ふりがな
江の島の歴史
江の島歴史年表
江の島散策マップ
江の島の文化財
江の島を訪れた人々
資料種類しりょうしゅるい(大分類だいぶんるい):
資料種類しりょうしゅるい(中分類ちゅうぶんるい):
資料種類しりょうしゅるい(小分類しょうぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(大分類だいぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(中分類ちゅうぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(小分類しょうぶんるい):
作者さくしゃ(50音分類おんぶんるい):
作者さくしゃ:
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江(え)の島(しま)にはさまざまな由緒(ゆいしょ)・伝説(でんせつ)がありますが、北条氏(ほうじょうし)の家紋(かもん)「三(み)つ鱗(うろこ)の発祥(はっしょう)も、その一(ひと)つです。鎌倉幕府(かまくらばくふ)の初代(しょだい)執権(しっけん)であった北条時政(ほうじょうときまさ)(源頼朝(みなもとのよりとも)の妻(つま)の父(ちち))は、子孫繁栄(しそんはんえい)を願(ねが)って江(え)の島(しま)の岩屋(いわや)に参籠(さんろう)しましたが、その満願(まんがん)の夜(よる)、弁才天(べんざいてん)が現(あらわ)れ、願(ねが)いを聞(き)き入(い)れることを約束(やくそく)し、大蛇(だいじゃ)(龍蛇神(りゅうじゃしん))の姿(すがた)となって海(うみ)に消(き)えて行(い)き、あとには3枚(まい)の鱗(うろこ)が残(のこ)されていたというものです。時政(ときまさ)はその鱗(うろこ)を、北条家(ほうじょうけ)を繁栄(はんえい)に導(みちび)くしるしとして家紋(かもん)としたのだと言(い)われています。
題名(だいめい)不詳(ふしょう)(弁才天(べんざいてん)と北条時政(ほうじょうときまさ))
板元(はんもと):根本(ねもと)若(わか)兵衛(べえ) 由比ガ浜(ゆいがはま)の地引網(じびきあみ)の様子(ようす)を描(えが)いた作品(さくひん)です。遠景(えんけい)には江(え)の島(しま)と、さらに奥(おく)には富士山(ふじさん)が見(み)えます。その描法(びょうほう)には誇張(こちょう)があり、網(あみ)にかかった蛸(たこ)や鯛(たい)、鱏(えい)などが大(おお)きくユーモラスに描(えが)かれています。
相州(そうしゅう)江嶌(えのしま)風景(ふうけい)由井浜(ゆいがはま)地引網(じびきあみ)之(の)図(ず)
製作(せいさく)時期(じき):文化(ぶんか)8年(ねん)頃(ごろ)(1811)。 板元(はんもと):錦(きん)樹(じゅ)堂(どう)(伊勢屋利兵衛(いせやりへえ)) 『絵本(えほん)駅路(えきろの)鈴(すず)』シリーズの一(いち)枚(まい)。 北斎(ほくさい)には数種類(すうしゅるい)の東海道(とうかいどう)の揃(そろ)いものがありますが、文化(ぶんか)9年(ねん)(1812)まで東海道(とうかいどう)を旅(たび)した記録(きろく)はなく、名所図会(めいしょずえ)等(など)を基(もと)にして作画(さくが)したものと思(おも)われます。北斎(ほくさい)の東海道(とうかいどう)シリーズは風景(ふうけい)より人物(じんぶつ)を中心(ちゅうしん)に緻密(ちみつ)に描(えが)き「人物(じんぶつ)東海道(とうかいどう)」という感(かん)があります。 このシリーズは北斎(ほくさい)の東海道(とうかいどう)ものでは珍(めずら)しく中(ちゅう)判(ばん)と大(おお)きく、画面(がめん)上部(じょうぶ)中央(ちゅうおう)に大(おお)きく横書(よこがき)された駅名(えきめい)に振(ふ)り仮名(がな)がされ、東海道五十三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ)及(およ)び駅(えき)番(ばん)は縦(たて)に小(ちい)さく書(か)かれています。 画(え)は江(え)の島(しま)と富士(ふじ)を背景(はいけい)に浜辺(はまべ)を行(い)く牛(うし)と牛飼(うしかい)いの様子(ようす)ですが、実際(じっさい)に七里ヶ浜(しちりがはま)では馬(うま)に代(か)わって牛(うし)による人(ひと)の輸送(ゆそう)が行(おこな)われていたようです。
