Fujisawa Net Museum

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(こころ)なき()にもあはれは()られけり鴫立沢(しぎたちざわ)(あき)夕暮(ゆうぐれ)」――西行(さいぎょう)
平安時代(へいあんじだい)歌人(かじん)西行(さいぎょう)(ゆかり)ある土地(とち)の、大磯(おおいそ)鴫立沢(しぎたちざわ)風景(ふうけい)(えが)かれます。鴫立沢(しぎたちざわ)には江戸時代(えどじだい)初期(しょき)俳諧道場(はいかいどうじょう鴫立庵(しぎたつあん)」が(ひら)かれ、数多(かずおお)くの俳人(はいじん)たちが(おとず)れました。画面(がめん)右下(みぎした)(えが)かれた「西行庵(さいぎょうあん)」は西行(さいぎょう)坐像(ざぞう)安置(あんち)されている円位堂(えんいどう)円位(えんい)西行(さいぎょう)法名(ほうみょう))と(おも)われます。

本作(ほんさく)東海道(とうかいどう)名所(めいしょ)風景(ふうけい)に、当代諸家(とうだいしょか)発句集(ほっくしゅう)(はい)した絵俳書(えばいしょ)です。嘉永(かえい)4(ねん)(1851)に版元(はんもと)永楽屋丈助(えいらくやじょうすけ)より刊行(かんこう)された『東海道名所発句集(とうかいどうめいしょほっくしゅう)』の改題本(かいだいぼん)で、(もと)版本(はんぽん)として()()されたものが、江戸(えど)から伊豆(いず)にかけての風景(ふうけい)画帖(がじょう)形式(けいしき)再版(さいはん)されたものらしく、各図(かくず)独立(どくりつ)した一枚(いちまい)()として鑑賞(かんしょう)できるようになっています。本作(ほんさく)(えが)いた時期(じき)広重(ひろしげ)天童藩(てんどうはん)からの依頼(いらい)により多数(たすう)肉筆画(にくひつが)(えが)いており、自然(しぜん)奥行(おくゆ)きを(かん)じさせる構図(こうず)や、(あお)みがかった(あわ)色調(しきちょう)など、肉筆(にくひつ)直接(ちょくせつ)(ふで)(えが)いた作品(さくひん))の風景画(ふうけいが)(つう)じる表現(ひょうげん)()られます。

東海道(とうかいどう)名所(めいしょ) 大磯(おおいそ)(しぎ)立沢(たちざわ)

本作(ほんさく)には、平塚宿(ひらつかしゅく)から大磯宿(おおいそしゅく)にかけての風景(ふうけい)(えが)かれます。画面(がめん)右下(みぎした)(しる)されている「唐土ヶ原(もろこしがはら)」(現在(げんざい)唐ヶ原(とうがはら)は、5世紀(せいき)朝鮮(ちょうせん)人々(ひとびと)集団移住(しゅうだんいじゅう)したと(つた)えられており、右上(みぎうえ)には()える高麗寺山(こうらいじさん)は、高句麗(こうくり)から渡来(とらい)した高麗若人(こまのじゃっこう)(まつ)った(てら)地名(ちめい)由来(ゆらい)となっています。そこから画面(がめん)(おく)()かい、大磯宿(おおいそしゅく)鴫立沢(しぎたちざわ)(つづ)きます。

本作(ほんさく)東海道(とうかいどう)名所(めいしょ)風景(ふうけい)に、当代諸家(とうだいしょか)発句集(ほっくしゅう)(はい)した絵俳書(えばいしょ)です。嘉永(かえい)4(ねん)(1851)に版元(はんもと)永楽屋丈助(えいらくやじょうすけ)より刊行(かんこう)された『東海道名所発句集(とうかいどうめいしょほっくしゅう)』の改題本(かいだいぼん)で、(もと)版本(はんぽん)として()()されたものが、江戸(えど)から伊豆(いず)にかけての風景(ふうけい)画帖(がじょう)形式(けいしき)再版(さいはん)されたものらしく、各図(かくず)独立(どくりつ)した一枚(いちまい)()として鑑賞(かんしょう)できるようになっています。本作(ほんさく)(えが)いた時期(じき)広重(ひろしげ)天童藩(てんどうはん)からの依頼(いらい)により多数(たすう)肉筆画(にくひつが)(えが)いており、自然(しぜん)奥行(おくゆ)きを(かん)じさせる構図(こうず)や、(あお)みがかった(あわ)色調(しきちょう)など、肉筆(にくひつ)直接(ちょくせつ)(ふで)(えが)いた作品(さくひん))の風景画(ふうけいが)(つう)じる表現(ひょうげん)()られます。

