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江の島の歴史
江の島歴史年表
江の島散策マップ
江の島の文化財
江の島を訪れた人々
資料種類しりょうしゅるい(大分類だいぶんるい):
資料種類しりょうしゅるい(中分類ちゅうぶんるい):
資料種類しりょうしゅるい(小分類しょうぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(大分類だいぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(中分類ちゅうぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(小分類しょうぶんるい):
作者さくしゃ(50音分類おんぶんるい):
作者さくしゃ:
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製作時期(せいさくじき):万延元年(まんえん)(1860)。 板元(はんもと):當世屋(とうせいや)(品川屋久助(しながわやきゅうすけ)) このシリーズは大(だい)ヒットした十返舎一九(じっぺんしゃいっく)の『東海道中膝栗毛(とうかいどうちゅうひざくりげ)』を摸(も)して作(つく)られています。各宿(かくやど)には弥次(やじ)さん、北(きた)さんが登場(とうじょう)し、芳幾(よしいく)が二人(ふたり)のくりひろげる道中(どうちゅう)模様(もよう)をユーモラスに描(えが)き、魯文(ろぶん)が各宿(かくやど)のテーマとなる文章(ぶんしょう)、狂歌一句(きょうかいっく)と二人(ふたり)の会話(かいわ)をおもしろおかしく記(しる)しています。
東海道(とうかいどう)中(ちゅう)栗毛(くりげ)彌次馬(やじうま) 関駅(せきえき)
製作時期(せいさくじき):万延元年(まんえん)(1860)。 板元(はんもと):當世屋(とうせいや)(品川屋久助(しながわやきゅうすけ)) 焼(や)きめし屋(や)で食事(しょくじ)をする二人(ふたり)ですが、喜多(きた)さんが持(も)つコンガリと焼(や)けた美味(おい)しそうな焼(や)きめしが、次(つぎ)から次(つぎ)と犬(いぬ)にとられていきます。 このシリーズは大(だい)ヒットした十返舎一九(じっぺんしゃいっく)の『東海道中膝栗毛(とうかいどうちゅうひざくりげ)』を摸(も)して作(つく)られています。各宿(かくやど)には弥次(やじ)さん、北(きた)さんが登場(とうじょう)し、芳幾(よしいく)が二人(ふたり)のくりひろげる道中(どうちゅう)模様(もよう)をユーモラスに描(えが)き、魯文(ろぶん)が各宿(かくやど)のテーマとなる文章(ぶんしょう)、狂歌一句(きょうかいっく)と二人(ふたり)の会話(かいわ)をおもしろおかしく記(しる)しています。
東海道(とうかいどう)中(ちゅう)栗毛(くりげ)彌次馬(やじうま) 石薬師(いしやくし)
初代(しょだい)歌川広重(うたがわひろしげ)(1797~1858)最晩年(さいばんねん)の著作(ちょさく)。自序(じじょ)によると葛飾北斎(かつしかほくさい)の富嶽百景(ふがくひゃっけい)を意識(いしき)して、より写実的(しゃじつてき)な作品(さくひん)であることを強調(きょうちょう)しています。当初(とうしょ)は百景(ひゃっけい)を意図(いと)して作成(さくせい)されたようですが実際(じっさい)に出版(しゅっぱん)されたのはこの1巻(かん)(20景収録(けいしゅうろく))のみといわれています。類書(るいしょ)として明治(めいじ)22年(ねん)(1889)刊行(かんこう)の「富嶽真景(ふがくしんけい)」全(ぜん)2巻(かん)(大倉書店(おおくらしょてん)刊(かん))があり、その第(だい)1巻(かん)はこの「富士見百図(ふじみひゃくず)」を再刊(さいかん)したものです。また、第2巻(だい)にも「江(え)の島(しま)道(みち)」など、広重(ひろしげ)の画(え)に似(に)せた富士(ふじ)を描(えが)いた風景画(ふうけいが)が収録(しゅうろく)されています。
富士見(ふじみ)百(ひゃく)図(ず) 初(しょ)編(へん)
