Fujisawa Net Museum

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製作時期(せいさくじき)安政元年(あんせいがんねん)(1854)。
板元(はんもと):丸久(まるきゅう)(丸屋久四郎(まるやきゅうしろう))

このシリーズは広重(ひろしげ)豊国(とよくに)との双筆(そうひつ)(合作(がっさく)(えが)()け)になる東海道(とうかいどう)(つづき)ものです。
各絵(かくえ)上部(じょうぶ)宿駅(しゅくえき)風景(ふうけい)広重(ひろしげ)(えが)き、その(した)各宿(かくやど)関係(かんけい)のある人物(じんぶつ)豊国(とよくに)(えが)いていますが、二人(ふたり)代表的(だいひょうてき)浮世絵師(うきよえし)がそれぞれ、得意(とくい)とする分野(ぶんや)分担(ぶんたん)している人気(にんき)(たか)いシリーズでした。

(えが)かれている人物(じんぶつ)小栗判官(おぐりはんがん)伝説(でんせつ)主人公(しゅじんこう)一人(ひとり)照天姫(あまのてるひめ)で、地獄(じごく)からよみがえって土車(つちぐるま)熊野(くまの)まで(おく)られた(おっと)小栗(おぐり)を、(くるま)(つな)()いて(はこ)んだという(はなし)がこの()題材(だいざい)です。
この(はなし)当時(とうじ)有名(ゆうめい)なものでしたので、(とく)解説(かいせつ)をしないでも、街道(かいどう)(くるま)()女性(じょせい)というだけで照天姫(あまのてるひめ)だと()かったものでしょう。
上半部(じょうはんぶ)風景(ふうけい)宿場(しゅくば)からは(すこ)(はな)れた南湖(なんこ)松林(まつばやし)で、熊野(くまの)までの(なが)(みち)のりを暗示(あんじ)しているようです。

双筆五十三次 藤沢

(そう)(ひつ)五十三次(ごじゅうさんつぎ) 藤沢(ふじさわ)

製作(せいさく)時期(じき):明治(めいじ)5(ねん)(1872)(ころ)
板元(はんもと):沢村屋(さわむらや)

このシリーズは上部(じょうぶ)文人墨客(ぶんじんぼっかく)文章(ぶんしょう)()下部(かぶ)には(かく)宿駅(しゅくえき)ゆかりの故事(こじ)伝承(でんしょう)風景(ふうけい)(えが)かれています。藤沢(ふじさわ)()は、上部(じょうぶ)其角堂(きかくどう)(俳人(はいじん)穂積(ほづみ)永機(えいき)[1823~1904])の俳句(はいく)を、下部(かぶ)には茶屋(ちゃや)でお(ちゃ)()()女性(じょせい)姿(すがた)(えが)かれています。

表題(ひょうだい)の「(やま)(がえり)」の(やま)とは大山(おおやま)(雨降山(あふりやま))のことで、女性(じょせい)のうしろの縁台(えんだい)には、大山(おおやま)(まいり)をあらわす御神酒(おみき)(わく)(大山(おおやま)から(みず)(さけ)()(かえ)容器(ようき))が()かれています。また、右端(みぎはし)(えが)かれている(はしら)当時(とうじ)設置(せっち)されたばかりの「電信柱(でんしんばしら)」で、(かく)()(えが)かれて明治(めいじ)街道(かいどう)象徴(しょうちょう)しています。

書画五拾三駅 相模藤沢 山帰定憩

書画(しょが)五拾(ごじゅう)(さん)(えき) 相模(さがみ)藤沢(ふじさわ) (やま)(がえり)(じょう)(けい)

制作(せいさく)時期(じき):弘化(こうか)4(ねん)嘉永(かえい)5(ねん)(1844~1853)(ころ)
板元(はんもと):山田屋庄次郎(やまだやしょうじろう)(山庄(やましょう))

