ふりがな
江の島の歴史
江の島歴史年表
江の島散策マップ
江の島の文化財
江の島を訪れた人々
資料種類しりょうしゅるい(大分類だいぶんるい):
資料種類しりょうしゅるい(中分類ちゅうぶんるい):
資料種類しりょうしゅるい(小分類しょうぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(大分類だいぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(中分類ちゅうぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(小分類しょうぶんるい):
作者さくしゃ(50音分類おんぶんるい):
作者さくしゃ:
フリーワード:
制作(せいさく)時期(じき):天保(てんぽう)年間(ねんかん)(1830~1844)。 板元(はんもと):江(こう)辰(たつ) この作品(さくひん)には同(おな)じ題名(だいめい)で同(おな)じ板元(はんもと)からの、背景(はいけい)の波頭(なみがしら)が一(ひと)つから二(ふた)つに増(ふ)え人物(じんぶつ)の配置(はいち)がちがう、異(い)版(ばん)があります。 また貞虎(さだとら)の江(え)の島(しま)を画題(がだい)とする作品(さくひん)には、他(た)に「ゑびす大黒(だいこく)江(え)の島(しま)まいり」(大判(おおばん)縦(たて)1枚(まい))と江(え)の島(しま)詣(もうで)(角(かく)版(ばん)摺物(すりもの))があります。
鎌倉(かまくら)七里ヶ浜(しちりがはま)ヨリ江(え)の嶌(しま)遠見(とおみ)ノ図(ず)
明治期(めいじき)を代表(だいひょう)する美人画(びじんが)絵師(えし)である楊洲周延(ようしゅうちかのぶ)による本作(ほんさく)には、三人(さんにん)の女性(じょせい)と、七里ヶ浜(しちりがはま)から見(み)た江(え)の島(しま)の風景(ふうけい)が描(えが)かれています。手前(てまえ)の姉(あね)さん被(かぶ)りをした女性(じょせい)は、一見(いっけん)すると娘(むすめ)のようですが、二人(ふたり)の少女(しょうじょ)を手招(てまね)きしている様子(ようす)から母親(ははおや)を若(わか)い女性(じょせい)の風俗(ふうぞく)で描(えが)いたものと考(かんが)えられます。青色(あおいろ)を基調(きちょう)にした背景(はいけい)や着物(きもの)の淡(あわ)い色(いろ)により、近代(きんだい)の新(あたら)しい美人画(びじんが)を象徴(しょうちょう)する柔(やわ)らかな色彩(しきさい)の作品(さくひん)となっています。
名勝(めいしょう)美人(びじん)会(え)相州(そうしゅう)七里(しちり)ヶ濱(はま)
これは相模国(さがみのくに)の地図(ちず)です。輿地(よち)全(ぜん)図(ず)というのは、その地域(ちいき)の全体(ぜんたい)図(ず)というような意味(いみ)で、この「菊屋(きくや)版(ばん)」も含(ふく)め「輿地図(よちず)」という公(おおやけ)に出版(しゅっぱん)された地図(ちず)がいくつかあります。「相模(さがみ)」というのは、江戸時代(えどじだい)の国(くに)の名前(なまえ)で、国(くに)の下(した)には郡(ぐん)が制定(せいてい)され、郡(ぐん)の下(した)には、人々(ひとびと)の生活(せいかつ)単位(たんい)であった村(むら)があり、図(ず)中(ちゅう)に小判(こばん)形(がた)に記(しる)されています。 このほかに、河川(かせん)、名勝(めいしょう)旧跡(きゅうせき)などが細(こま)かに記(しる)されています。青緑(あおみどり)で塗(ぬ)られているは山間部(さんかんぶ)で、江(え)の島(しま)も島(とう)頂(ちょう)部分(ぶぶん)は標高(ひょうこう)が高(たか)いので、青緑(あおみどり) に塗(ぬ)られています。
相模国(さがみのくに)輿地(よち)全(ぜん)図(ず)
画面(がめん)右(みぎ)に見(み)えるのは三嶋大社(みしまたいしゃ)の鳥居(とりい)です。 赤(あか)枠(わく)の中(なか)にも「三嶋大明神(みしまだいみょうじん)」と書(か)かれています。 三島宿(みしましゅく)は、三嶋大社(みしまたいしゃ)の門前町(もんぜんまち)として栄(さか)えていました。