東海道五十三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ) 七(なな) 藤沢(ふじさわ)
制作(せいさく)時期(じき):享和(きょうわ)年間(ねんかん)(1801~04)頃(ころ)。板元(はんもと)印(しるし)なし この作品(さくひん)は摺物(すりもの)と呼(よ)ばれ、木版(もくはん)摺(す)りによる配(くば)り物(もの)で、普通(ふつう)は正月(しょうがつ)に新作(しんさく)の狂歌(きょうか)などを書(か)き添(そ)えて絵師(えし)に依頼(いらい)して制作(せいさく)し、配(くば)り物(ぶつ)として使用(しよう)したものをいいます。そしてそれが注文(ちゅうもん)品(ひん)のため、普通(ふつう)一般(いっぱん)に安(やす)く売(う)られる浮世絵(うきよえ)とは違(ちが)って、さまざまに工夫(くふう)をこらした金泥(きんでい)や銀泥(ぎんでい)などを使用(しよう)した豪華(ごうか)なものが多(おお)く、一般的(いっぱんてき)に多(おお)く用(もち)いられる形(かたち)は角判(かくばん)摺物(すりもの)といわれ、いわゆる色紙(しきし)判(ばん)を使用(しよう)します。 この摺物(すりもの)の形(かたち)は、おそらくこの倍(ばい)のものを二(ふた)つに折(お)って片方(かたほう)に絵(え)を描(えが)き、他方(たほう)に狂歌(きょうか)や案内(あんない)の文字(もじ)を入(い)れた形式(けいしき)で、これはその一方(いっぽう)の作品(さくひん)であると考(かんが)えられます。従(したが)って何(なに)の目的(もくてき)に使用(しよう)されたか分(わか)りませんが、画面(がめん)右手(みぎて)の従者(じゅうしゃ)と思(おも)われる着物(きもの)の背(せ)に“荻江(おぎえ)”という文字(もじ)が見(み)えるところから、音楽(おんがく)の神(かみ)である江(え)の島(しま)弁財天(べざいてん)に参詣(さんけい)をする、当時(とうじ)流行(りゅうこう)の「荻江節(おぎえぶし)」の師匠(ししょう)連(れん)を描(えが)いているので、それらと何等(なんら)かの関係(かんけい)があったと思(おも)われます。
題名(だいめい)不詳(ふしょう)(七里ガ浜(しちりがはま))
半切(はんせつ)横(よこ)1枚(まい) 縦(たて)13.6 横(よこ)17.3 制作(せいさく)時期(じき):寛政(かんせい)(1789~1801)末(すえ)頃(ごろ)。板元(はんもと)印(しるし)なし 本作(ほんさく)では水平線(すいへいせん)がやや低(ひく)く、空(そら)が広(ひろ)く描(えが)かれています。北斎(ほくさい)はこのような洋風(ようふう)表現(ひょうげん)を用(もち)いた風景画(ふうけいが)を複数(ふくすう)描(えが)いていており、人物(じんぶつ)が黒(くろ)いシルエットで表現(ひょうげん)されているところなど銅(どう)版画(はんが)からの影響(えいきょう)が色濃(いろこ)くうかがえます。 波(なみ)の頂(いただき)の部分(ぶぶん)などに繊細(せんさい)な空摺(からず)り(凹凸(おうとつ)で形(かたち)が表現(ひょうげん)される摺(す)りの技巧(ぎこう))が施(ほどこ)され、画面(がめん)の縁(ふち)取(ど)りに模様(もよう)が見(み)られるなどの工夫(くふう)がみられます。画面(がめん)右手(みぎて)には横文字(よこもじ)風(ふう)に入(い)れた書体(しょたい)で「ほくさいえかく(北斎(ほくさい)描(えが)く)」と書(か)かれています。 月(つき)の屋(や)成丈(なりたけ)の狂歌(きょうか)入(い)りで、「みさかなの蚫(あわび)ささえをとる海士(あま)の水(みず)いらすにて祝(いわ)ふとそ酒(さけ)」となっています。北斎(ほくさい)の洋風(ようふう)表現(ひょうげん)は彼(かれ)の若(わか)き修業(しゅうぎょう)時代(じだい)の春朗(しゅんろう)名(めい)の頃(ころ)から顕著(けんちょ)に見(み)られ、その傾向(けいこう)は生涯(しょうがい)にわたっています。