ふりがな
江の島の歴史
江の島歴史年表
江の島散策マップ
江の島の文化財
江の島を訪れた人々
資料種類しりょうしゅるい(大分類だいぶんるい):
資料種類しりょうしゅるい(中分類ちゅうぶんるい):
資料種類しりょうしゅるい(小分類しょうぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(大分類だいぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(中分類ちゅうぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(小分類しょうぶんるい):
作者さくしゃ(50音分類おんぶんるい):
作者さくしゃ:
フリーワード:
製作(せいさく)時期(じき):安政(あんせい)2年(ねん)(1855)。 板元(はんもと):蔦屋吉蔵(つたやきちぞう) 竪(たて)絵(え)では、馬入川(ばにゅうがわ)を渡(わた)る舟(ふね)渡(わた)しの場面(ばめん)が描(えが)かれています。後景(こうけい)の中央(ちゅうおう)には大山(おおやま)、左(ひだり)には富士山(ふじさん)が見(み)え、雄大(ゆうだい)な景色(けしき)が広(ひろ)がっています。 このシリーズが竪(たて)型(がた)版(ばん)であるため、一般(いっぱん)に竪(たて)絵(え)東海道(とうかいどう)と呼(よ)ばれ、広重(ひろしげ)晩年(ばんねん)(59 才(さい))の作品(さくひん)です。 広重(ひろしげ)の東海道(とうかいどう)ものは大体(だいたい)において、横型(よこがた)の風景画(ふうけいが)が多(おお)いなかで、竪(たて)型(がた)物(ぶつ)もいくつかあります。この名所図会(めいしょずえ)シリーズではほとんどの宿(やど)が鳥瞰図(ちょうかんず)で描(えが)かれ、町並(まちな)み等(とう)に遠近法(えんきんほう)を用(もち)い、横(よこ)判(ばん)では見(み)られない雰囲気(ふんいき)をかもし出(だ)しています。
五十三次(ごじゅうさんつぎ)名所図会(めいしょずえ) 八(はち) 平塚(ひらつか) 馬入(ばにゅう)川(がわ)舟渡(ふなわたし) 大山(おおやま)遠望(えんぼう)
製作(せいさく)時期(じき):安政(あんせい)2年(ねん)(1855)。 板元(はんもと):蔦屋吉蔵(つたやきちぞう) 神奈川(かながわ)の台町(だいまち)の坂(さか)には、海(うみ)をのぞむ二階(にかい)造(づく)りの茶店(ちゃみせ)が軒(のき)つらねており、そこから見(み)る波打(なみう)ち際(ぎわ)の景色(けしき)は見事(みごと)であったそうです。天(てん)ぼかし(空(そら)を表現(ひょうげん)するぼかし)の内(うち)にぽっかりと満月(まんげつ)が浮(う)かんでおり、神奈川宿(かながわしゅく)の穏(おだ)やかな夜(よる)の空気(くうき)が伝(つた)わってくるようです。 このシリーズが竪(たて)型(がた)版(ばん)であるため、一般(いっぱん)に竪(たて)絵(え)東海道(とうかいどう)と呼(よ)ばれ、広重(ひろしげ)晩年(ばんねん)(59 才(さい))の作品(さくひん)です。 広重(ひろしげ)の東海道(とうかいどう)ものは大体(だいたい)において、横型(よこがた)の風景画(ふうけいが)が多(おお)いなかで、竪(たて)型(がた)物(ぶつ)もいくつかあります。この名所図会(めいしょずえ)シリーズではほとんどの宿(やど)が鳥瞰図(ちょうかんず)で描(えが)かれ、町並(まちな)み等(とう)に遠近法(えんきんほう)を用(もち)い、横(よこ)判(ばん)では見(み)られない雰囲気(ふんいき)をかもし出(だ)しています。
五十三次(ごじゅうさんつぎ)名所図会(めいしょずえ) 四(し) 神奈川(かながわ) 台(だい)の茶屋(ちゃや) 海上(かいじょう)見(み)はらし(竪(たて)絵(え)東海道(とうかいどう))
