Fujisawa Net Museum

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製作時期(せいさくじき):明治(めいじ)8年(ねん)。
板元(はんもと):山清(やませい)(山崎屋清七(やまざきやせいしち))

画面手前(がめんてまえ)の江(え)の島(しま)一(いち)の鳥居(とりい)を通(とお)り江(え)の島(しま)詣(もうで)へ向(む)かう人々(ひとびと)、画面中央(がめんちゅうおう)には遊行寺橋(ゆぎょうじばし)、画面右奥(がめんみぎおく)には遊行寺(ゆぎょうじ)が見(み)えます。初代広重(しょだいひろしげ)も描(えが)いた藤沢宿(ふじさわしゅく)のおなじみの景色(けしき)ですが、太鼓橋(たいこばし)だった遊行寺橋(ゆぎょうじばし)は、明治(めいじ)になると人力車(じんりきしゃ)や馬車(ばしゃ)の通行(つうこう)に対応(たいおう)するために、西洋式(せいようしき)の平(たい)らな橋(はし)に架(か)け替(か)えられました。

画中(がちゅう)にも、橋(はし)の上(うえ)を通(とお)る人力車(じんりきしゃ)や馬(うま)が見(み)えます。画面右(がめんみぎ)の橋(はし)のたもとにある茶屋(ちゃや)らしき建物(たてもの)には窓(まど)がつけられており、ところどころに文明開化(ぶんめいかいか)の影響(えいきょう)がみられます。
馬(うま)に乗(の)っている人物(じんぶつ)は外国人(がいこくじん)の男性(だんせい)と思(おも)われます。
当時(とうじ)、横浜(よこはま)の居留地(きょりゅうち)に滞在(たいざい)する外国人(がいこくじん)の外出(がいしゅつ)は十里(じゅうり)四方(しほう)(約(やく)40km)以内(いない)との制限(せいげん)がありました。藤沢宿(ふじさわしゅく)はその範囲(はんい)内(ない)にあたるので、実際(じっさい)にもこのように外国人(がいこくじん)が通行(つうこう)する場面(ばめん)があったのかもしれません。

三代広重(さんだいひろしげ)描(えが)くこのシリーズは、明治前期(めいじぜんき)の東海道各宿駅(とうかいどうかくしゅくえき)の風景(ふうけい)が華(はな)やかな色彩(しきさい)(幕末(ばくまつ)から明治初期(めいじしょき)に海外(かいがい)からあざやかな科学顔料(かがくがんりょう)が入(はい)り使用(しよう)される)で描(えが)かれています。

東海名所 改正道中記 八 藤沢

東海(とうかい)名所(めいしょ) 改正(かいせい)道中(どうちゅう)記(き) 八(はち) 平塚(ひらつか)迄(まで)三(さん)り半(はん) 藤澤(ふじさわ) 江(え)のしまみちの鳥居(とりい)

製作時期(せいさくじき):慶応(けいおう)3年(ねん)(1867)。
板元(はんもと):伊勢鉄(いせてつ)

ちりめん絵(え)は一見(いっけん)小(ちい)さな錦絵(にしきえ)のように見(み)えますが、実(じつ)は和紙(わし)に摺(す)った普通(ふつう)の大(おお)きさの錦絵(にしきえ)を、棒(ぼう)に巻(ま)きつけ縮(ちぢ)めて作(つく)ったものです。 近(ちか)くで見(み)ると、ちりめんに似(に)た細(こま)かい皺(しわ)があります。ちりめん絵(え)は外国(がいこく)向(む)けのものとして量産(りょうさん)され、クレープ・ジャポン(ちりめん織(おり)をフランス語(ご)でクレープと呼(よ)ぶ)、略(りゃく)してクレポンと呼(よ)ばれました。
当時(とうじ)は比較的(ひかくてき)安価(あんか)に買(か)えたものであったらしく、画家(がか)のゴッホもちりめん絵(え)を多(おお)く集(あつ)めていたとされます。