その代表的(だいひょうてき)作品(さくひん)には「日本(にっぽん)境田(さかいだ)中見(なかみ)之(の)図(ず)」や「羽田(はねだ)弁天(べんてん)之(の)図(ず)」などがありますが、この江(え)の島(しま)と七里ガ浜(しちりがはま)を描(えが)いた図(ず)は洋画(ようが)を意識(いしき)しています。このことは画面(がめん)右手(みぎて)上(うえ)に横文字(よこもじ)風(ふう)に入(い)れた書体(しょたい)でも分(わか)りますし、また絵(え)のまわりを額(がく)のように縁(ふち)どっていることでもそれがいえます。また正確(せいかく)な遠近(えんきん)表現(ひょうげん)と大胆(だいたん)なもののとらえ方(かた)は、一種独特(いっしゅどくとく)の雰囲気(ふんいき)をかもし出(だ)しています。そして七里ガ浜(しちりがはま)づたいに江(え)の島(しま)へ三々五々(さんさんごご)向(むか)う人物(じんぶつ)が、すべて影(かげ)として描(えが)かれているのも何(なに)か暗示(あんじ)しているようで興味深(きょうみぶか)く、また波(なみ)の部分(ぶぶん)には空摺(からず)りも使用(しよう)されていて、きめの細(こま)かい作品(さくひん)となっています。
題名(だいめい)不詳(ふしょう)(江(え)の島(しま)風景(ふうけい))
制作(せいさく)時期(じき):天保(てんぽう)年間(ねんかん)(1830~44)。 板元(はんもと):永寿(えいじゅ)堂(どう) 冨嶽三十六景(ふがくさんじゅうろっけい)は北斎(ほくさい)最大(さいだい)の傑作(けっさく)のシリーズもので、最初(さいしょ)に刊行(かんこう)された36枚(まい)は「表(おもて)」といわれ、のち好評(こうひょう)のため続(ぞく)刊(かん)された10枚(まい)は「裏(うら)」と呼(よ)ばれ、全部(ぜんぶ)で46枚(まい)が発行(はっこう)されています。そのうちでも三(さん)大傑作(だいけっさく)といわれるものは、俗(ぞく)に赤富士(あかふじ)とよばれる「凱風快晴(がいふうかいせい)」、「山下白雨(さんかはくう)」、「神奈川沖浪裏(かながわおきなみうら)」です。 これら富士(ふじ)を描(えが)いた46種(しゅ)類(るい)の作品(さくひん)は、それぞれに共通(きょうつう)する技法(ぎほう)によって幾(いく)つかに分類(ぶんるい)することが出来(でき)ますが、大(おお)きく分(わ)けると伝統(でんとう)的(てき)な日本画(にほんが)の影響(えいきょう)の強(つよ)いもの、中国(ちゅうごく)の漢(かん)画(が)的(てき)な要素(ようそ)のあるもの、さらに遠近法(えんきんほう)を取(と)り入(い)れた洋画(ようが)的(てき)表現(ひょうげん)など三(みっ)つに分(わ)けられます。 この図(ず)はそうしたもののうち漢(かん)画(が)的(てき)な要素(ようそ)のまさったもので、その黄緑(きみどり)色(いろ)の淡(あわ)い色調(しきちょう)は「相州箱根湖水(そうしゅうはこねこすい)」のそれを連想(れんそう)させます。そして一見(いっけん)地続(じつづ)きのように見(み)え、他(た)の絵師(えし)の表現(ひょうげん)と較(くら)べて、平坦(へいたん)な江(え)の島(しま)は山水画(さんすいが)を思(おも)わせます。
冨(ふ)嶽(がく)三(さん)十(じゅう)六(ろっ)景(けい) 相州(そうしゅう)江(え)の嶌(しま)
制作(せいさく)時期(じき):天保(てんぽう)5年(ねん)(1834)頃(ころ)。 板元(はんもと)印(しるし)なし 本作(ほんさく)は今回(こんかい)のテーマ からはずれますが、片瀬(かたせ)から見(み)た江(え)の島(しま)を描(えが)いた風景(ふうけい)です。(本(ほん)シリーズは現在(げんざい)2点(てん)のみ確認(かくにん)されています)構図(こうず)としては、江(え)の島(しま)を高(たか)い視点(してん)から見(み)おろすように捉(とら)え、前景(ぜんけい)に七面山(しちめんざん)、中(ちゅう)景(けい)に龍口寺(りゅうこうじ)の門前(もんぜん)にある家々(いえいえ)を配置(はいち)し、正面(しょうめん)には潮(しお)の引(ひ)いた道(みち)を江(え)の島(しま)へ向(むか)う人々(ひとびと)が点(てん)のように描(えが)かれています。 