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江の島の歴史
江の島歴史年表
江の島散策マップ
江の島の文化財
江の島を訪れた人々
資料種類しりょうしゅるい(大分類だいぶんるい):
資料種類しりょうしゅるい(中分類ちゅうぶんるい):
資料種類しりょうしゅるい(小分類しょうぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(大分類だいぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(中分類ちゅうぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(小分類しょうぶんるい):
作者さくしゃ(50音分類おんぶんるい):
作者さくしゃ:
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製作(せいさく)時期(じき):天保(てんぽう)14年(ねん)(1843)~弘化(こうか)4年(ねん)(1847)。 板元(はんもと):小嶋屋(こじまや)重兵衛(じゅうべえ) このシリーズは、初代(しょだい)広重(ひろしげ)、三代(さんだい)豊国(とよくに)、国芳(くによし)の3人(さんにん)の当時(とうじ)代表的(だいひょうてき)人気(にんき)浮世絵師(うきよえし)が分担(ぶんたん)して描(えが)いたものです。 風景(ふうけい)は少(すく)なく人物(じんぶつ)を主(おも)とし、下(した)3分(ぶん)の2が画面(がめん)で、それぞれの宿(やど)にちなんだ伝説(でんせつ)、史跡(しせき)、著名(ちょめい)な出来事(できごと)等(など)を描(えが)き、上(うえ)3分(ぶん)の1に下(した)の絵(え)の説明(せつめい)がなされています。
東海道(とうかいどう)五(ご)十(じゅう)三(さん)対(つい) 沼津(ぬまづ)
製作(せいさく)時期(じき):弘化(こうか)元年(がんねん)~4年(ねん)(1844~47)。 板元(はんもと):伊場仙(いばせん)(伊場(いば)屋(や)仙三郎(せんざぶろう)) 三島(みしま)の詞書(ことばがき)には、三嶋(みしま)明神(みょうじん)の起源(きげん)や、能因法師(のういんほうし)(平安時代(へいあんじだい)の僧(そう)、歌人(かじん))の雨乞(あまごい)などの話(はなし)が記(しる)されています。絵(え)は正月(しょうがつ)の6日(むいか)に行(おこな)われた「三島(みしま)祭(まつり)」の様子(ようす)を描(えが)いたものです。 白(しろ)いお面(めん)を付(つ)けた舅(しゅうと)の穂長(ほなが)が、黒(くろ)いお面(めん)を付(つ)けた婿(むこ)の福太郎(ふくたろう)とともに、その年(とし)の五穀豊穣(ごこくほうじょう)、天下泰平(てんかたいへい)(食物(しょくもつ)が良(よ)く実(みの)り、平和(へいわ)であること)を祈(いの)る神事(しんじ) で、現在(げんざい)も「田(た)祭(まつり)」として伝(つた)えられています。 このシリーズは、初代(しょだい)広重(ひろしげ)、三代(さんだい)豊国(とよくに)、国芳(くによし)の3人(にん)の当時(とうじ)代表的(だいひょうてき)人気(にんき)浮世絵師(うきよえし)が分担(ぶんたん)して描(えが)いたものです。風景(ふうけい)は少(すく)なく人物(じんぶつ)を主(おも)とし、下(した)3分(ぶん)の2が画面(がめん)で、それぞれの宿(やど)にちなんだ伝説(でんせつ)、史跡(しせき)、著名(ちょめい)な出来事(できごと)等(など)を描(えが)き、上(うえ)3分(ぶん)の1に下(した)の絵(え)の説明(せつめい)がなされています。
東海道(とうかいどう)五(ご)十(じゅう)三(さん)対(つい) 三嶋(みしま)
三浦義明(みうらよしあき)は、平安時代末期(へいあんじだいまっき)の相模国三浦郡衣笠城(さがみのくにみうらぐんきぬがさじょう)の武将(ぶしょう)。治承(じしょう)4年(ねん)(1180年(ねん))に源義朝(みなもとのよしとも)の遺児(いじ)・源頼朝(みなもとのよりとも)が挙兵(きょへい)すると、一族(いちぞく)挙(あ)げてこれに合流(ごうりゅう)しようと居城(きょじょう)の衣笠城(きぬかさじょう)を出撃(しゅつげき)します。しかし、途中(とちゅう)で石橋山(いしばしやま)の戦(たたか)いにおける頼朝(よりとも)の敗戦(はいせん)を聞(き)き、引(ひ)き返(かえ)して篭城(ろうじょう)。ほどなくして敵方(てきかた)に参加(さんか)していた畠山重忠(はたけやましげただ)率(ひき)いる軍勢(ぐんぜい)と衣笠城合戦(きぬがさじょうかっせん)となり、一族郎党(いちぞくろうとう)を率(ひき)いて奮戦(ふんせん)しますが、最終的(さいしゅうてき)には刀折(かたなお)れ矢尽(やつ)(戦(たたか)う力(ちから)も尽(つ)きてしまった状態(じょうたい))、一族(いちぞく)を安房(あわ)に逃(のが)した後(のち)、独(ひと)り城(しろ)を守(まも)って戦死(せんし)しました。 享年(きょうねん)89歳(さい)。江戸時代(えどじだい)には義理(ぎり)に厚(あつ)い老将(ろうしょう)としてよく知(し)られていました。 背景(はいけい)の歌(うた)は「身(み)は老(おい)ぬ ゆくすえなかく つかえると 子(こ)をおもふ道(みち)に きみを おもへ」
