくりげ)』に描(えが)かれた滑稽(こっけい)な二(に)人組(にんぐみ)の道中(どうちゅう)ですが、こうもり傘(がさ)やガス灯(とう)、日本橋(にほんばし)の馬車(ばしゃ)など随所(ずいしょ)に文明開化(ぶんめいかいか)の影響(えいきょう)が伺(うかが)えます。 制作(せいさく)年代(ねんだい)は不明(ふめい)ですが、汽車(きしゃ)が見(み)られるのが品川(しながわ)だけなので、新橋(しんばし)-横浜駅(よこはまえき)間(かん)に正式(せいしき)に鉄道(てつどう)が開通(かいつう)する明治(めいじ)5年(ねん) (1972年(ねん))直前(ちょくぜん)のものと考(かんが)えられます。 図(ず)中(ちゅう)、府中(ふちゅう)は静岡(しずおか)に地名(ちめい)が変(か)わっていますが、明治(めいじ)になり徳川宗家(とくがわそうけ)ゆかりの地(ち)であるがゆえに新政府(しんせいふ)に恭順(きょうじゅん)の意(い)を示(しめ)すため、市内(しない)の賤機山(しずはたやま)にちなみ静岡(しずおか)に改称(かいしょう)したものです。 国政(くにまさ)(四(よん)代(だい))は、幕末(ばくまつ)~明治(めいじ)に活躍(かつやく)した絵師(えし)で、明治(めいじ)22年(ねん)(1889年(ねん))に三代(さんだい)国貞(くにさだ)を継(つ)いでいます。
どおけ東海道五十三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ)双六(すごろく)
江戸(えど)・木屋宗次郎(きやそうじろう)版(ばん) 弘化(こうか)~安政(あんせい)4年(ねん)(1844-1857年(ねん)) 発句(ほっく)とは連歌(れんが)の発端(ほったん)となる五(ご)七(なな)五(ご)の句(く)のことです。振(ふ)り出(だ)しの日本橋(にほんばし)から大津(おおつ)まで、各(かく)宿場(しゅくば)の風景(ふうけい)に2~3の句(く)が添(そ)えられ、振(ふ)り出(だ)しの日本橋(にほんばし)では6つ、京(きょう)には9つの句(く)があげられています。 上(あ)がりの京(きょう)では、数(かず)の余(あま)りがあると上(あ)がれないルールで、「一(ひと)ツ余(あま)れば 大津(おおつ)へ戻(もど)ル 二(ふた)ツ 〃 草津(くさつ)へ戻(もど)ル 三(み)ツ 〃 石部(いしべ)へ戻(もど)ル 四(よっ)ツ 〃 水口(みなくち)へ戻(もど)ル 五(いつ)ツ 〃 宮(みや)へ戻(もど)ル」と記載(きさい)があります。 藤沢(ふじさわ)の絵(え)は四(よ)ツ谷(や)の立(だ)て場(じょう)の風景(ふうけい)、平塚(ひらつか)は花水川(はなみずがわ)をはさんだ高麗山(こまやま)の風景(ふうけい)となっています。藤沢(ふじさわ)の1句(く)目(め)を詠(よ)んでいる尾張(おわり)・服部(はっとり)李曠(りこう)(1861年(ねん)没(ぼつ))、2句(く)目(め)の江戸(えど)・村井(むらい)鳳洲(おうしゅう)(1814-1874年(ねん))や平塚(ひらつか)3句(く)目(め)の京(きょう)・中島(なかじま)黙池(もくち)(1881年(ねん)没(ぼつ))などは、いずれも著名(ちょめい)な俳人(はいじん)です。
東海道五十三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ)発句(ほっく)双六(すごろく)
