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北斎(ほくさい)(えが)いた東海道五十三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ)シリーズは大判(おおばん)()く、大半(たいはん)小判横(こばんよこ)です。景観描写(けいかんびょうしゃ)をテーマにした初代(しょだい)歌川広重(うたがわひろしげ)作品(さくひん)(たい)し、旅姿(たびすがた)各宿駅(かくしゅくえき)風俗(ふうぞく)がテーマとなっていて、独特(どくとく)(あじ)わいを(かん)じさせます。出版(しゅっぱん)当初(とうしょ)狂歌(きょうか)グループからの依頼(いらい)で「春興五十三駄之内(しゅんこうごじゅうさんえきのうち)」と(だい)した摺物(すりもの)で、右側(みぎがわ)狂歌(きょうか)()られていました。

各宿(かくしゅく)内容(ないよう)()ると、「程ヶ谷(ほどがや)」では農耕馬(のうこうば)(あし)(あら)(ひと)姿(すがた)(はる)(おとず)れが(かん)じられます。「戸塚(とつか)」では宿(やど)女性(じょせい)(わか)れを()しまれながら旅立(たびだ)二人(ふたり)()れ。「藤沢(ふじさわ)」では()(しま)一ノ鳥居(いちのとりい)をくぐって()(しま)()かう(たび)女性(じょせい)たちが(えが)かれています。先頭(せんとう)女性(じょせい)煙管(きせる)訳注(やくちゅう):パイプ)に()けられた(あか)(ぬの)疱瘡除(ほうそうよ)け(訳注(やくちゅう)天然痘(てんねんとう))のまじないです。道標(どうひょう)には「ここよりゑのしま(みち)」と()かれていますが、この道標(どうひょう)(しる)された「享和四年(きょうわよねん)(1804(ねん))」の文字(もじ)から、このシリーズの制作(せいさく)年代(ねんだい)(わか)ります。

平塚(ひらつか)」は、木陰(こかげ)(やす)農夫(のうふ)たちと草刈(くさか)りのカマや(かご)(えが)かれています。春先(はるさき)でまだ(さむ)そうな風情(ふぜい)です。「大磯(おおいそ)」は(おお)きな(いし)()()げようとしている(ひと)がいます。(いし)には「虎か石(とらかいし)」と()かれていて、同宿(どうしゅく)伝説(でんせつ)虎御前(とらごぜん)訳注(やくちゅう)曽我物語(そがものがたり)()てくる女性(じょせい)曽我物語(そがものがたり)全国(ぜんこく)にひろめたと()われている)に(もと)づいた()であることが()かります。「小田原(おだわら)」は「ういろう」()りと遠景(えんけい)小田原城(おだわらじょう)
「ういろう(外郎(ういろう))」とは小田原(おだわら)名物(めいぶつ)(くすり)()で、現在(げんざい)でも販売(はんばい)されています。(同名(どうめい)のお菓子(かし)もあります)歌舞伎役者(かぶきやくしゃ)二代目(にだいめ)市川団十郎(いちかわだんじゅうろう)(せき)(たん)(やまい)台詞(せりふ)をうまく()えずに(こま)っていたときに、外郎(ういろう)服用(ふくよう)して(なお)り、自作自演(じさくじえん)の『外郎売(ういろううり)』を舞台(ぶたい)(えん)じたことは、この()(えが)かれた当時(とうじ)から有名(ゆうめい)でした。()女性(じょせい)団十郎(だんじゅうろう)真似(まね)をしているようです。

東海道五十三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ) 大磯(おおいそ)

北斎(ほくさい)(えが)いた東海道五十三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ)シリーズは大判(おおばん)()く、大半(たいはん)小判横(こばんよこ)です。景観描写(けいかんびょうしゃ)をテーマにした初代(しょだい)歌川広重(うたがわひろしげ)作品(さくひん)(たい)し、旅姿(たびすがた)各宿駅(かくしゅくえき)風俗(ふうぞく)がテーマとなっていて、独特(どくとく)(あじ)わいを(かん)じさせます。出版(しゅっぱん)当初(とうしょ)狂歌(きょうか)グループからの依頼(いらい)で「春興五十三駄之内(しゅんこうごじゅうさんえきのうち)」と(だい)した摺物(すりもの)で、右側(みぎがわ)狂歌(きょうか)()られていました。

