Fujisawa Net Museum

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一色下(いっしきした)遺跡(いせき)は、桐原(きりばら)工業団地(こうぎょうだんち)一角(いっかく)にある桐原(きりばら)公園(こうえん)南西(なんせい)方向(ほうこう)引地川(ひきじがわ)支流(しりゅう)である一色川(いっしきがわ)西岸(せいがん)台地(だいち)縁辺(えんぺん)()位置(いち)しています。遺跡(いせき)所在(しょざい)する場所(ばしょ)字名(あざめい)石川(いしかわ)ですが、藤沢市(ふじさわし)(いき)13地区(ちく)区分(くぶん)によると遠藤(えんどう)地区(ちく)(ぞく)しています。
 1968(ねん)昭和(しょうわ)43(ねん))、整地(せいち)工事(こうじ)(ちゅう)縄文土器(じょうもんどき)発見(はっけん)され、遺跡(いせき)存在(そんざい)確認(かくにん)されました。この縄文土器(じょうもんどき)は、2(てん)(なら)んで、地面(じめん)()埋設(まいせつ)された状態(じょうたい)発見(はっけん)されました。この埋設(まいせつ)土器(どき)周辺(しゅうへん)状況(じょうきょう)から住居(じゅうきょ)にともなうものではなく、住居(じゅうきょ)(がい)遺構(いこう)(かんが)えられるものです。しかし、正式(せいしき)発掘(はっくつ)調査(ちょうさ)(おこな)われなかったため、この遺構(いこう)性格(せいかく)遺跡(いせき)全体(ぜんたい)様子(ようす)はわかっていません。

二つの埋設土器

一色下(いっしきした)遺跡(いせき)

石川(いしかわ)遺跡(いせき)引地川(ひきじがわ)右岸(うがん)小田急江ノ島線(おだきゅうえのしません)六会日大前駅(むつあいにちだいまええき)南西(なんせい)(やく)2kmの、引地川(ひきじがわ)西岸(せいがん)標高(ひょうこう)35m前後(ぜんご)台地(だいち)(じょう)(ひろ)がる遺跡(いせき)です。藤沢市(ふじさわし)都市計画(としけいかく)事業(じぎょう)北部(ほくぶ)(だい)()()地区(ちく)土地区画整理事業(とちくかくせいりじぎょう)にともなって、1989(ねん)平成元年(へいせいがんねん))から1991(ねん)平成(へいせい)(ねん))まで発掘調査(はっくつちょうさ)(おこな)われました。発掘調査(はっくつちょうさ)では古墳時代(こふんじだい)から平安時代(へいあんじだい)竪穴(たてあな)建物(たてもの)土師器(はじき)須恵器(すえき)などが確認(かくにん)されています。(ほん)遺跡(いせき)西(にし)には(どう)時期(じき)集落(しゅうらく)確認(かくにん)されている(みなみ)鍛冶山(かじやま)遺跡(いせき)(しも)()遺跡(いせき)所在(しょざい)しており、(ほん)遺跡(いせき)周辺(しゅうへん)(だい)集落(しゅうらく)形成(けいせい)されていたことが判明(はんめい)しています。

石川遺跡 掘立柱建物検出状況

石川(いしかわ)遺跡(いせき)

(しも)()遺跡(いせき)引地川(ひきじがわ)右岸(うがん)小田急江ノ島線(おだきゅうえのしません)六会日大前駅(むつあいにちだいまええき)南西(なんせい)(やく)2kmの、引地川(ひきじがわ)西岸(せいがん)標高(ひょうこう)35m前後(ぜんご)台地(だいち)(じょう)(ひろ)がる遺跡(いせき)です。藤沢市(ふじさわし)都市計画(としけいかく)事業(じぎょう)北部(ほくぶ)(だい)()()地区(ちく)土地区画整理事業(とちくかくせいりじぎょう)にともなって、1983(ねん)昭和(しょうわ)58(ねん))から1987(ねん)昭和(しょうわ)62(ねん))まで発掘調査(はっくつちょうさ)(おこな)われました。発掘調査(はっくつちょうさ)では古墳時代(こふんじだい)後期(こうき)円墳(えんふん)や、古墳時代(こふんじだい)から平安時代(へいあんじだい)竪穴(たてあな)建物(たてもの)土師器(はじき)須恵器(すえき)灰釉陶器(かいゆうとうき)などが確認(かくにん)されています。(ほん)遺跡(いせき)(ひがし)には(どう)時期(じき)集落(しゅうらく)確認(かくにん)されている(みなみ)鍛冶山(かじやま)遺跡(いせき)石川(いしかわ)遺跡(いせき)所在(しょざい)しており、(ほん)遺跡(いせき)周辺(しゅうへん)(だい)集落(しゅうらく)形成(けいせい)されていたことが判明(はんめい)しています。

下ノ根遺跡 円墳検出状況

(しも)()遺跡(いせき)

南鍛冶山(みなみかじやま)遺跡(いせき)は、小田急江ノ島線(おだきゅうえのしません)六会日大前駅(むつあいにちだいまええき)南西(なんせい)(やく)2kmの、引地川(ひきじがわ)西岸(せいがん)標高(ひょうこう)35m前後(ぜんご)台地(だいち)(じょう)(ひろ)がる遺跡(いせき)です。藤沢市(ふじさわし)都市計画(としけいかく)事業(じぎょう)北部(ほくぶ)(だい)()()地区(ちく)土地区画整理事業(とちくかくせいりじぎょう)にともなって、1982(ねん)昭和(しょうわ)57(ねん))から1992(ねん)平成(へいせい)(ねん))までの長期間(ちょうきかん)にわたって発掘調査(はっくつちょうさ)(おこな)われました。さらにその()共同住宅(きょうどうじゅうたく)建設(けんせつ)宅地(たくち)造成(ぞうせい)にともなう発掘調査(はっくつちょうさ)実施(じっし)されました。
 その結果(けっか)旧石器時代(きゅうせっきじだい)遺物(いぶつ)遺構(いこう)をはじめ、縄文時代(じょうもんじだい)遺物(いぶつ)遺構(いこう)古墳時代(こふんじだい)から(だい)(りょう)平安時代(へいあんじだい)集落(しゅうらく)、さらに中世(ちゅうせい)近世(きんせい)遺構(いこう)などが確認(かくにん)されています。この遺跡(いせき)は、時代(じだい)(てき)にも複合(ふくごう)するとともに、調査(ちょうさ)範囲(はんい)(ひろ)く、出土(しゅつど)した遺物(いぶつ)確認(かくにん)された遺構(いこう)数量(すうりょう)膨大(ぼうだい)で、発掘調査(はっくつちょうさ)終了(しゅうりょう)した現在(げんざい)でも、整理(せいり)作業(さぎょう)(つづ)けられています。

南鍛冶山遺跡の近景(1988年調査対象区域 左上=引地川)

南鍛冶山(みなみかじやま)遺跡(いせき)



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