園原屋正助(そのはらやしょうすけ)版(ばん) 文久(ぶんきゅう)2年(ねん)(1862年(ねん)) 日本橋(にほんばし)を振(ふ)り出(だ)し、京都(きょうと)を上(あ)がりとする道中双六(どうちゅうすごろく)。保土ヶ谷(ほどがや)・戸塚(とつか)間(かん)からの金沢道(かなざわみち)や、四(よ)ツ谷(や)からの大山道(おおやまみち)、富士川(ふじかわ)の先(さき)の身延(みのぶ)道(みち)、掛川(かけがわ)からの秋葉(あきは)道(みち)など、多(おお)くの脇道(わきみち)が書(か)き込(こ)まれています。 金沢道(かなざわみち)は、のうけんどう(能見堂(のうけんどう))・金沢(かなざわ)(八景(はっけい))・明神(みょうじん)(瀬戸神社(せとじんじゃ))・光明寺(こうみょうじ)・鶴ヶ岡(つるがおか)・大仏(だいぶつ)・由井ヶ浜(ゆいがはま)・七里ヶ浜(しちりがはま)・江乃島(えのしま)・藤沢(ふじさわ)と続(つづ)き、四(よ)ツ谷(や)のマスからの大山道(おおやまみち)は、まへふとう(前不動(まえふどう))・大山(おおやま)石尊(せきそん)大権現(だいごんげん)から道了宮(どうりょうぐう) (道了尊(どうりょうそん)、大雄山最乗寺(だいゆうざんさいじょうじ))を経(へ)て小田原(おだわら)に至(いた)る道(みち)が記(しる)されています。
当年(とうねん)新板(しんばん)東海道(とうかいどう)名所(めいしょ)案内(あんない)双陸(すごろく)
慶応(けいおう)元年(がんねん)(1865年(ねん)) 末広(すえひろ)(扇子(せんす))をマスに見立(みた)てた五十三次(ごじゅうさんつぎ)の道中双六(どうちゅうすごろく)です。右下(みぎした)の振(ふ)り出(だ)し・日本橋(にほんばし)の「東雲(しののめ)の景(けい)」から始(はじ)まって、すべて行列(ぎょうれつ)が描(えが)きこまれていますが、中央(ちゅうおう)の上(あ)がりの京(きょう)では、公家(くげ)装束(しょうぞく)の人物(じんぶつ)が三方(さんぽう)に乗(の)せたお墨付(すみつ)き(文(ぶん))をかしこまる武士(ぶし)に与(あた)えている画(え)で、徳川将軍(とくがわしょうぐん)家茂(いえもち)の上洛(じょうらく)、参内(さんだい)(宮中(きゅうちゅう)への参上(さんじょう))の絵(え)であることをほのめかしています。 藤沢宿(ふじさわしゅく)には、名所(めいしょ)であった「南湖(なんご)のまつ原(はら)」が描(えが)かれています。南湖(なんこ)は現在(げんざい)、茅ヶ崎(ちがさき)市域(しいき)になりますが、当時(とうじ)は藤沢宿(ふじさわしゅく)の延長(えんちょう)としてとらえられ、浮世絵(うきよえ)などには藤沢宿(ふじさわしゅく)の風景(ふうけい)の定番(ていばん)のひとつでした。
東海道(とうかいどう)末広(すえひろ)五十三次(ごじゅうさんつぎ)名所(めいしょ)双六(すごろく)
作者(さくしゃ)、制作(せいさく)年代(ねんだい)不詳(ふしょう) 表題(ひょうだい)は表紙(ひょうし)に墨書(ぼくしょ)されている名称(めいしょう)で、行幸(ぎょうこう)(天皇(てんのう)や上皇(じょうこう)の外出(がいしゅつ)のこと)を指(さ)し、外出(がいしゅつ)に際(さい)し、たどるであろう道筋(みちすじ)を仮定(かてい)したものと思(おも)われます。東海道(とうかいどう)を題材(だいざい)にしていますが、単色(たんしょく)刷(ず)りで古(ふる)い形態(けいたい)のものと思(おも)われ、京都(きょうと)から先(さき)の大坂(おおさか)までの京街道(きょうかいどう)の宿々(しゅくじゅく)や宿(しゅく)の間(あいだ)の観光(かんこう)スポットも含(ふく)んだ、100を超(こ)えるマス(地名(ちめい))が記載(きさい)されています。 