製作(せいさく)時期(じき):安政(あんせい)2年(ねん)(1855)。 板元(はんもと):蔦屋吉蔵(つたやきちぞう) 画面(がめん)右(みぎ)に描(えが)かれる橋(はし)は、鶴見(つるみ)川(がわ)を渡(わた)る鶴見橋(つるみばし)で、橋(はし)のたもとには茶店(ちゃみせ)が並(なら)んでいます。この茶店(ちゃみせ)では名物(めいぶつ)の米饅頭(よねまんじゅう)が売(う)られていました。また本作(ほんさく)の画面(がめん)の天(てん)ぼかし(空(そら)を表現(ひょうげん)するぼかし)や川(かわ)をよく見(み)ると、摺(す)った版(ばん)の木目(もくめ)を見(み)ることが出来(でき)ます。 このシリーズが竪(たて)型(がた)版(ばん)であるため、一般(いっぱん)に竪(たて)絵(え)東海道(とうかいどう)と呼(よ)ばれ、広重(ひろしげ)晩年(ばんねん)(59 才(さい))の作品(さくひん)です。広重(ひろしげ)の東海道(とうかいどう)ものは大体(だいたい)において、横型(よこがた)の風景画(ふうけいが)が多(おお)いなかで、竪(たて)型(がた)物(ぶつ)もいくつかあります。この名所図会(めいしょずえ)シリーズではほとんどの宿(やど)が鳥瞰図(ちょうかんず)で描(えが)かれ、町並(まちな)み等(とう)に遠近法(えんきんほう)を用(もち)い、横(よこ)判(ばん)では見(み)られない雰囲気(ふんいき)をかもし出(だ)しています。
五十三次(ごじゅうさんつぎ)名所図会(めいしょずえ) 三(さん) 川崎(かわさき) 鶴見(つるみ)川(がわ)生麦(なまむぎ)の里(さと)(竪(たて)絵(え)東海道(とうかいどう))
製作(せいさく)時期(じき):安政(あんせい)2年(ねん)(1855)。 板元(はんもと):蔦屋吉蔵(つたやきちぞう) 宿駅(しゅくえき)を桜(さくら)が咲(さ)く御殿山(ごてんやま)から見下(みお)ろし、海上(かいじょう)の方(ほう)は見上(みあ)げたような構図(こうず)になっています。 このような両用(りょうよう)の図法(ずほう)が、このシリーズの特徴(とくちょう)と言(い)えます。 駅(えき)と言(い)うのは、人(ひと)や車(くるま)が中継(ちゅうけい)する宿場(しゅくば)のことです。 高輪(たかなわ)台地(だいち)にあった御殿山(ごてんやま)は、江戸時代(えどじだい)には花見(はなみ)の名所(めいしょ)となっていました。画面(がめん)上部(じょうぶ)には海(うみ)が広々(ひろびろ)と描(えが)かれ、水平線(すいへいせん)に施(ほどこ)された赤(あか)のぼかしがアクセントとなっています。 このシリーズが竪(たて)型(がた)版(ばん)であるため、一般(いっぱん)に竪(たて)絵(え)東海道(とうかいどう)と呼(よ)ばれ、広重(ひろしげ)晩年(ばんねん)(59 才(さい))の作品(さくひん)です。 広重(ひろしげ)の東海道(とうかいどう)ものは大体(だいたい)において、横型(よこがた)の風景画(ふうけいが)が多(おお)いなかで、竪(たて)型(がた)物(ぶつ)もいくつかあります。この名所図会(めいしょずえ)シリーズではほとんどの宿(やど)が鳥瞰図(ちょうかんず)で描(えが)かれ、町並(まちな)み等(とう)に遠近法(えんきんほう)を用(もち)い、横(よこ)判(ばん)では見(み)られない雰囲気(ふんいき)をかもし出(だ)しています。
五十三次(ごじゅうさんつぎ)名所図会(めいしょずえ) 二(に) 品川(しながわ) 御殿山(ごてんやま)より駅中(えきちゅう)を見(み)る(竪(たて)絵(え)東海道(とうかいどう))
製作(せいさく)時期(じき):安政(あんせい)2年(ねん)(1855)。 板元(はんもと):蔦屋吉蔵(つたやきちぞう) 本作(ほんさく)では、上(うえ)から富士(ふじ)、江戸城(えどじょう)、蔵(くら)、日本橋(にほんばし)、そして魚河岸(うおがし)といった様々(さまざま)な情報(じょうほう)が、竪(たて)の構図(こうず)を生(い)かして描(えが)かれています。 副題(ふくだい)が「東雲(しののめ)の景(けい)」で、東雲(しののめ)とは夜明(よあ)け前(まえ)に茜色(あかねいろ)に染(そ)まる空(そら)を意味(いみ)することから、魚河岸(うおがし)に活気(かっき)のある早朝(そうちょう)の風景(ふうけい)を描(えが)いたものであることがわかります。 このシリーズが竪(たて)型(かた)版(ばん)であるため、一般(いっぱん)に竪(たて)絵(え)東海道(とうかいどう)と呼(よ)ばれ、広重(ひろしげ)晩年(ばんねん)(59才(さい))の作品(さくひん)です。 広重(ひろしげ)の東海道(とうかいどう)ものは大体(だいたい)において、横型(よこがた)の風景画(ふうけいが)が多(おお)いなかで、竪(たて)型(がた)物(ぶつ)もいくつかあります。この名所図会(めいしょずえ)シリーズではほとんどの宿(やど)が鳥瞰図(ちょうかんず)で描(えが)かれ、町並(まちな)み等(とう)に遠近法(えんきんほう)を用(もち)い、横(よこ)判(ばん)では見(み)られない雰囲気(ふんいき)をかもし出(だ)しています。
