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江の島の歴史
江の島歴史年表
江の島散策マップ
江の島の文化財
江の島を訪れた人々
資料種類しりょうしゅるい(大分類だいぶんるい):
資料種類しりょうしゅるい(中分類ちゅうぶんるい):
資料種類しりょうしゅるい(小分類しょうぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(大分類だいぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(中分類ちゅうぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(小分類しょうぶんるい):
作者さくしゃ(50音分類おんぶんるい):
作者さくしゃ:
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製作(せいさく)時期(じき):嘉永(かえい)6年(ねん)(1853)。 板元: 丸蔦(はんもと まるつた) 歌川派(うたがわは)の多(おお)くの浮世絵師(うきよえし)が東海道(とうかいどう)五十三次(ごじゅうさんつぎ)シリーズを描(えが)いていますが、芳(よし)員(かず)が描(えが)いたこのシリーズは、各(かく)宿場(しゅくば)にまつわる伝説(でんせつ)や逸話(いつわ)を面白(おもしろ)おかしく紹介(しょうかい)しています。全般的(ぜんぱんてき)に横(よこ)小判(しょうばん)の絵(え)の中(なか)にはユーモラスな図柄(ずがら)が多(おお)いとも言(い)われます。
東海道五十三次(とうかいどうごじゅうさんつぎの)内(うち) 四日市(よっかいち)
製作(せいさく)時期(じき):嘉永(かえい)6年(ねん)(1853)。板元(はんもと):丸蔦(まるつた) 歌川派(うたがわは)の多(おお)くの浮世絵師(うきよえし)が東海道(とうかいどう)五十三次(ごじゅうさんつぎ)シリーズを描(えが)いていますが、芳(よし)員(かず)が描(えが)いたこのシリーズは、各(かく)宿場(しゅくば)にまつわる伝説(でんせつ)や逸話(いつわ)を面白(おもしろ)おかしく紹介(しょうかい)しています。全般的(ぜんぱんてき)に横(よこ)小判(しょうばん)の絵(え)の中(なか)にはユーモラスな図柄(ずがら)が多(おお)いとも言(い)われます。
東海道五十三次(とうかいどうごじゅうさんつぎの)内(うち) 白須賀(しらすか)
製作(せいさく)時期(じき):嘉永(かえい)6年(ろくねん)(1853)。板元(はんもと):丸蔦(まるつた) 吉田宿(よしだしゅく)は飯盛女(めしもりおんな)が非常(ひじょう)に多(おお)かったことでも知(し)られ、「吉田(よしだ)通(とお)れば二階(にかい)から招(まね)く、しかも鹿の子(かのこ)の振り袖(ふりそで)が」などの俗謡(ぞくよう)が広(ひろ)く知(し)られています。 歌川派(うたがわは)の多(おお)くの浮世絵師(うきよえし)が東海道(とうかいどう)五十三次(ごじゅうさんつぎ)シリーズを描(えが)いていますが、芳(よし)員(かず)が描(えが)いたこのシリーズは、各(かく)宿場(しゅくば)にまつわる伝説(でんせつ)や逸話(いつわ)を面白(おもしろ)おかしく紹介(しょうかい)しています。全般的(ぜんぱんてき)に横(よこ)小判(しょうばん)の絵(え)の中(なか)にはユーモラスな図柄(ずがら)が多(おお)いとも言(い)われます。
東海道五十三次(とうかいどうごじゅうさんつぎの)内(うち) 吉田(よしだ)
製作(せいさく)時期(じき):嘉永(かえい)6年(ろくねん)(1853)。 板元(はんもと):丸蔦(まるつた) 赤坂宿(あかさかしゅく)は、御油宿(ごゆしゅく)や吉田宿(よしだしゅく)とともに飯盛女(めしもりおんな)を多(おお)く抱(かか)えており、「御油(ごゆ)や赤坂(あかさか)、吉田(よしだ)がなけりゃ、なんのよしみで江戸(えど)通(がよ)い」と言(い)われた程(ほど)、活気(かっき)のある宿場町(しゅくばまち)でした。 歌川派(うたがわは)の多(おお)くの浮世絵師(うきよえし)が東海道(とうかいどう)五十三次(ごじゅうさんつぎ)シリーズを描(えが)いていますが、芳(よし)員(かず)が描(えが)いたこのシリーズは、各(かく)宿場(しゅくば)にまつわる伝説(でんせつ)や逸話(いつわ)を面白(おもしろ)おかしく紹介(しょうかい)しています。全般的(ぜんぱんてき)に横(よこ)小判(しょうばん)の絵(え)の中(なか)にはユーモラスな図柄(ずがら)が多(おお)いとも言(い)われます。
東海道五十三次(とうかいどうごじゅうさんつぎの)内(うち) 赤坂(あかさか)