「ふりはじめ」(振(ふ)り出(だ)し)は大坂(おおさか)で、草津宿(くさつしゅく)から東海道(とうかいどう)と中山道(なかせんどう)に分(わ)かれ、途中(とちゅう)、伊勢(いせ)や江(え)の島(しま)・鎌倉(かまくら)などの観光(かんこう)スポットを回遊(かいゆう)しながら江戸(えど)に至(いた)るものです。 サイコロは通常(つうじょう)の1~6の目(め)ではなく、五(ご)・十(じゅう)・三(さん)・つ・き・■の六(ろく)面(めん)を用(もち)いていていたようで、 五(ご) やく(役(やく))あるは、しるし有(あり) 印(しるし)なきは、かず(数(かず))の通行(つうこう) 十(じゅう) 右(みぎ)同断(どうだん) 三(さん) 右(みぎ)同断(どうだん) つ やく有(あり)は、しるしあり 印(しるし)なきは、一(ひと)ツ行(いく) き やく有(あり)は、印(しるし)あり 印(しるし)なきは、二(ふた)ツ行(いく) ■ 此(この)(この)目(め)にても、一度(いちど)ツヽ やすみ(休(やす)み) と図(ず)中(ちゅう)に解説(かいせつ)があります。 藤沢宿(ふじさわしゅく)からは砂州(さす)をかたどった道(みち)が「江(え)のしま」に伸(の)び、さらに、大(おお)ほとけ(大仏(だいぶつ))、ゆきの下(した)(雪ノ下(ゆきのした))、ゆいがはま(由比ヶ浜(ゆいがはま))、かまくら(鎌倉(かまくら))、つるがおか(鶴岡(つるがおか))、くわうめうじ(光明寺(こうみょうじ))、かなさは(金沢(かなざわ))、よくみ山(やま)(能見台(のうけんだい))を経(へ)て神奈川宿(かながわしゅく)に至(いた)るルートが記(しる)されています。
みゆ記(き)双六(すごろく)
弥次喜多(やじきた)の滑稽旅(こっけいたび)は江戸時代(えどじだい)から人気(にんき)で、双六(すごろく)の題材(だいざい)としても多(おお)くの作品(さくひん)がつくられていました。明治(めいじ)から現代(げんだい)へと娯楽(ごらく)の中心(ちゅうしん)が映画(えいが)に代(か)わった時期(じき)でもその人気(にんき)は衰(おとろ)えず、いくつかの「弥次喜多(やじきた)」映画(えいが)がつくられました。この双六(すごろく)は昭和(しょうわ) 11 年(ねん)(1936年(ねん))に制作(せいさく)された映画(えいが)「歌(うた)ふ弥次喜多(やじきた)」(監督(かんとく):岡田敬(おかだけい))に合(あ)わせて発行(はっこう)されたもので、登場(とうじょう)する2人(ふたり)の人物(じんぶつ)は古川緑波(ふるかわろっぱ)と徳山璉(とくやまたまき) の似顔絵(にがおえ)が使(つか)われています。
歌(うた)ふ弥次喜多(やじきた)
日本画家(にほんがか)の川端龍子(かわばたりゅうし)の初期(しょき)の作品(さくひん)。雑誌(ざっし)「婦人世界(ふじんせかい)」正月号(しょうがつごう)の付録(ふろく)として出(だ)した石版画(せきはんが)(lithograph)の双六(すごろく)。題名(だいめい)どおり日本各地(にほんかくち)を家族(かぞく)づれで旅行(りょこう)するというアイデアで55の名所(めいしょ)が描(えが)かれています。東京(とうきょう)の近(ちか)くでは成田山(なりたさん)から江ノ島(えのしま)、熱海(あたみ)、箱根(はこね)など今(いま)でも行楽地(こうらくち)として賑(にぎ)わっているところから、遠(とお)く台湾(たいわん)、朝鮮(ちょうせん)、樺太(からふと)(現(げん)ロシア領(りょう))まで入(はい)っています。
家族旅行(かぞくりょこう)日本(にほん)名所(めいしょ)双六(すごろく)