人気(にんき)歌舞伎役者(かぶきやくしゃ)をゆかりの宿場(しゅくば)を背景(はいけい)に描(えが)いたシリーズ。「一眼(ひとめ)(目(め))千両(せんりょう)」とは、一目(ひとめ)見(み)ただけで千両(せんりょう)という大金(たいきん)を払(はら)う価値(かち)があるというたとえです。
上部(じょうぶ)の風景(ふうけい)を二代広重(にだいひろしげ)、下部(かぶ)の人物(じんぶつ)を国周(くにちか)が分担(ぶんたん)して画(か)いています。

人物(じんぶつ)は白波五人男(しらなみごにんおとこ)の一人(ひとり)で江(え)の島(しま)(藤沢(ふじさわ))ゆかりの弁天小僧菊之助(べんてんこぞうきくのすけ)で、扮(ふん)するは四代市村家橘(よんだいいちむらかきつ)(のちの五代尾上菊五郎(ごだいおのえきくごろう))です。画(え)は女装(じょそう)した弁天小僧(べんてんこぞう)が見栄(みえ)を切(き)って、有名(ゆうめい)な「知(し)らざあ(ー)言(い)って聞(き)かせやしょう」のセリフを言(い)おうというところ。
背景(はいけい)の藤沢宿(ふじさわしゅく)の風景(ふうけい)は、初代広重(しょだいひろしげ)の保永堂版(ほえいどうばん)東海道(とうかいどう)の構図(こうず)を使(つか)っています。右上(みぎうえ)の文章(ぶんしょう)は戯作者(げさくしゃ)の山々亭有人(さんさんていありんど)が書(か)いています。

東海道一卜眼千両 藤沢 弁天小僧菊之助

東海道(とうかいどう)一(ひ)卜(と)眼(め)千(せん)両(りょう) 藤沢(ふじさわ) 弁天小僧菊之助(べんてんこぞうきくのすけ)

製作時期(せいさくじき):慶応元年(けいおうがんねん)(1865)。
板元(はんもと):相ト(あいと)

このシリーズは全版(ぜんはん)を通(とお)し右上部(みぎじょうぶ)に描(えが)かれた扇(おうぎ)の中(なか)に末廣五十三次(すえひろごじゅうさんつぎ)と書(か)かれているため「末広東海道(すえひろとうかいどう)」と呼(よ)ばれています。慶応元年(けいおうがんねん)五月(ごがつ)に将軍家茂(しょうぐんいえもち)は、第二次長州出兵(だいにじちょうしゅうしゅっぺい)のため、江戸(えど)を出発(しゅっぱつ)しました。「末広東海道(すえひろとうかいどう)」は、この時(とき)に将軍(しょうぐん)に付(つ)き従(したが)って上洛(じょうらく)する幕府軍(ばくふぐん)の姿(すがた)を各(かく)宿(しゅく)の風景(ふうけい)の中(なか)に描(えが)いたものです。
芳年(よしとし)、二代国輝(にだいくにてる)、三代広重(さんだいひろしげ)等(など)、幕末(ばくまつ)を代表(だいひょう)する浮世絵師(うきよえし)が各宿(かくしゅく)を分担(ぶんたん)しています。

画(が)は藤沢宿(ふじさわしゅく)を過(す)ぎて南湖(なんご)の松並木(まつなみき)の中(なか)を行(い)く行列(ぎょうれつ)で、構図(こうず)は松(まつ)のかたちまで、初代広重(しょだいひろしげ)描(えが)く「竪絵東海道(たてえとうかいどう)」のものとほとんど同(おな)じです。

末廣五十三次 藤沢 南湖の松原

末廣(すえひろ)五十三次(ごじゅうさんつぎ) 藤沢(ふじさわ) 南湖(なんご)の松原(まつばら)



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