東海道五十三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ) 三島(みしま)
名物(めいぶつ)の鰹節(かつおぶし)を天(てん)日干(てんぴぼ)しにしている女性(じょせい)と、その足元(あしもと)にしがみつく子(こ)どもの姿(すがた)が描(えが)かれています。 江戸時代(えどじだい)から駿河湾(するがわん)では鰹(かつお)がよく獲(え)れ、鰹節(かつおぶし)も作(つく)られていました。 後景(こうけい)には愛鷹山(あしたかやま)と富士山(ふじさん)が見(み)えます。
東海道五十三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ) 沼津(ぬまづ)
「ふじ川(がわ)舟渡(ふなわたし)」とあるように、富士川(ふじかわ)の渡(わた)しの場面(ばめん)が描(えが)かれています。 遠景(えんけい)には山間(さんかん)から白(しろ)い富士山(ふじさん)がのぞいています。 富士川(ふじかわ)は舟(ふな)渡(わた)しの川(かわ)で、急流(きゅうりゅう)として知(し)られていました。
東海道五十三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ) 蒲原(かんばら)
宿場(しゅくば)の旅籠(はたご)から、男性(だんせい)の宿泊客(しゅくはくきゃく)が景色(けしき)を眺(なが)め、働(はたら)く女性(じょせい)が寝具(しんぐ)を運(はこ)んでいる場面(ばめん)です。石部宿(いしべしゅく)は歌舞伎(かぶき)の演目(えんもく)である「恋女房(こいにょうぼう)染分(そめわけ)手綱(たづな)」の舞台(ぶたい)であり、画(が)中(ちゅう)の男女(だんじょ)はその登場人物(とうじょうじんぶつ)である長(ちょう)右衛門(うえもん)とお半(はん)を模(も)していると思(おも)われます。 石部宿(いしべしゅく)は、京都(きょうと)を出(で)て約(やく)1日(にち)の行程(こうてい)で着(つ)く場所(ばしょ)であるため、宿(やど)が多(おお)くありました。中(なか)には、将軍(しょうぐん)も宿泊(しゅくはく)する本陣(ほんじん)もありました。この絵(え)では、梅(うめ)を眺(なが)め宿(やど)でくつろぐ旅人(たびびと)の姿(すがた)が印象的(いんしょうてき)です。
東海道五十三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ) 石部(いしべ)
六(ろく)曲(きょく)一双(いっそう)の屏風(びょうぶ)で東海道(とうかいどう)の風景(ふうけい)を描(えが)いたものです。右(う)雙(そう)・左(さ)雙(そう)とも4~5段(だん)の構図(こうず)になっています。右(う)雙(そう)は、第(だい)一(いっ)扇(せん)第(だい)一段(いちだん)の江戸城(えどじょう)と日本橋(にほんばし)から始(はじ)まり、第(だい)三(さん)扇(せん)下段(げだん)の藤沢(ふじさわ)まで、雲(くも)型(がた)の枠(わく)に中(なか)に武蔵(むさし)・相模(さがみ)国内(こくない)の宿場(しゅくば)が左回(ひだりまわ)りの渦状(うずじょう)に描(えが)かれています。さらに、第(だい)四(よん)扇(せん)上部(じょうぶ)に大(おお)きく描(えが)かれた富士山(ふじさん)を境(さかい)に、三島(みしま)から第(だい)六(ろく)扇(せん)第(だい)1段(だん)の島田(しまだ)までジグザクに描(えが)かれています。 左(さ)雙(そう)は、第(だい)一(いっ)扇(せん)下部(かぶ)の大井川(おおいがわ)から始(はじ)まり、対岸(たいがん)の金谷(かなや)から左(さ)雙(そう)全体(ぜんたい)を下(した)から上(うえ)へ蛇行(だこう)する形(かたち)で宿場(しゅくば)が描(えが)かれ、第(だい)五(ご)扇(せん)上部(じょうぶ)に三条大橋(さんじょうおおはし)、左(ひだり)の第(だい)六(ろく)扇(せん)上部(じょうぶ)に内裏(だいり)が置(お)かれています。
東海道五十三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ)図(ず)屏風(びょうぶ)