各宿(かくしゅく)内容(ないよう)()ると、「程ヶ谷(ほどがや)」では農耕馬(のうこうば)(あし)(あら)(ひと)姿(すがた)(はる)(おとず)れが(かん)じられます。「戸塚(とつか)」では宿(やど)女性(じょせい)(わか)れを()しまれながら旅立(たびだ)二人(ふたり)()れ。「藤沢(ふじさわ)」では()(しま)一ノ鳥居(いちのとりい)をくぐって()(しま)()かう(たび)女性(じょせい)たちが(えが)かれています。先頭(せんとう)女性(じょせい)煙管(きせる)訳注(やくちゅう):パイプ)に()けられた(あか)(ぬの)疱瘡除(ほうそうよ)け(訳注(やくちゅう)天然痘(てんねんとう))のまじないです。道標(どうひょう)には「ここよりゑのしま(みち)」と()かれていますが、この道標(どうひょう)(しる)された「享和四年(きょうわよねん)(1804(ねん))」の文字(もじ)から、このシリーズの制作(せいさく)年代(ねんだい)(わか)ります。

平塚(ひらつか)」は、木陰(こかげ)(やす)農夫(のうふ)たちと草刈(くさか)りのカマや(かご)(えが)かれています。春先(はるさき)でまだ(さむ)そうな風情(ふぜい)です。「大磯(おおいそ)」は(おお)きな(いし)()()げようとしている(ひと)がいます。(いし)には「虎か石(とらかいし)」と()かれていて、同宿(どうしゅく)伝説(でんせつ)虎御前(とらごぜん)訳注(やくちゅう)曽我物語(そがものがたり)()てくる女性(じょせい)曽我物語(そがものがたり)全国(ぜんこく)にひろめたと()われている)に(もと)づいた()であることが()かります。「小田原(おだわら)」は「ういろう」()りと遠景(えんけい)小田原城(おだわらじょう)
「ういろう(外郎(ういろう))」とは小田原(おだわら)名物(めいぶつ)(くすり)()で、現在(げんざい)でも販売(はんばい)されています。(同名(どうめい)のお菓子(かし)もあります)歌舞伎役者(かぶきやくしゃ)二代目(にだいめ)市川団十郎(いちかわだんじゅうろう)(せき)(たん)(やまい)台詞(せりふ)をうまく()えずに(こま)っていたときに、外郎(ういろう)服用(ふくよう)して(なお)り、自作自演(じさくじえん)の『外郎売(ういろううり)』を舞台(ぶたい)(えん)じたことは、この()(えが)かれた当時(とうじ)から有名(ゆうめい)でした。()女性(じょせい)団十郎(だんじゅうろう)真似(まね)をしているようです。

東海道五十三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ) 小田原(おだわら)

この作品(さくひん)は、当時(とうじ)人気(にんき)歌舞伎役者(かぶきやくしゃ)とゆかりの宿場(しゅくば)背景(はいけい)(えが)いたシリーズです。「一ト眼千両(ひとめせんりょう)」とは、一目(ひとめ)()ただけで千両(せんりょう)訳注(やくちゅう)(りょう)江戸時代(えどじだい)貨幣(かへい)単位>(たんい)
千両(せんりょう)(いま)でいうと1億円(おくえん)以上(いじょう)価値(かち)になる。)という大金(たいきん)(はら)価値(かち)があるというたとえです。背景(はいけい)二代広重(にだいひろしげ)前景(ぜんけい)人物(じんぶつ)国周(くにちか)分担(ぶんたん)して(えが)いています。
この人物(じんぶつ)は「白波五人男(しらなみごにんおとこ)」の通称(つうしょう)()られる歌舞伎(かぶき)演目(えんもく)青砥稿花紅彩画(あおとぞうしはなのにしきえ)」に登場(とうじょう)する人物(じんぶつ)一人(ひとり)で、江の島(えのしま)にゆかりのある弁天小僧菊之助(べんてんこぞうきくのすけ)です。(ふん)するは四代目(よんだいめ)市村家橘(いちむらかきつ)(のちの五代(ごだい)尾上菊五郎(おのえきくごろう))です。

東海道(とうかいどう)()()()(せん)(りょう) 藤沢(ふじさわ) 弁天小僧菊之助(べんてんこぞうきくのすけ)

