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江の島の歴史
江の島歴史年表
江の島散策マップ
江の島の文化財
江の島を訪れた人々
資料種類しりょうしゅるい(大分類だいぶんるい):
資料種類しりょうしゅるい(中分類ちゅうぶんるい):
資料種類しりょうしゅるい(小分類しょうぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(大分類だいぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(中分類ちゅうぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(小分類しょうぶんるい):
作者さくしゃ(50音分類おんぶんるい):
作者さくしゃ:
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稲荷(いなり)台地(だいち)遺跡(いせき)群(ぐん)石原谷(いしわらやと)遺跡(いせき)は、小田急電鉄(おだきゅうでんてつ)江ノ島線(えのしません)善行駅(ぜんぎょうえき)の南西(なんせい)約(やく)1km、旧(きゅう)藤沢飛行場(ふじさわひこうじょう)のあった標高(ひょうこう)50m前後(ぜんご)を測(はか)る稲荷(いなり)台地(だいち)と呼(よ)ばれる台地(だいち)の北東部(ほくとうぶ)に広(ひろ)がる遺跡(いせき)です。 これまでに数次(すうじ)の発掘調査(はっくつちょうさ)がおこなわれ、弥生時代(やよいじだい)後期(こうき)から平安時代(へいあんじだい)にかけての竪穴(たてあな)建物(たてもの)や土器(どき)がみつかっています。
稲荷(いなり)台地(だいち)遺跡(いせき)群(ぐん)石原谷(いしわらやと)遺跡(いせき)
江(え)の島(しま)植物園(しょくぶつえん)内(ない)遺跡(いせき)は市内(しない)最南端(さいなんたん)、標高(ひょうこう)約(やく)60mの江(え)の島(しま)頂上部(ちょうじょうぶ)に所在(しょざい)しています。灯台(とうだい)建設(けんせつ)にともない、2002年(ねん)に発掘調査(はっくつちょうさ)おこなわれ、その結果(けっか)、縄文時代(じょうもんじだい)の竪穴(たてあな)建物(たてもの)や土器(どき)、石器(せっき)が確認(かくにん)されています。
江ノ島(えのしま)植物(しょくぶつ)園内(えんない)遺跡(いせき)
片瀬(かたせ)新屋敷(あらやしき)遺跡(いせき)は境川(さかいがわ)左岸(さがん)、小田急江ノ島線(おだきゅうえのしません)の鵠沼駅(くげぬまえき)から北東(ほくとう)約(やく)650mに所在(しょざい)します。1996年(ねん)(平成(へいせい)8年(ねん))に発掘調査(はっくつちょうさ)がおこなわれ、奈良時代(ならじだい)から平安時代(へいあんじだい)の竪穴(たてあな)建物(たてもの)・掘立柱建物(ほったてばしらたてもの)や土師器(はじき)・須恵器(すえき)・灰釉陶器(かいゆうとうき)がみつかりました。遺跡(いせき)周辺(しゅうへん)は古代(こだい)の片(かた)(固(かた))瀬郷(せごう)内(ない)に立地(りっち)しており、建物(たてもの)の検出(けんしゅつ)件数(けんすう)や特殊(とくしゅ)な遺物(いぶつ)が出土(しゅつど)していることから川名(かわな)清水(しみず)遺跡(いせき)と並(なら)び、片瀬(かたせ)郷(ごう)の中心(ちゅうしん)的(てき)な場(ば)であった可能性(かのうせい)が指摘(してき)されています。
片瀬(かたせ)新屋敷(あらやしき)遺跡(いせき)