本朝(ほんちょう)名将(めいしょう)鏡(かがみ) 三浦(みうら)大介(おおすけ)義明(よしあき)
鳥瞰図(ちょうかんず)に秀(ひい)で「空飛ぶ絵師(そらと)ぶ絵師(えし)」とも呼(よ)ばれた貞秀(さだひで)による【画帳(がちょう)】。 第(だい)三(さん)編(へん)には、滝(たき)・山(やま)・島(しま)等(など)の風景画譜(ふうけいがふ)と仁王像(におうぞう)等(とう)の画像(がぞう)が描(えが)かれています。
万象(ばんしょう)写真(しゃしん) 図譜(ずふ) 第(だい)三(さん)編(ぺん)
製作(せいさく)時期(じき):天保(てんぽう)14年(ねん)(1843)~弘化(こうか)4年(ねん)(1847)。 板元(はんもと):遠州屋又兵衛(えんしゅうやまたべえ) 小田原(おだわら)は平治(へいじ)の乱(らん)(12世紀(せいき)半(なか)ばの天皇(てんのう)周辺(しゅうへん)の権力者(けんりょくしゃ)による闘争(とうそう))に敗(やぶ)れた 13歳(さい)の源頼朝(みなもとのよりとも)が、伊豆(いず)に流(なが)されたのち、その土地(とち) で妻(つま)となる北条(ほうじょう)家(け)の政子(まさこ)と出会(であ)ったという物語(ものがたり)が主題(しゅだい)となっています。 絵(え)を見(み)ると、前髪(まえがみ)を残(のこ)し(江戸時代(えどじだい)、男性(だんせい)は成人(せいじん)の際(さい)に前髪(まえがみ)を剃(そ)った)振袖(ふりそで)を着(き)た若々(わかわか)しい姿(すがた)の頼朝(よりとも)が、雪(ゆき)の中(なか)を政子(まさこ)に会(あ)いに来(く)る場面(ばめん)が描(えが)かれています。平安(へいあん)末期(まっき)頃(ごろ)の話(はなし)ですが、頼朝(よりとも)も政子(まさこ)も江戸時代(えどじだい)の風俗(ふうぞく)で描(えが)かれています。 このシリーズは、初代(しょだい)広重(ひろしげ)、三代(さんだい)豊国(とよくに)、国芳(くによし)の3人(にん)の当時(とうじ)代表的(だいひょうてき)人気(にんき)浮世絵師(うきよえし)が分担(ぶんたん)して描(えが)いたものです。風景(ふうけい)は少(すく)なく人物(じんぶつ)を主(おも)とし、下(した)3分(ぶん)の2が画面(がめん)で、それぞれの宿(やど)にちなんだ伝説(でんせつ)、史跡(しせき)、著名(ちょめい)な出来事(できごと)等(など)を描(えが)き、上(うえ)3分(ぶん)の1に下(した)の絵(え)の説明(せつめい)がなされています。
東海道(とうかいどう)五(ご)十(じゅう)三(さん)対(つい) 小田原(おだわら)の駅(えき)
人形浄瑠璃(にんぎょうじょうるり)の台本(だいほん)である【浄瑠璃本(じょうるりぼん)】。 「鎌倉三代記(かまくらさんだいき)」とは、人形浄瑠璃(にんぎょうじょうるり)および歌舞伎(かぶき)の演目(えんもく)のひとつ。全十段(ぜんじゅうだん)(もとは全九段(ぜんくだん))。明和(めいわ)7年(ねん)(1770年(ねん))5月(がつ)に大坂(おおさか)で初演(しょえん)されましたが、この時(とき)は「鎌倉三代記(かまくらさんだいき)」という外題(げだい)ではありませんでした。作者(さくしゃ)については不明(ふめい)ですが、近松半二(ちかまつはんじ)(近松門左衛門(ちかまつもんざえもん)の弟子(でし))その他(た)と推定(すいてい)されています。この本(ほん)は安永(あんえい)10年(ねん)の豊竹座(とよたけざ)(大坂道頓堀(おおさかどうとんぼり))の興業(こうぎょう)に使(つか)われたものです。
源頼家(みなもとのよりいえ) 源実朝(みなもとのさねとも) 鎌倉三代記(かまくらさんだいき) 十段(じゅうだん)続(つづき)