江戸(えど)における花見(はなみ)名所(めいしょ)であった御殿山(ごてんやま)風景(ふうけい)(えが)かれます。御殿山(ごてんやま)寛文年間(かんぶんねんかん)(1661~73)より(さくら)移植(いしょく)され、江戸時代後期(えどじだいこうき)には600(ぽん)もの(さくら)があったと(つた)えられています。満開(まんかい)(さくら)()宴会(えんかい)(たの)しむ人々(ひとびと)や、(きゃく)()茶屋(ちゃや)(むすめ)といった(にぎ)やかな花見(はなみ)様子(ようす)()られます。

本作(ほんさく)東海道(とうかいどう)名所(めいしょ)風景(ふうけい)に、当代諸家(とうだいしょか)発句集(ほっくしゅう)(はい)した絵俳書(えばいしょ)です。嘉永(かえい)4(ねん)(1851)に版元(はんもと)永楽屋丈助(えいらくやじょうすけ)より刊行(かんこう)された『東海道名所発句集(とうかいどうめいしょほっくしゅう)』の改題本(かいだいぼん)で、(もと)版本(はんぽん)として()()されたものが、江戸(えど)から伊豆(いず)にかけての風景(ふうけい)画帖(がじょう)形式(けいしき)再版(さいはん)されたものらしく、各図(かくず)独立(どくりつ)した一枚(いちまい)()として鑑賞(かんしょう)できるようになっています。本作(ほんさく)(えが)いた時期(じき)広重(ひろしげ)天童藩(てんどうはん)からの依頼(いらい)により多数(たすう)肉筆画(にくひつが)(えが)いており、自然(しぜん)奥行(おくゆ)きを(かん)じさせる構図(こうず)や、(あお)みがかった(あわ)色調(しきちょう)など、肉筆(にくひつ)直接(ちょくせつ)(ふで)(えが)いた作品(さくひん))の風景画(ふうけいが)(つう)じる表現(ひょうげん)()られます。

東海道(とうかいどう)名所(めいしょ) 品川(しながわ)

東海道(とうかいどう)の3番目(ばんめ)と4番目(ばんめ)宿場(しゅくば)である神奈川(かながわ)()では(こと)なる漢字(かんじ)使(つか)われていますと注入れ(ちゅうい)れ)と程ヶ谷(ほどがや)(かすみ)(はさ)んで(えが)かれています。神奈川宿(かながわしゅく)周辺(しゅうへん)(しる)されている「浅間社(あさましゃ)」は浅間神社(あさまじんじゃ)で、当時(とうじ)神奈川宿(かながわしゅく)程ヶ谷宿(ほどがやしゅく)(あいだ)宿(やど)として(さか)えました。その(よこ)にある「人穴(ひとあな)」は、江戸時代(えどじだい)には富士信仰(ふじしんこう)(むす)()けられていたようですが、現在(げんざい)横穴(よこあな)古墳(こふん)(※古代(こだい)権力者(けんりょくしゃ)(はか))であったことがわかっています。

本作(ほんさく)東海道(とうかいどう)名所(めいしょ)風景(ふうけい)に、当代諸家(とうだいしょか)発句集(ほっくしゅう)(はい)した絵俳書(えばいしょ)です。嘉永(かえい)4(ねん)(1851)に版元(はんもと)永楽屋丈助(えいらくやじょうすけ)より刊行(かんこう)された『東海道名所発句集(とうかいどうめいしょほっくしゅう)』の改題本(かいだいぼん)で、(もと)版本(はんぽん)として()()されたものが、江戸(えど)から伊豆(いず)にかけての風景(ふうけい)画帖(がじょう)形式(けいしき)再版(さいはん)されたものらしく、各図(かくず)独立(どくりつ)した一枚(いちまい)()として鑑賞(かんしょう)できるようになっています。本作(ほんさく)(えが)いた時期(じき)広重(ひろしげ)天童藩(てんどうはん)からの依頼(いらい)により多数(たすう)肉筆画(にくひつが)(えが)いており、自然(しぜん)奥行(おくゆ)きを(かん)じさせる構図(こうず)や、(あお)みがかった(あわ)色調(しきちょう)など、肉筆(にくひつ)直接(ちょくせつ)(ふで)(えが)いた作品(さくひん))の風景画(ふうけいが)(つう)じる表現(ひょうげん)()られます。

東海道(とうかいどう)名所(めいしょ) 神名川(かながわ) (ほど)()

