Fujisawa Net Museum

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山口屋藤兵衛(やまぐちやとうべえ)(ばん) 弘化(こうか)年間(ねんかん)(1844-1848(ねん)
四季(しき)行事(ぎょうじ)風物(ふうぶつ)主題(しゅだい)とした双六(すごろく)です。()()しで、1を()れば恵方参(えほうまいり)、2を()れば福引(ふくび)き、3を()れば(はつ)()正月(しょうがつ)(はつ)()()神社(じんじゃ)(もう)で)、4を()れば梅見(うめみ)、5を()れば初午(はつうま)2月(にがつ)最初(さいしょ)(うま)()稲荷社(いなりしゃ)(まつり))、6を()れば隅田川(すみだがわ)行楽(こうらく))にはじまり、節分(せつぶん)(しお)()潮干狩(しおひが)り)、(とし)(とし))の()山王祭(さんのうまつり)吉原(よしわら)などの行事(ぎょうじ)風物(ふうぶつ)()て、初春(しょしゅん)()がりとなっています。行楽(こうらく)()(ひと)つとして「()(しま)」もあり、このマスからは、1で「かつを(初鰹(はつがつお))」、2で「すずみ((りょう)(ふね))」、3で「(やま)(やま)(まい)り(大山(おおやま)(もう)で)」、4で「とうち(温泉(おんせん)(とうじ))」、6で「月見(つきみ)」へとなっています。

四季(しき)のたのしみ双六(すごろく)

横山良八(よこやまりょうはち)(ばん) 明治(めいじ)初期(しょき)
()()しが西京(さいきょう)(京都(きょうと))、()がりは東京(とうきょう)日本橋(にほんばし)です。題材(だいざい)江戸時代(えどじだい)そのまま、十返舎(じっぺんしゃ)一九(いっく)東海道中膝栗毛(とうかいどうちゅうひざくりげ)』に(えが)かれた滑稽(こっけい)()人組(にんぐみ)道中(どうちゅう)ですが、こうもり(がさ)やガス(とう)日本橋(にほんばし)馬車(ばしゃ)など随所(ずいしょ)文明開化(ぶんめいかいか)影響(えいきょう)(うかが)えます。
制作(せいさく)年代(ねんだい)不明(ふめい)ですが、汽車(きしゃ)()られるのが品川(しながわ)だけなので、新橋(しんばし)横浜駅(よこはまえき)(かん)正式(せいしき)鉄道(てつどう)開通(かいつう)する明治(めいじ)5(ねん) (1972(ねん))直前(ちょくぜん)のものと(かんが)えられます。
()(ちゅう)府中(ふちゅう)静岡(しずおか)地名(ちめい)()わっていますが、明治(めいじ)になり徳川宗家(とくがわそうけ)ゆかりの()であるがゆえに新政府(しんせいふ)恭順(きょうじゅん)()(しめ)すため、市内(しない)賤機山(しずはたやま)にちなみ静岡(しずおか)改称(かいしょう)したものです。
国政(くにまさ)((よん)(だい))は、幕末(ばくまつ)明治(めいじ)活躍(かつやく)した絵師(えし)で、明治(めいじ)22(ねん)(1889(ねん))に三代(さんだい)国貞(くにさだ)()いでいます。

どおけ東海道五十三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ)双六(すごろく)

園原屋正助(そのはらやしょうすけ)(ばん) 文久(ぶんきゅう)2(ねん)(1862(ねん)
 日本橋(にほんばし)()()し、京都(きょうと)()がりとする道中双六(どうちゅうすごろく)保土ヶ谷(ほどがや)戸塚(とつか)(かん)からの金沢道(かなざわみち)や、()()からの大山道(おおやまみち)富士川(ふじかわ)(さき)身延(みのぶ)(みち)掛川(かけがわ)からの秋葉(あきは)(みち)など、(おお)くの脇道(わきみち)()()まれています。
 金沢道(かなざわみち)は、のうけんどう(能見堂(のうけんどう))・金沢(かなざわ)(八景(はっけい))・明神(みょうじん)(瀬戸神社(せとじんじゃ))・光明寺(こうみょうじ)鶴ヶ岡(つるがおか)大仏(だいぶつ)由井ヶ浜(ゆいがはま)七里ヶ浜(しちりがはま)江乃島(えのしま)藤沢(ふじさわ)(つづ)き、()()のマスからの大山道(おおやまみち)は、まへふとう(前不動(まえふどう))・大山(おおやま)石尊(せきそん)大権現(だいごんげん)から道了宮(どうりょうぐう) (道了尊(どうりょうそん)大雄山最乗寺(だいゆうざんさいじょうじ))を()小田原(おだわら)(いた)(みち)(しる)されています。

当年(とうねん)新板(しんばん)東海道(とうかいどう)名所(めいしょ)案内(あんない)双陸(すごろく)

