ふりがな
江の島の歴史
江の島歴史年表
江の島散策マップ
江の島の文化財
江の島を訪れた人々
資料種類しりょうしゅるい(大分類だいぶんるい):
資料種類しりょうしゅるい(中分類ちゅうぶんるい):
資料種類しりょうしゅるい(小分類しょうぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(大分類だいぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(中分類ちゅうぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(小分類しょうぶんるい):
作者さくしゃ(50音分類ごじゅうおんぶんるい):
作者さくしゃ:
フリーワードふりーわーど:
江戸庶民(えどしょみん)(町民(ちょうみん))の一生(いっしょう)を教訓(きょうくん)とともに全(ぜん)41コマでたどる双六(すごろく)。初(はじ)めのコマ「踏出(ふみだ)し」に「道(みち)二(ふた)つ善(ぜん)と悪(あく)とがある中(なか)に、踏(ふみ)たがへるな初(はじ)め一足(ひとあし)」とあり、以後(いご)、「宮参(おみやまいり)」「初(はつ)の節句(せっく)」「手習(てならい)の宿(やど)」と進(すす)み、「元服(げんぷく)」後(ご)は、「やぼてんの盛(さかり)」「道(どう)らく寺(じ)」「酒(さけ)の門(もん)」、さらには「ぶらつき野(や)」「勘当(かんどう)の宿(やど)」「義理不知(ぎりしらず)」などを経(へ)て、最後(さいご)は長者(ちょうじゃ)となって孫(まご)と遊(あそ)ぶ図(ず)で上(あ)がりとなっています。 絵師(えし)の歌川国郷(うたがわくにさと)は、歌川国貞(うたがわくにさだ)の門人(もんじん)で嘉永(かえい)の末(すえ)(8531年(ねん))ごろから名所(めいしょ)・風俗画(ふうぞくが)や草双紙(くさぞうし)の挿絵(さしえ)などを描(えが)いています。
教訓(きょうくん)人間(にんげん)一生(いっしょう)道中双六(どうちゅうすごろく)
日本橋(にほんばし)を振(ふ)り出(だ)しに江の島(えのしま)までの道中(どうちゅう)風俗(ふうぞく)を、37コマの双六(すごろく)にして歌(うた)を詠(よ)み込(こ)んだもの。「本芝(ほんしば)(品川区(しながわく))」「御林丁(おはやしちょう)(品川区(しながわく))」「川崎(かわさき) 川中島(かわなかじま)」「青木(あおき)(神奈川宿(かながわしゅく))」「実入丁(みいりちょう)」に「宿(しゅく) 」の印(しるし)が付(つ)いています。この作品(さくひん)の寄稿者(きこうしゃ)に画家(がか)の南瞑(なんめい)などがみられ、『江(え)の島(しま)詣(もう)で浜(はま)のさざ波(なみ)』(作者(さくしゃ)・平亭銀鶏(へいていぎんけい) 天保(てんぽう) 10 年(ねん):1839年(ねん)作(さく))にも書画(しょが)を寄(よ)せている人物(じんぶつ)が重(かさ)なり、江戸後期(えどこうき)の作(さく)と思(おも)われます。
江(え)のしま須(す)ご六(ろく)
本図(ほんず)は大阪(おおさか)で発行(はっこう)された双六(すごろく)です。振(ふ)り出(だ)しのコマには「西京(さいきょう)」と書(か)いてあり、京(きょう)から日本橋(にほんばし)を目指(めざ)して進(すす)みます。 こまの図(ず)には洋装(ようそう)の人々(ひとびと)や汽車(きしゃ)など近代(きんだい)的(てき)な題材(だいざい)も多(おお)く取(と)り上(あ)げられていますが、各(かく)宿場(しゅくば)の名所(めいしょ)・名物(めいぶつ)など江戸時代(えどじだい)からの主題(しゅだい)も描(えが)かれています。日坂(にっさか)のコマのように両方(りょうほう)の要素(ようそ)を兼(か)ね備(そな)えた描写(びょうしゃ)のこまもあります。日坂(にっさか)のこまには江戸時代(えどじだい)の東海道五十三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ)でもよく描(えが)かれた街道(かいどう)の名物(めいぶつ)「夜泣(よな)き石(いし)」が描(えが)かれています。夜泣(よな)き石(いし)を見物(けんぶつ)している男性(だんせい)二(ふた)人(り)は洋装(ようそう)で、江戸時代(えどじだい)の画題(がだい)を踏襲(とうしゅう)しながらも近代(きんだい)的(てき)に描(えが)かれています。 上(あ)がりのこまにはそろいの着物(きもの)を着(き)た七福神(しちふくじん)が小判(こばん)の降(ふ)る中(なか)、踊(おど)っている様子(ようす)を描(えが)いています。まるでゴールを祝(いわ)ってくれているようです。