五十三次(ごじゅうさんつぎ)名所図会(めいしょずえ) 一(いち) 日本橋(にほんばし)(竪(たて)絵(え)東海道(とうかいどう))
製作(せいさく)時期(じき):嘉永(かえい)4年(ねん)(1851)。 板元(はんもと)印(しるし)なし この作品(さくひん)は、折本(おりほん)の「東海道(とうかいどう)名所(めいしょ)画帖(がちょう)」(広重(ひろしげ)画(が)、1851年(ねん)(嘉永(かえい)4年(ねん))刊(かん)、全(ぜん)23図(ず))に掲載(けいさい)されている図(ず)の1枚(まい)です。 雪景色(ゆきげしき)が美(うつく)しい遊行寺(ゆぎょうじ)山門(さんもん)を描(えが)いた作品(さくひん)で、現在(げんざい)よりも急(きゅう)な参道(さんどう)の突(つ)き当(あ)たりには重厚(じゅうこう)な仁王門(におうもん)が描(えが)かれ、初代(しょだい)広重(ひろしげ)ならではの絶妙(ぜつみょう)の画面(がめん)構成(こうせい)といえます。 この門(もん)は江戸時代(えどじだい)に遊行寺(ゆぎょうじ)が発行(はっこう)した境内(けいだい)絵図(えず)にも描(えが)かれていますが、明治(めいじ)13年(ねん)(1880)年(ねん))の藤沢宿(ふじさわしゅく)の大火(たいか)で焼失(しょうしつ)しました。
東海道(とうかいどう)名所(めいしょ) 藤沢(ふじさわ) 遊行寺(ゆぎょうじ)
製作(せいさく)時期(じき):嘉永(かえい)4年(ねん)(1851)~嘉永(かえい)5年(ねん)(1852)。 板元(はんもと):村市(むらいち)(村田屋市五郎(むらたやいちごろう)) このシリーズは、人物(じんぶつ)を大(おお)きく中心(ちゅうしん)に描(えが)いているため、一般(いっぱん)に人物(じんぶつ)東海道(とうかいどう)と呼(よ)ばれます。 図柄(ずがら)は旅(たび)姿(すがた)等(など)の女性(じょせい)が多(おお)く、小判(こばん)ですがアップに描(えが)いているので、女性(じょせい)等(など)の表情(ひょうじょう)や仕草(しぐさ)がよくわかります。 藤沢(ふじさわ)のこの図(ず)はめずらしい雪景色(ゆきげしき)で、左(ひだり)に見(み)える欄干(らんかん)は大鋸橋(おおぎりばし) (現(げん)遊行寺橋(ゆぎょうじばし))です。
五十三次(ごじゅうさんつぎ) 藤沢(ふじさわ)(人物(じんぶつ)東海道(とうかいどう))
製作(せいさく)時期(じき):天保(てんぽう)14年(ねん)(1843)~弘化(こうか)4年(ねん)(1847)。 板元(はんもと):伊場屋久兵衛(いばやきゅうべえ) 本作(ほんさく)に描(えが)かれている京都(きょうと)の「三条大橋(さんじょうおおはし)」は東海道(とうかいどう)の西端(せいたん)です。義経(よしつね)はその南(みなみ)にある「五条大橋(ごじょうおおはし)」で、忠臣(ちゅうしん)・弁慶(べんけい)と出会(であ)ったという逸話(いつわ)が知(し)られています。 絵(え)には少女(しょうじょ)を連(つ)れた女性(じょせい)の姿(すがた)が描(えが)かれており、少女(しょうじょ)は貴族(きぞく)の姿(すがた)をした京都(きょうと)の人形(にんぎょう)を持(も)っています。女性(じょせい)の着物(きもの)も模様(もよう)が華(はな)やかで、髪型(かみがた)も「先笄(さきこうがい)」という京都(きょうと)で好(この)まれたスタイルとなっています。 このシリーズは、初代(しょだい)広重(ひろしげ)、三代(さんだい)豊国(とよくに)、国芳(くによし)の3人(にん)の当時(とうじ)代表的(だいひょうてき)人気(にんき)浮世絵師(うきよえし)が分担(ぶんたん)して描(えが)いたものです。 風景(ふうけい)は少(すく)なく人物(じんぶつ)を主(おも)とし、下(した)3分(ぶん)の2が画面(がめん)で、それぞれの宿(やど)にちなんだ伝説(でんせつ)、史跡(しせき)、著名(ちょめい)な出来事(できごと)等(など)を描(えが)き、上(うえ)3分(ぶん)の1に下(した)の絵(え)の説明(せつめい)がなされています。
東海道(とうかいどう)五(ご)十(じゅう)三(さん)対(つい) 京(きょう)