北斎(ほくさい)が描(えが)いた東海道五十三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ)シリーズは大判(おおばん)は無(な)く、大半(たいはん)は小判横(こばんよこ)です。景観描写(けいかんびょうしゃ)をテーマにした初代(しょだい)歌川広重(うたがわひろしげ)の作品(さくひん)に対(たい)し、旅姿(たびすがた)や各宿駅(かくしゅくえき)の風俗(ふうぞく)がテーマとなっていて、独特(どくとく)の味(あじ)わいを感(かん)じさせます。出版(しゅっぱん)当初(とうしょ)は狂歌(きょうか)グループからの依頼(いらい)で「春興五十三駄之内(しゅんこうごじゅうさんえきのうち)」と題(だい)した摺物(すりもの)で、右側(みぎがわ)に狂歌(きょうか)が刷(す)られていました。 各宿(かくしゅく)の内容(ないよう)を見(み)ると、「程ヶ谷(ほどがや)」では農耕馬(のうこうば)の足(あし)を洗(あら)う人(ひと)の姿(すがた)に春(はる)の訪(おとず)れが感(かん)じられます。「戸塚(とつか)」では宿(やど)の女性(じょせい)に別(わか)れを惜(お)しまれながら旅立(たびだ)つ二人(ふたり)連(づ)れ。「藤沢(ふじさわ)」では江(え)の島(しま)一ノ鳥居(いちのとりい)をくぐって江(え)の島(しま)へ向(む)かう旅(たび)の女性(じょせい)たちが描(えが)かれています。先頭(せんとう)の女性(じょせい)の煙管(きせる)(訳注(やくちゅう):パイプ)に付(つ)けられた赤(あか)い布(ぬの)は疱瘡除(ほうそうよ)け(訳注(やくちゅう):天然痘(てんねんとう))のまじないです。道標(どうひょう)には「ここよりゑのしま道(みち)」と書(か)かれていますが、この道標(どうひょう)に記(しる)された「享和四年(きょうわよねん)(1804年(ねん))」の文字(もじ)から、このシリーズの制作(せいさく)年代(ねんだい)が判(わか)ります。 「平塚(ひらつか)」は、木陰(こかげ)で休(やす)む農夫(のうふ)たちと草刈(くさか)りのカマや籠(かご)が描(えが)かれています。春先(はるさき)でまだ寒(さむ)そうな風情(ふぜい)です。「大磯(おおいそ)」は大(おお)きな石(いし)を持(も)ち上(あ)げようとしている人(ひと)がいます。石(いし)には「虎か石(とらかいし)」と書(か)かれていて、同宿(どうしゅく)の伝説(でんせつ)の虎御前(とらごぜん)(訳注(やくちゅう):曽我物語(そがものがたり)に出(で)てくる女性(じょせい)、曽我物語(そがものがたり)を全国(ぜんこく)にひろめたと言(い)われている)に基(もと)づいた画(え)であることが分(わ)かります。「小田原(おだわら)」は「ういろう」売(う)りと遠景(えんけい)に小田原城(おだわらじょう)。 「ういろう(外郎(ういろう))」とは小田原(おだわら)名物(めいぶつ)の薬(くすり)の名(な)で、現在(げんざい)でも販売(はんばい)されています。(同名(どうめい)のお菓子(かし)もあります)歌舞伎役者(かぶきやくしゃ)の二代目(にだいめ)の市川団十郎(いちかわだんじゅうろう)が咳(せき)と痰(たん)の病(やまい)で台詞(せりふ)をうまく言(い)えずに困(こま)っていたときに、外郎(ういろう)を服用(ふくよう)して治(なお)り、自作自演(じさくじえん)の『外郎売(ういろううり)』を舞台(ぶたい)で演(えん)じたことは、この絵(え)の描(えが)かれた当時(とうじ)から有名(ゆうめい)でした。画(が)の女性(じょせい)は団十郎(だんじゅうろう)の真似(まね)をしているようです。
東海道五十三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ) 保土ヶ谷(ほどがや)
東海道五十三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ) 戸塚(とつか)
東海道五十三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ) 藤沢(ふじさわ)
東海道五十三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ) 平塚(ひらつか)
東海道五十三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ) 大磯(おおいそ)