製作(せいさく)時期(じき):天保(てんぽう)1414年(ねん)(1843)~弘化(こうか)4年(ねん)(1847)。 板元(はんもと):海老屋林之助(えびやりんのすけ) 詞書(ことばがき)には『曽我(そが)兄弟(きょうだい)の仇討(あだう)ち』の兄(あに)、曽我(そが)十郎(じゅうろう)祐成(すけなり)と、恋仲(こいなか)であった大磯(おおいそ)の遊女(ゆうじょ)虎御前(とらごぜん)との関係(かんけい)について書(か)かれています。 虎御前(とらごぜん)は仇討(あだう)ちの際(さい)に亡(な)くなった十郎(じゅうろう)の供養(くよう)を行(おこな)うため19歳(さい)で出家(しゅっけ)し、その後(ご)諸国(しょこく)を巡(めぐ)ったのち、71歳(さい)の時(とき)に熊野(くまの)(日本(にっぽん)の聖地(せいち)のひとつ)で亡(な)くなったと伝(つた)えられています。 絵(え)には柳(やなぎ)の木(こ)の下(した)で待(ま)っていた十郎(じゅうろう)に、虎御前(とらごぜん)が後(うし)ろから声(こえ)を掛(か)けている様子(ようす)が描(えが)かれています。 本作(ほんさく)は東海道(とうかいどう)もの浮世絵(うきよえ)の一(ひと)つですが、宿場(しゅくば)の風景(ふうけい)を描(えが)いたものではなく、各(かく)東海道(とうかいどう)の宿場(しゅくば)に伝(つた)わる説話(せつわ)や、歌舞伎(かぶき)・浄瑠璃(じょうるり)(江戸時代(えどじだい)より流行(りゅうこう)した人形劇(にんぎょうげき))を元(もと)にした内容(ないよう)が上部(じょうぶ)の詞書(ことばがき)に書(か)かれ、それに関連(かんれん)した絵図(えず)が下部(かぶ)に描(えが)かれた作品(さくひん)となっています。広重(ひろしげ)、国芳(くによし)、国貞(くにさだ)(三代(さんだい)豊国(とよくに))という当時(とうじ)の歌川派(うたがわは)の人気(にんき)絵師(えし)3人(にん)による共筆(きょうひつ)の揃(そろい)物(ぶつ)(シリーズもの)である点(てん)が珍(めずら)しく、版元(はんもと)も6人(にん)からの共同出版(きょうどうしゅっぱん)となっています。 (本展(ほんてん)では広重(ひろしげ)と国芳(くによし)の作品(さくひん)を出品(しゅっぴん)) このシリーズは、初代(しょだい)広重(ひろしげ)、三代(さんだい)豊国(とよくに)、国芳(くによし)の3人(にん)の当時(とうじ)代表的(だいひょうてき)人気(にんき)浮世絵師(うきよえし)が分担(ぶんたん)して描(えが)いたものです。 風景(ふうけい)は少(すく)なく人物(じんぶつ)を主(おも)とし、下(した)3分(さんぶん)の2が画面(がめん)で、それぞれの宿(やど)にちなんだ伝説(でんせつ)、史跡(しせき)、著名(ちょめい)な出来事(できごと)等(など)を描(えが)き、上(うえ)3分(さんぶん)の1に下(した)の絵(え)の説明(せつめい)がなされています。
東海道(とうかいどう)五(ご)十(じゅう)三(さん)対(つい) 大磯(おおいそ)
製作(せいさく)時期(じき):天保(てんぽう)14年(ねん)(1843)~弘化(こうか)4年(ねん)(1847)。 板元(はんもと):伊勢屋市兵衛(いせやいちべえ) 落雷(らくらい)や荒(あ)れる波(なみ)の表現(ひょうげん)がダイナミックに描(えが)かれた本作(もとさく)には、平塚(ひらつか)にある「馬入川(ばにゅうがわ)」の名(な)の由来(ゆらい)に関(かか)わる伝説(でんせつ)が記(しる)されています。 詞書(ことばがき)を読(よ)むと「建久(けんきゅう)9年(ねん)(1198)の12月(がつ)、稲毛(いなげ)三郎(さぶろう)が相模川(さがみがわ)に(亡(な)き妻(つま)のために作(つく)った橋(はし)の)橋供養(はしくよう)(橋(はし)が完成(かんせい)した時(とき)におこなう儀式(ぎしき))を行(おこな)った。 源頼朝(みなもとのよりとも)もそれに参列(さんれつ)したが、その際(さい)の落雷(らくらい)により乗(の)っていた馬(うま) が川(かわ)へ入(はい)り死(し)んでしまった。これにより馬入川(ばにゅうがわ)と呼(よ)ばれるようになった。」という内容(ないよう)になっています。 このシリーズは、初代(しょだい)広重(ひろしげ)、三代(さんだい)豊国(とよくに)、国芳(くによし)の3人(さんにん)の当時(とうじ)代表的(だいひょうてき)人気(にんき)浮世絵師(うきよえし)が分担(ぶんたん)して描(えが)いたものです。風景(ふうけい)は少(すく)なく人物(じんぶつ)を主(おも)とし、下(した)3分(ぶん)の2が画面(がめん)で、それぞれの宿(やど)にちなんだ伝説(でんせつ)、史跡(しせき)、著名(ちょめい)な出来事(できごと)等(など)を描(えが)き、上(うえ)3分(ぶん)の1に下(した)の絵(え)の説明(せつめい)がなされています。
東海道(とうかいどう)五(ご)十(じゅう)三(さん)対(つい) 平塚(ひらつか)