本作(ほんさく)現在(げんざい)横浜市金沢区(よこはましかなざわく)景勝地(けいしょうち)金沢八景(かなざわはっけい)画面(がめん)(えが)きこまれています。金沢八景(かなざわはっけい)は「小泉夜雨(こいずみのやう)」「称名晩鐘(しょうみょうのばんしょう)」「乙艫帰帆(おっとものきはん)」「洲崎晴嵐(すさきのせいらん)」「瀬戸秋月(せとのしゅうげつ)」「平潟落雁(ひらがたのらくがん)」「野島夕照(のじまのせきしょう)」「内川暮雪(うちかわのぼせつ)」の8つの風景(ふうけい)です。右下(みぎした)のある「明神(みょうじん)」は瀬戸三島明神(せとみしまみょうじん)瀬戸神社(せとじんじゃ))を(しめ)しています。

本作(ほんさく)東海道(とうかいどう)名所(めいしょ)風景(ふうけい)に、当代諸家(とうだいしょか)発句集(ほっくしゅう)(はい)した絵俳書(えばいしょ)です。嘉永(かえい)4(ねん)(1851)に版元(はんもと)永楽屋丈助(えいらくやじょうすけ)より刊行(かんこう)された『東海道名所発句集(とうかいどうめいしょほっくしゅう)』の改題本(かいだいぼん)で、(もと)版本(はんぽん)として()()されたものが、江戸(えど)から伊豆(いず)にかけての風景(ふうけい)画帖(がじょう)形式(けいしき)再版(さいはん)されたものらしく、各図(かくず)独立(どくりつ)した一枚(いちまい)()として鑑賞(かんしょう)できるようになっています。本作(ほんさく)(えが)いた時期(じき)広重(ひろしげ)天童藩(てんどうはん)からの依頼(いらい)により多数(たすう)肉筆画(にくひつが)(えが)いており、自然(しぜん)奥行(おくゆ)きを(かん)じさせる構図(こうず)や、(あお)みがかった(あわ)色調(しきちょう)など、肉筆(にくひつ)直接(ちょくせつ)(ふで)(えが)いた作品(さくひん))の風景画(ふうけいが)(つう)じる表現(ひょうげん)()られます。

東海道(とうかいどう)名所(めいしょ) 金澤(かなざわ)八景(はっけい)

本作(ほんさく)()(しお)()()(しま)(えが)かれており、参詣(さんけい)()かう人々(ひとびと)砂洲(さす)(ある)様子(ようす)()られます。この砂洲(さす)は「洲鼻(すばな)」と()ばれ、現在(げんざい)もこの(みち)(つう)じる(みち)洲鼻通(すばなどお)り」にその()(のこ)っています。なお江戸時代(えどじだい)は、現在(げんざい)のように()(しま)までの(はし)()かっていなかったため、()(しお)(とき)(ふね)()って江の島(えのしま)(わた)りました。

本作(ほんさく)東海道(とうかいどう)名所(めいしょ)風景(ふうけい)に、当代諸家(とうだいしょか)発句集(ほっくしゅう)(はい)した絵俳書(えばいしょ)です。嘉永(かえい)4(ねん)(1851)に版元(はんもと)永楽屋丈助(えいらくやじょうすけ)より刊行(かんこう)された『東海道名所発句集(とうかいどうめいしょほっくしゅう)』の改題本(かいだいぼん)で、(もと)版本(はんぽん)として()()されたものが、江戸(えど)から伊豆(いず)にかけての風景(ふうけい)画帖(がじょう)形式(けいしき)再版(さいはん)されたものらしく、各図(かくず)独立(どくりつ)した一枚(いちまい)()として鑑賞(かんしょう)できるようになっています。本作(ほんさく)(えが)いた時期(じき)広重(ひろしげ)天童藩(てんどうはん)からの依頼(いらい)により多数(たすう)肉筆画(にくひつが)(えが)いており、自然(しぜん)奥行(おくゆ)きを(かん)じさせる構図(こうず)や、(あお)みがかった(あわ)色調(しきちょう)など、肉筆(にくひつ)直接(ちょくせつ)(ふで)(えが)いた作品(さくひん))の風景画(ふうけいが)(つう)じる表現(ひょうげん)()られます。

東海道(とうかいどう)名所(めいしょ) ()(しま)



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