製作時期(せいさくじき):不明(ふめい)。落款(らっかん)なし 泥絵(どろえ)とは、泥絵具(どろえのぐ)という粗悪(そあく)な顔料(がんりょう)に胡粉(ごふん)を混(ま)ぜた絵具(えのぐ)で描(えが)いたもので、宝暦頃(ほうれきごろ)を最初(さいしょ)として、19世紀前中頃(せいきぜんなかごろ)まで職人(しょくにん)画工(がこう)の手(て)で作(つく)られた遠近法(えんきんほう)を主体(しゅたい)とした洋風表現(ようふうひょうげん)の強(つよ)い絵(え)のことです。眼鏡絵(めがねえ)として制作(せいさく)されたものが多(おお)いので、銅版(どうはん)や木版(もくはん)で制作(せいさく)された作品(さくひん)以外(いがい)の肉筆眼鏡絵(にくひつめがねえ)を泥絵(どろえ)と称(しょう)する場合(ばあい)もあります。この絵(え)も左右(さゆう)逆影(ぎゃくえい)に描(えが)かれており、のぞき眼鏡用(めがねよう)に制作(せいさく)されたものであることがわかります。左右(さゆう)を逆(ぎゃく)に反転(はんてん)すると、初代(しょだい)広重(ひろしげ)の「狂歌入り東海道(きょうかいりとうかいどう)」に似(に)た構図(こうず)の作品(さくひん)であることが分(わ)かります。「別(べつ)の画像(がぞう)を見(み)ます」で反転画像(はんてんがぞう)をご覧(らん)ください。
題名(だいめい)不詳(ふしょう)(藤沢宿(ふじさわしゅく)風景(ふうけい))
上下(じょうげ)2巻(かん)。江の島(えのしま)の出現(しゅつげん)(湧(わ)き出(だ)し)(訳注(やくちゅう):海(うみ)から島(しま)が湧(わ)き出(だ)したという伝説(でんせつ)をさしています)から島内(とうない)のさまざまな特徴(とくちょう)(雑記(ざっき))や、役行者(えんのぎょうじゃ)(訳注(やくちゅう):日本(にほん)で有名(ゆうめい)な呪術者(じゅじゅつしゃ))を始(はじ)めとする修行者(しゅぎょうしゃ)や江の島(えのしま)に係(かか)わりのある人々(ひとびと)の伝記(でんき)や言い伝(いいつた)えなどをまとめた書物(しょもつ)です。 江の島(えのしま)と富士山(ふじさん)がつながっているという伝説(でんせつ)がありますが、本書(ほんしょ)の「雑記(ざっき)」中(ちゅう)に「仁田抜穴(にったのぬけあな)」の記述(きじゅつ)があります。「山(やま)二(ふた)つより南(みなみ)の石壁(いしかべ)に昔(むかし)は穴(あな)の形(かたち)ち有(あり)しとなり、今(いま)はなし。伝(つた)う、仁田忠常(にったのただつね)、富士(ふじ)の人穴(ひとあな)より入(いり)て此(こ)の山(やま)の半(はん)腹(ぷく)へ抜(ぬ)け出(で)たりと云(い)う」穴(あな)の場所(ばしょ)は、地図(ちず)にも示(しめ)されています。
江島(えのしま)大艸(おおそう)紙(し)
沢(さわ)村屋(むらや)清吉(せいきち)版(ばん) 明治(めいじ)4年(ねん)(1871年(ねん)) 日本橋(にほんばし)を振(ふ)り出(だ)し、西京(さいきょう)を上(あ)がりとしています。京都(きょうと)は明治維新(めいじいしん)後(ご)、江戸(えど)が東京(とうきょう)と称(しょう)されるようになると、西京(さいきょう)と呼(よ)ばれるようになりました。 この双六(すごろく)の各(かく)マスは、主(おも)に初代(しょだい)歌川広重(うたがわひろしげ)「保永堂版(ほえいどうばん)五十三次(ごじゅうさんつぎ)」に描(えが)かれた情景(じょうけい)をもとに作画(さくが)されたものです(蒲原宿(かんばらしゅく)を雪景色(ゆきげしき)に描(えが)くなど)。 幕末(ばくまつ)から開化(かいか)期(き)にかけて最(もっと)も活躍(かつやく)した絵師(えし)の一人(ひとり)である歌川芳虎(うたがわよしとら)の画(え)にしては稚拙(ちせつ)な筆(ふで)が気(き)になりますが、藤沢(ふじさわ)の図(ず)には「江(え)のしま道(みち)」、平塚(ひらつか)の図(ず)には「馬入川(ばにゅうがわ)」と添(そ)え書(が)きがあります。
東海道中(とうかいどうちゅう)名物(めいぶつ)寿古録(すごろく)
デッサンスケール線(せん)の上(うえ)に江の島風景(えのしまふうけい)が描(えが)かれています。明治(めいじ)になり、西洋文化(せいようぶんか)を取(と)り入(い)れる中(なか)、奥行(おくゆ)きを正確(せいかく)に捉(とら)える遠近法(えんきんほう)や一点透視図法(いってんとうしずほう)、さらには黄金分割(おうごんぶんかつ)などの絵画(かいが)技法(ぎほう)を日本(にっぽん)でも取(と)り入(い)れるようになったことを物語(ものがた)っています。また明治(めいじ)22年(ねん)(1889)には東京美術学校(とうきょうびじゅつがっこう)(現(げん)・東京藝術大学(とうきょうげいじゅつだいがく))が開校(かいこう)し、西洋絵画(せいようかいが)の研究(けんきゅう)が急速(きゅうそく)に進(すす)められました。
相州(そうしゅう)江(え)之(の)嶋(しまの)之(の)真景(しんけい)