東海道(とうかいどう)名所(めいしょ) 大磯(おおいそ) 平塚(ひらつか)

箱根(はこね)山並(やまな)みを背景(はいけい)に、芦ノ湖(あしのこ)風景(ふうけい)(えが)かれています。画面(がめん)(みぎ)()かれている「賽ノ河原(さいのかわら)」は、江戸時代(えどじだい)には地蔵信仰(じぞうしんこう)()として有名(ゆうめい)で、多数(たすう)石仏(せきぶつ)石塔(せきとう)湖畔(こはん)(なら)んでいたとされます。左下(ひだりした)()かれている「権現道(ごんげんどう)」は、箱根権現(はこねごんげん)(しょう)される箱根神社(はこねじんじゃ)(つづ)(みち)です。

本作(ほんさく)東海道(とうかいどう)名所(めいしょ)風景(ふうけい)に、当代諸家(とうだいしょか)発句集(ほっくしゅう)(はい)した絵俳書(えばいしょ)です。嘉永(かえい)4(ねん)(1851)に版元(はんもと)永楽屋丈助(えいらくやじょうすけ)より刊行(かんこう)された『東海道名所発句集(とうかいどうめいしょほっくしゅう)』の改題本(かいだいぼん)で、(もと)版本(はんぽん)として()()されたものが、江戸(えど)から伊豆(いず)にかけての風景(ふうけい)画帖(がじょう)形式(けいしき)再版(さいはん)されたものらしく、各図(かくず)独立(どくりつ)した一枚(いちまい)()として鑑賞(かんしょう)できるようになっています。本作(ほんさく)(えが)いた時期(じき)広重(ひろしげ)天童藩(てんどうはん)からの依頼(いらい)により多数(たすう)肉筆画(にくひつが)(えが)いており、自然(しぜん)奥行(おくゆ)きを(かん)じさせる構図(こうず)や、(あお)みがかった(あわ)色調(しきちょう)など、肉筆(にくひつ)直接(ちょくせつ)(ふで)(えが)いた作品(さくひん))の風景画(ふうけいが)(つう)じる表現(ひょうげん)()られます。

東海道(とうかいどう)名所(めいしょ) 箱根(はこね)湖水(こすい) 権現(ごんげん)(しゃ)

箱根山麓(はこねさんろく)渓谷(けいこく)(えが)かれ、画面(がめん)(みぎ)より、明礬山(みょうばんやま)駒ケ嶽(こまがたけ)冠ケ嶽(かんむりがたけ)表記(ひょうき)されています。明礬山(みょうばんやま)現在(げんざい)神山付近(かみやまふきん)(やま)であったと(かんが)えられ、明礬山(みょうばんやま)から産出(さんしゅつ)された明礬(みょうばん)箱根土産(はこねみやげ)(ひと)つであったそうです。

本作(ほんさく)東海道(とうかいどう)名所(めいしょ)風景(ふうけい)に、当代諸家(とうだいしょか)発句集(ほっくしゅう)(はい)した絵俳書(えばいしょ)です。嘉永(かえい)4(ねん)(1851)に版元(はんもと)永楽屋丈助(えいらくやじょうすけ)より刊行(かんこう)された『東海道名所発句集(とうかいどうめいしょほっくしゅう)』の改題本(かいだいぼん)で、(もと)版本(はんぽん)として()()されたものが、江戸(えど)から伊豆(いず)にかけての風景(ふうけい)画帖(がじょう)形式(けいしき)再版(さいはん)されたものらしく、各図(かくず)独立(どくりつ)した一枚(いちまい)()として鑑賞(かんしょう)できるようになっています。本作(ほんさく)(えが)いた時期(じき)広重(ひろしげ)天童藩(てんどうはん)からの依頼(いらい)により多数(たすう)肉筆画(にくひつが)(えが)いており、自然(しぜん)奥行(おくゆ)きを(かん)じさせる構図(こうず)や、(あお)みがかった(あわ)色調(しきちょう)など、肉筆(にくひつ)直接(ちょくせつ)(ふで)(えが)いた作品(さくひん))の風景画(ふうけいが)(つう)じる表現(ひょうげん)()られます。