一色下(いっしきした)遺跡(いせき)は、桐原(きりばら)工業団地(こうぎょうだんち)の一角(いっかく)にある桐原(きりばら)公園(こうえん)の南西(なんせい)方向(ほうこう)、引地川(ひきじがわ)の支流(しりゅう)である一色川(いっしきがわ)の西岸(せいがん)の台地(だいち)縁辺(えんぺん)部(ぶ)に位置(いち)しています。遺跡(いせき)の所在(しょざい)する場所(ばしょ)の字名(あざめい)は石川(いしかわ)ですが、藤沢市(ふじさわし)域(いき)13地区(ちく)の区分(くぶん)によると遠藤(えんどう)地区(ちく)に属(ぞく)しています。 1968年(ねん)(昭和(しょうわ)43年(ねん))、整地(せいち)工事(こうじ)中(ちゅう)に縄文土器(じょうもんどき)が発見(はっけん)され、遺跡(いせき)の存在(そんざい)が確認(かくにん)されました。この縄文土器(じょうもんどき)は、2点(てん)並(なら)んで、地面(じめん)を掘(ほ)り埋設(まいせつ)された状態(じょうたい)で発見(はっけん)されました。この埋設(まいせつ)土器(どき)の周辺(しゅうへん)の状況(じょうきょう)から住居(じゅうきょ)にともなうものではなく、住居(じゅうきょ)外(がい)の遺構(いこう)と考(かんが)えられるものです。しかし、正式(せいしき)な発掘(はっくつ)調査(ちょうさ)が行(おこな)われなかったため、この遺構(いこう)の性格(せいかく)や遺跡(いせき)全体(ぜんたい)の様子(ようす)はわかっていません。
一色下(いっしきした)遺跡(いせき)
石川(いしかわ)遺跡(いせき)は引地川(ひきじがわ)右岸(うがん)、小田急江ノ島線(おだきゅうえのしません)六会日大前駅(むつあいにちだいまええき)の南西(なんせい)約(やく)2kmの、引地川(ひきじがわ)西岸(せいがん)の標高(ひょうこう)35m前後(ぜんご)の台地(だいち)上(じょう)に広(ひろ)がる遺跡(いせき)です。藤沢市(ふじさわし)都市計画(としけいかく)事業(じぎょう)北部(ほくぶ)第(だい)二(に)(二(に)地区(ちく))土地区画整理事業(とちくかくせいりじぎょう)にともなって、1989年(ねん)(平成元年(へいせいがんねん))から1991年(ねん)(平成(へいせい)3年(ねん))まで発掘調査(はっくつちょうさ)が行(おこな)われました。発掘調査(はっくつちょうさ)では古墳時代(こふんじだい)から平安時代(へいあんじだい)の竪穴(たてあな)建物(たてもの)や土師器(はじき)、須恵器(すえき)などが確認(かくにん)されています。本(ほん)遺跡(いせき)の西(にし)には同(どう)時期(じき)の集落(しゅうらく)が確認(かくにん)されている南(みなみ)鍛冶山(かじやま)遺跡(いせき)や下(しも)ノ根(ね)遺跡(いせき)が所在(しょざい)しており、本(ほん)遺跡(いせき)周辺(しゅうへん)に大(だい)集落(しゅうらく)が形成(けいせい)されていたことが判明(はんめい)しています。
石川(いしかわ)遺跡(いせき)
下(しも)ノ根(ね)遺跡(いせき)は引地川(ひきじがわ)右岸(うがん)、小田急江ノ島線(おだきゅうえのしません)六会日大前駅(むつあいにちだいまええき)の南西(なんせい)約(やく)2kmの、引地川(ひきじがわ)西岸(せいがん)の標高(ひょうこう)35m前後(ぜんご)の台地(だいち)上(じょう)に広(ひろ)がる遺跡(いせき)です。藤沢市(ふじさわし)都市計画(としけいかく)事業(じぎょう)北部(ほくぶ)第(だい)二(に)(二(に)地区(ちく))土地区画整理事業(とちくかくせいりじぎょう)にともなって、1983年(ねん)(昭和(しょうわ)58年(ねん))から1987年(ねん)(昭和(しょうわ)62年(ねん))まで発掘調査(はっくつちょうさ)が行(おこな)われました。