駕籠(かご)から()りたばかりの3(にん)美人(びじん)()(しま)弁才天(べんざいてん)開帳(かいちょう)(もうで)ようとしているところでしょうか、美人(びじん)見立(みた)ての()(しま)(もうで)です。(みぎ)麻葉(あさば)模様(もよう)浴衣(ゆかた)女性(じょせい)(こし)のところで(ほそ)(おび)()めなおしています。中央(ちゅうおう)(ひだり)女性(じょせい)は「柏木(かしわぎ)」、「早蕨(さわらび)」、「藤裏葉(ふじのうらば)」、「蜻蛉(とんぼ)」などの源氏香(げんじこう)模様(もよう)()らした(そろ)いの浴衣(ゆかた)着物(きもの)(うえ)(かさ)()日傘(ひがさ)()っています。この(よう)普通(ふつう)着物(きもの)(うえ)浴衣(ゆかた)()るのは(たび)をする(とき)合羽(かっぱ)代用(だいよう)によく(もち)いたといわれます。
()(しま)(かん)する()錦絵(にしきえ)(えが)かれた女性(じょせい)はほとんどこの(よそお)いをしています。海辺(うみべ)(たび)となる()(しま)(もうで)には潮風(しおかぜ)(ふせ)意味(いみ)必需品(ひつじゅひん)であったものなのでしょう。中央(ちゅうおう)女性(じょせい)勝山髷(かつやままげ)左右(さゆう)女性(じょせい)島田髷(しまだまげ)にべっ(こう)(くし)笄簪(こうがい)(ぎん)平打(ひらうち)(かんざし)(かざ)っています。全体(ぜんたい)(いき)ないでたちは、いずれも芸事(げいごと)関係(かんけい)する女性(じょせい)たちと(かんが)えられます。なおこの版画(はんが)出版(しゅっぱん)されたのは、嘉永(かえい)4(ねん)辛亥(かのとい)(1851(ねん))の(いわや)弁財天(べんざいてん)開帳(かいちょう)()わせたとも(かんが)えられます。この開帳(かいちょう)明記(めいき)した作品(さくひん)を、広重(ひろしげ)大判(おおばん)3(まい)(つづき)で3(くみ)(えが)いており、これもその(ひと)つです。

歌川広重 江の嶋弁才天開帳詣

()(しま)弁才天(べんざいてん)開帳(かいちょう)(もうで)

制作(せいさく)時期(じき):嘉永(かえい)6(ねん)安政(あんせい)3(ねん)(1834~1856)。
板元(はんもと):越平(こしひら)

越村屋平助(こしむらやへいすけ)から出版(しゅっぱん)された「六十余州名所図会(ろくじゅうよしゅうめいしょずえ)」は、玄魚(げんぎょ)の「大日本(だいにっぽん)六十余州(ろくじゅうよしゅう)名勝図会(めいしょうずえ)」の目録(もくろく)大判(おおばん)錦絵(にしきえ)(たて)1(まい)の70(まい)(いち)()みからなる大作(たいさく)で、嘉永(かえい)6(ねん)安政(あんせい)3(ねん)(1853-1856(ねん))にかけて刊行(かんこう)されています。

この六十余州(ろくじゅうよしゅう)代表(だいひょう)されるように弘化(こうか)元年(がんねん)から安政(あんせい)5(ねん)(1844-1858(ねん))まで、広重(ひろしげ)48(さい)から62(さい)(ぼっ)するまでの作品(さくひん)(おお)くは(たて)(ばん)で、(とく)晩年(ばんねん)にあたる安政(あんせい)()のシリーズ「五十三次(ごじゅうさんつぎ)名所図会(めいしょずえ)」、「冨士三十六景(ふじさんじゅうろっけい)(など)で、(よこ)(ばん)とはまた一味(ひとあじ)(ちが)効果(こうか)情趣(じょうしゅ)表現(ひょうげん)しようとしたあとがうかがわれます。(かれ)は「名所江戸百景(めいしょえどひゃっけい)」の(ぞく)(かん)(ちゅう)(やまい)(たお)れ、安政(あんせい)5(ねん)9(がつ) 6()未明(みめい)62(さい)生涯(しょうがい)()じています。

辞世(じせい)は「車路(くるまじ)(ふで)(のこ)して(たび)(そら)西(にし)御国(おくに)(めい)ところを見舞(みまい)」とあり、死後(しご)もなお名所絵(めいしょえ)意欲(いよく)()やす風景(ふうけい)絵師(えし)広重(ひろしげ)らしい(うた)です。

歌川広重 六十余州名所図会 相模江之嶋岩屋ノロ

六十余州名所図会(ろくじゅうよしゅうめいしょずえ) 相模(さがみ)()()(しま)岩屋(いわや)()(くち)



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