東海道五拾三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ)之(の)図(ず)
東海道(とうかいどう)の道順(みちじゅん)を題材(だいざい)にした道中双六(どうちゅうすごろく)です。各(かく)コマには歌川広重(うたがわひろしげ)が天保(てんぽう)3-4年 (1832-3頃(ころ)に描(えが)いた浮世絵(うきよえ)の揃(そろい)物(もの)「東海道五十三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ)(保永(ほえい)堂(どう)版(ばん))」の図(ず)が引用(いんよう)されています。各(かく)コマは人物(じんぶつ)の省略(しょうりゃく)などされた簡略化(かんりゃくか)した図(ず)となっており、引用元(いんようもと)の図(ず)と違(ちが)う部分(ぶぶん)もあります。しかし、元(もと)の浮世絵(うきよえ)の特徴(とくちょう)をとらえてコマの図(ず)に落(お)とし込(こ)んでいます。
五(ご)十三駅(じゅうさんつぎ)梅(うめ)のはなくらべ
大正(たいしょう) 12 年(ねん)(1923)に東京(とうきょう)を中心(ちゅうしん)に関東(かんとう)一帯(いったい)を襲(おそ)った関東大震災(かんとうだいしんさい)は、日本(にっぽん)の歴史(れきし)史上(しじょう)の中(なか)でも特(とく)に被害(ひがい)の大(おお)きかった震災(しんさい)の1つとして今日(こんにち)まで語(かた)られています。この双六(すごろく)は震災(しんさい)から人々(ひとびと)が立(た)ち上(あ)がり、復興(ふっこう)するまでを辿(たど)ります。
大東京(だいとうきょう)復興(ふっこう)双六(すごろく)
初代(しょだい)広重(ひろしげ)の「六十余州名所図会(ろくじゅうよしゅうめいしょずえ)」の図(ず)を引用(いんよう)した双六(すごろく)です。元(もと)の図(ず)が大判(おおばん)錦絵(にしきえ)であるため、細(こま)かい部分(ぶぶん)は省略(しょうりゃく)されていますが、一(いち)画面(がめん)の中(なか)での構図(こうず)は元(もと)の図(ず)に忠実(ちゅうじつ)なものとなっています。
大日本(だいにっぽん)六(ろく)十(じゅう)余(よ)州(しゅう) 名所(めいしょ)一覧(いちらん)振分(ふりわけ)双六(すごろく)
歌川広重(うたがわひろしげ)が安政(あんせい)2年(ねん)(1855)年(ねん)に手掛(てが)けた「浮世(うきよ)道中(どうちゅう)膝栗毛(ひざくりげ)滑稽(こっけい)双六(すごろく)」を、明治(めいじ) 31 年(ねん)に三代(さんだい)歌川国貞(うたがわくにさだ)(さんだい うたがわくにさだ)が改(あらた)めて描(えが)いた図(ず)です。広重(ひろしげ)が手掛(てが)けた元(もと)の双六(すごろく)が人気(にんき)であったためか、復刻(ふっこく)のかたちで制作(せいさく)されたのでしょう。おもしろおかしい人々(ひとびと)の様子(ようす)がそっくりそのまま描(えが)かれています。江戸時代(えどじだい)とは異(こと)なった明治時代(めいじじだい)らしい強(つよ)い色(いろ)使(づか)いが目(め)を引(ひ)きます。
東海(とうかい)旧道(きゅうどう)膝栗毛(ひざくりげ)滑稽(こっけい)双六(すごろく)
十返舎(じっぺんしゃ)一九(いっく)(1765-1831)は江戸時代(えどじだい)後期(こうき)の戯作者(げさくしゃ)で、『東海道中膝栗毛(とうかいどうちゅうひざくりげ)』をはじめとする数々(かずかず)の人気(にんき)小説(しょうせつ)を手掛(てが)けました。本作(ほんさく)は、江戸時代(えどじだい)の印刷物(いんさつぶつ)には珍(めずら)しい両面(りょうめん)摺(す)りとなっていて、展示(てんじ)している面(めん)は、街道(かいどう)が隙間(すきま)なく記(しる)され、宿場(しゅくば)間(かん)の距離(きょり)が示(しめ)されています。裏面(うらめん)は、江戸城(えどじょう)を中心(ちゅうしん)に、江戸(えど)の町(まち)なみが俯瞰(ふかん)するように描(えが)かれています。
御江(おえ)都(ど)神社(じんじゃ)佛閣(ぶっかく)名所(めいしょ)并(ならびに)諸(しょ)所(しょ)道中(どうちゅう)旅(たび)雀(すずめ)