発掘調査(はっくつちょうさ)では古墳時代(こふんじだい)後期(こうき)の円墳(えんふん)や、古墳時代(こふんじだい)から平安時代(へいあんじだい)の竪穴(たてあな)建物(たてもの)、土師器(はじき)・須恵器(すえき)・灰釉陶器(かいゆうとうき)などが確認(かくにん)されています。本(ほん)遺跡(いせき)の東(ひがし)には同(どう)時期(じき)の集落(しゅうらく)が確認(かくにん)されている南(みなみ)鍛冶山(かじやま)遺跡(いせき)や石川(いしかわ)遺跡(いせき)が所在(しょざい)しており、本(ほん)遺跡(いせき)周辺(しゅうへん)に大(だい)集落(しゅうらく)が形成(けいせい)されていたことが判明(はんめい)しています。
下(しも)ノ根(ね)遺跡(いせき)
No.322遺跡(いせき)は、小田急電鉄(おだきゅうでんてつ)江ノ島線(えのしません)長後駅(ちょうごえき)の西方(せいほう)約(やく)4.5kmに位置(いち)し、相模川(さがみがわ)の支流(しりゅう)である目久尻川(めくじりがわ)東岸(とうがん)の標高(ひょうこう)約(やく)36mの丘陵(きゅうりょう)部(ぶ)の尾根(おね)上(じょう)にあります。県道(けんどう)拡幅(かくふく)工事(こうじ)にともなって、用田(ようだ)市民(しみん)の家(いえ)の北(ほく)東方(とうほう)の道路脇(どうろわき)をA区(く)、公園(こうえん)南(なん)東方(とうほう)の道路脇(どうろわき)をB区(く)として、1996年(ねん)(平成(へいせい)8年(ねん))ならびに1997年(ねん)(平成(へいせい)9年(ねん))に発掘調査(はっくつちょうさ)が実施(じっし)されました。 その結果(けっか)、縄文時代(じょうもんじだい)の住居(じゅうきょ)をはじめ、当時(とうじ)の人(ひと)びとの生活(せいかつ)道具(どうぐ)などが確認(かくにん)されました。
No.322遺跡(いせき)
南鍛冶山(みなみかじやま)遺跡(いせき)は、小田急江ノ島線(おだきゅうえのしません)六会日大前駅(むつあいにちだいまええき)の南西(なんせい)約(やく)2kmの、引地川(ひきじがわ)西岸(せいがん)の標高(ひょうこう)35m前後(ぜんご)の台地(だいち)上(じょう)に広(ひろ)がる遺跡(いせき)です。藤沢市(ふじさわし)都市計画(としけいかく)事業(じぎょう)北部(ほくぶ)第(だい)二(に)(二(に)地区(ちく))土地区画整理事業(とちくかくせいりじぎょう)にともなって、1982年(ねん)(昭和(しょうわ)57年(ねん))から1992年(ねん)(平成(へいせい)4年(ねん))までの長期間(ちょうきかん)にわたって発掘調査(はっくつちょうさ)が行(おこな)われました。さらにその後(ご)、共同住宅(きょうどうじゅうたく)建設(けんせつ)や宅地(たくち)造成(ぞうせい)にともなう発掘調査(はっくつちょうさ)が実施(じっし)されました。 その結果(けっか)、旧石器時代(きゅうせっきじだい)の遺物(いぶつ)や遺構(いこう)をはじめ、縄文時代(じょうもんじだい)の遺物(いぶつ)や遺構(いこう)、古墳時代(こふんじだい)から奈(だい)良(りょう)・平安時代(へいあんじだい)の集落(しゅうらく)、さらに中世(ちゅうせい)や近世(きんせい)の遺構(いこう)などが確認(かくにん)されています。この遺跡(いせき)は、時代(じだい)的(てき)にも複合(ふくごう)するとともに、調査(ちょうさ)範囲(はんい)も広(ひろ)く、出土(しゅつど)した遺物(いぶつ)や確認(かくにん)された遺構(いこう)の数量(すうりょう)も膨大(ぼうだい)で、発掘調査(はっくつちょうさ)が終了(しゅうりょう)した現在(げんざい)でも、整理(せいり)作業(さぎょう)が続(つづ)けられています。
南鍛冶山(みなみかじやま)遺跡(いせき)