片瀬(かたせ)は江(え)の島(しま)に直面(ちょくめん)する陸地(りくち)の部分(ぶぶん)ですが、このように画題(がだい)として取(と)り上(あ)げられるものはあまりなく、珍(めずら)しい図柄(ずがら)の作品(さくひん)と言(い)えるでしょう。画題(がだい)にある七面山(しちめんざん)は旅人(たびびと)が休息(きゅうそく)している左手(ひだりて)の山(やま)で、日蓮宗(にちれんしゅう)龍口寺(りゅうこうじ)の裏山(うらやま)にあたります。 この作品(さくひん)はシリーズものとして出版(しゅっぱん)する予定(よてい)であったらしいのですが、2回(かい)しか完成(かんせい)していません。もう一(ひと)つは「東海道之内(とうかいどうのうち)江之嶋(えのしま)路(じ)七里ヶ浜(しちりがはま)江(え)ノ嶋(しま)遠望(えんぼう)」です。画題(がだい)には片瀬(かたせ)とあり、片瀬(かたせ)は江(え)の島(しま)に直面(ちょくめん)する陸地(りくち)の部分(ぶぶん)ですから、江(え)の島(しま)を描(えが)けば当然(とうぜん)その一部(いちぶ)は浮世絵(うきよえ)に出(で)てきますが、このように画題(がだい)として取(と)り上(あ)げられるものは少(すく)ないようです。そして七面山(しちめんざん)から見(み)た図(ず)であると画題(がだい)にあるとおり、構図(こうず)では旅人(たびびと)が休息(きゅうそく)している左手(ひだりて)の山(やま)の部分(ぶぶん)がそれに該当(がいとう)します。 七面山(しちめんやま)は日蓮宗(にちれんしゅう)龍口寺(りゅうこうじ)の裏山(うらやま)で、龍口寺(りゅうこうじ)は今(いま)でも広(ひろ)い境内(けいだい)と敷地(しきち)がありますが、日蓮(にちれん)ゆかりの地(ち)でもあります。図柄(ずがら)としても他(た)の浮世絵(うきよえ)とは違(ちが)っていて、江(え)の島(しま)を高(たか)い視点(してん)から見(み)おろすように捉(とら)え、前景(ぜんけい)に七面山(しちめんざん)、中景(ちゅうけい)に龍口寺(りゅうこうじ)の門前(もんぜん)にある家々(いえいえ)を配置(はいち)していて、ちょうど正面(しょうめん)には潮(しお)の引(ひ)いた道(みち)を江(え)の島(しま)へ向(むか)う人々(ひとびと)が点(てん)のように描(えが)かれています。
東海道(とうかいどう)之(の)内江(うちえ)之(の)嶋路(しまみち)片瀬(かたせ)自(しち)七(めん)面(ざん)山見(よりはま)浜辺(べをみる)
制作(せいさく)時期(じき):天保(てんぽう)4年(ねん)(1833)頃(ころ)。 板元(はんもと):川長(かわちょう) 江(え)の島(しま)が画面(がめん)一杯(いっぱい)に描(えが)かれ、将来(しょうらい)展開(てんかい)されるべきさまざまな要素(ようそ)が含(ふく)まれています。色彩(しきさい)的(てき)には藍(あい)や緑(みどり)がかなり強(つよ)く出(で)ていて、後(のち)のおさえた色調(しきちょう)のそれとは異(こと)なっていますが、空間(くうかん)の処理(しょり)の仕方(しかた)に広(ひろ)がりを見(み)せています。また前景(ぜんけい)として、いく分(ぶん)、類型(るいけい)的(てき)な三角形(さんかっけい)の大(おお)きな波(なみ)も広重(ひろしげ)らしい特徴(とくちょう)を表(あらわ)しています。 岩場(いわば)で遊(あそ)ぶ人々(ひとびと)、右(みぎ)1枚(まい)の部分(ぶぶん)には、それが平坦(へいたん)であるため俎板(まないた)岩(いわ)(魚板(ぎょばん)岩(がん))といわれる所(ところ)にござを敷(し)き、酒(さけ)をくみ交(か)わしている場面(ばめん)があり、中(なか)1枚(まい)には女性(じょせい)に何(なに)かをねだる裸(はだか)の子(こ)どもがいます。さらに左(ひだり)1枚(まい)には旅人(たびびと)が銭(ぜに)を投(な)げる仕草(しぐさ)をしていて、その銭(ぜに)を海中(かいちゅう)に飛(と)び込(こ)んで拾(ひろ)おうとする子(こ)どもがいて、江(え)の島(しま)での旅人(たびびと)の風俗(ふうぞく)が端的(たんてき)に画面(がめん)に出(で)ている描写(びょうしゃ)となっています。
相州(そうしゅう)江(え)之(の)嶋(しま)岩屋(いわや)之(の)図(ず)