東海道(とうかいどう)名所(めいしょ) 箱根(はこね)高嶺(たかみね)

石橋山合戦(いしばしやまがっせん)は、平安時代末期(へいあんじだいまっき)治承(じしょう)4(ねん)(1180(ねん))に源頼朝(みなもとのよりとも)大庭景親(おおばかげちか)平氏方(へいしかた)との(あいだ)(おこな)われた(たたか)いです。伊豆(いず)挙兵(きょへい)して湯河原(ゆがわら)(あた)りまで進出(しんしゅつ)した頼朝(よりとも)を、大庭景親(おおばかげちか)がいずれも藤沢周辺地域(ふじさわしゅうへんちいき)領地(りょうち)としていた俣野景久(またのかげひさ)渋谷重国(しぶやしげくに)海老名 季員(えびな すえかず)ら3000余騎(よき)(ひき)いて迎撃(げいげき)()かった様子(ようす)(えが)かれています。『平家物語(へいけものがたり)』によると合戦(かっせん)先立(さきだ)って、北条時政(ほうじょうときまさ)大庭景親(おおばかげちか)対峙(たいじ)し、景親(かげちか)(みずか)らが後三年(ごさんねん)(えき)奮戦(ふんせん)した鎌倉景政(かまくらかげまさ)子孫(しそん)であると名乗(なの)り、これに時政(ときまさ)がかつて源義家(みなもとのよりいえ)(したが)った景正(かげまさ)子孫(しそん)ならば、なぜ頼朝公(よりともこう)(ゆみ)()く((いくさ)をしかける、反乱(はんらん)()こす)と言い返(いいかえ)し、これに(たい)して景親(かげちか)は「(むかし)(しゅ)でも(いま)(てき)である。平家(へいけ)御恩(ごおん)(やま)よりも(たか)く、(うみ)よりも(ふか)い」と(おう)じたといいます。

石橋(いしばし)(やま)合戦(かっせん)

橋李囿(はしりえん) 序文(じょぶん)

()(しま)風光(ふうこう)()んだ【詩文(しぶん)】【田舎版(いなかばん)】。
現在(げんざい)藤沢市北部(ふじさわしほくぶ)御所見地区周辺(ごしょみちくしゅうへん)人々(ひとびと)()んだ漢詩(かんし)和歌(わか)詩文集(しぶんしゅう)八景(はっけい)は、金亀山秋月(きんきざんのしゅうげつ)岩屋之晴嵐(いわやのせいらん)小兒淵夜雨(しょうにえんのやう)鵜嶋之落雁(うじまのらくがん)東浦之帰帆(ひがしうらのきはん)西浦之夕照(にしうらのゆうしょう)両山之暮雪(ふたつやまのぼせつ)江嶋寺晩鐘(こうとうじのばんしょう)詠者(えいしゃ)居所(いどころ)は、(げん)藤沢市(ふじさわし)遠藤(えんどう)打戻(うちもどり)宮原(みやはら)用田(ようだ)(くわ)え、(げん) 寒川町(さむかわまち)小谷(こやと)小動(こゆるぎ)(げん) 綾瀬市(あやせし)吉岡(よしおか)となっています。詠者(えいしゃ)(なか)で、用田(ようだ)烏東(うとう)明和(めいわ)4(ねん)(1766(ねん))3(がつ)大磯鴫立庵(おおいそしぎたつあん)再興(さいこう)記念集(きねんしゅう)として()まれた『湘海四時(しょうかいしじ)』に入句(にゅう)()しています 。
この(しょ)(はん)()りにムラが(おお)いのが()()きます。当時(とうじ)出版(しゅっぱん)江戸(えど)大坂(おおさか)京都(きょうと)中心(ちゅうしん)で、それ以外(いがい)地方(ちほう)()られたものは「田舎版(いなかばん)」と()ばれていますが、この(しょ)はおそらく地元(じもと)藤沢地域(ふじさわちいき)()られたもので、内容(ないよう)とあわせ、非常(ひじょう)貴重(きちょう)なものと()えましょう。

()()(しま)八景(はっけい)詩歌(しいか)



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