慶応(けいおう)元年(がんねん)(1865(ねん)
末広(すえひろ)(扇子(せんす))をマスに見立(みた)てた五十三次(ごじゅうさんつぎ)道中双六(どうちゅうすごろく)です。右下(みぎした)()()し・日本橋(にほんばし)の「東雲(しののめ)(けい)」から(はじ)まって、すべて行列(ぎょうれつ)(えが)きこまれていますが、中央(ちゅうおう)()がりの(きょう)では、公家(くげ)装束(しょうぞく)人物(じんぶつ)三方(さんぽう)()せたお墨付(すみつ)き((ぶん))をかしこまる武士(ぶし)(あた)えている()で、徳川将軍(とくがわしょうぐん)家茂(いえもち)上洛(じょうらく)参内(さんだい)(宮中(きゅうちゅう)への参上(さんじょう))の()であることをほのめかしています。
藤沢宿(ふじさわしゅく)には、名所(めいしょ)であった「南湖(なんご)のまつ(はら)」が(えが)かれています。南湖(なんこ)現在(げんざい)茅ヶ崎(ちがさき)市域(しいき)になりますが、当時(とうじ)藤沢宿(ふじさわしゅく)延長(えんちょう)としてとらえられ、浮世絵(うきよえ)などには藤沢宿(ふじさわしゅく)風景(ふうけい)定番(ていばん)のひとつでした。

東海道(とうかいどう)末広(すえひろ)五十三次(ごじゅうさんつぎ)名所(めいしょ)双六(すごろく)

作者(さくしゃ)制作(せいさく)年代(ねんだい)不詳(ふしょう)
 表題(ひょうだい)表紙(ひょうし)墨書(ぼくしょ)されている名称(めいしょう)で、行幸(ぎょうこう)(天皇(てんのう)上皇(じょうこう)外出(がいしゅつ)のこと)を()し、外出(がいしゅつ)(さい)し、たどるであろう道筋(みちすじ)仮定(かてい)したものと(おも)われます。東海道(とうかいどう)題材(だいざい)にしていますが、単色(たんしょく)()りで(ふる)形態(けいたい)のものと(おも)われ、京都(きょうと)から(さき)大坂(おおさか)までの京街道(きょうかいどう)宿々(しゅくじゅく)宿(しゅく)(あいだ)観光(かんこう)スポットも(ふく)んだ、100を()えるマス(地名(ちめい))が記載(きさい)されています。
「ふりはじめ」(()()し)は大坂(おおさか)で、草津宿(くさつしゅく)から東海道(とうかいどう)中山道(なかせんどう)()かれ、途中(とちゅう)伊勢(いせ)()(しま)鎌倉(かまくら)などの観光(かんこう)スポットを回遊(かいゆう)しながら江戸(えど)(いた)るものです。
サイコロは通常(つうじょう)の1~6の()ではなく、()(じゅう)(さん)・つ・き・■の(ろく)(めん)(もち)いていていたようで、
() やく((やく))あるは、しるし(あり)
   (しるし)なきは、かず((かず))の通行(つうこう)
(じゅう) (みぎ)同断(どうだん)
(さん) (みぎ)同断(どうだん)
つ やく(あり)は、しるしあり
   (しるし)なきは、(ひと)(いく)
き やく(あり)は、(しるし)あり
   (しるし)なきは、(ふた)(いく)
■ (この)(この)()にても、一度(いちど)ツヽ
   やすみ((やす)み)
()(ちゅう)解説(かいせつ)があります。
藤沢宿(ふじさわしゅく)からは砂州(さす)をかたどった(みち)が「()のしま」に()び、さらに、(おお)ほとけ(大仏(だいぶつ))、ゆきの(した)(雪ノ下(ゆきのした))、ゆいがはま(由比ヶ浜(ゆいがはま))、かまくら(鎌倉(かまくら))、つるがおか(鶴岡(つるがおか))、くわうめうじ(光明寺(こうみょうじ))、かなさは(金沢(かなざわ))、よくみ(やま)(能見台(のうけんだい))を()神奈川宿(かながわしゅく)(いた)るルートが(しる)されています。

みゆ()双六(すごろく)

本図(ほんず)大阪(おおさか)発行(はっこう)された双六(すごろく)です。()()しのコマには「西京(さいきょう)」と()いてあり、(きょう)から日本橋(にほんばし)目指(めざ)して(すす)みます。
こまの()には洋装(ようそう)人々(ひとびと)汽車(きしゃ)など近代(きんだい)(てき)題材(だいざい)(おお)()()げられていますが、(かく)宿場(しゅくば)名所(めいしょ)名物(めいぶつ)など江戸時代(えどじだい)からの主題(しゅだい)(えが)かれています。日坂(にっさか)のコマのように両方(りょうほう)要素(ようそ)()(そな)えた描写(びょうしゃ)のこまもあります。日坂(にっさか)のこまには江戸時代(えどじだい)東海道五十三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ)でもよく(えが)かれた街道(かいどう)名物(めいぶつ)夜泣(よな)(いし)」が(えが)かれています。夜泣(よな)(いし)見物(けんぶつ)している男性(だんせい)(ふた)()洋装(ようそう)で、江戸時代(えどじだい)画題(がだい)踏襲(とうしゅう)しながらも近代(きんだい)(てき)(えが)かれています。
()がりのこまにはそろいの着物(きもの)()七福神(しちふくじん)小判(こばん)()(なか)(おど)っている様子(ようす)(えが)いています。まるでゴールを(いわ)ってくれているようです。

東海道五拾三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ)()()



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