ふりがな
江の島の歴史
江の島歴史年表
江の島散策マップ
江の島の文化財
江の島を訪れた人々
資料種類しりょうしゅるい(大分類だいぶんるい):
資料種類しりょうしゅるい(中分類ちゅうぶんるい):
資料種類しりょうしゅるい(小分類しょうぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(大分類だいぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(中分類ちゅうぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(小分類しょうぶんるい):
作者さくしゃ(50音分類おんぶんるい):
作者さくしゃ:
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狂歌(きょうか):おもひ立(たつ) さい先(さき)よしと いそ五十路(いそじ) こえてみやこを けふ三(み)つの空(そら)(紅翠亭郡子) このシリーズは京(きょう)が2図(ず)描(えが)かれています。この図(ず)では内裏(だいり)の南面(なんめん)正門(せいもん)である建(けん)礼門(れいもん)が描(えが)かれています。その手前(てまえ)を、束帯(そくたい)姿(すがた)の男性(だんせい)に日傘(ひがさ)を差(さ)し出(だ)す裃(かみしも)姿(すがた)の男性(だんせい)や、絹(きぬ)被(か)衣(つぎ)の公家(くげ)の子女(しじょ)など、様々(さまざま)な身分(みぶん)の人々(ひとびと)が往来(おうらい)しています。
東海道五拾三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ) 京(きょう) 内裏(だいり)(狂歌(きょうか)入(い)り東海道(とうかいどう))
坂之下(さかのした)宿(しゅく/rt>)から土山宿(つちやましゅく)に向(む)かう道(みち)は、鈴鹿峠(すずかとうげ)(すずかとうげ)を通(とお)るため、峻厳(しゅんげん)な岩山(いわやま)が描(えが)かれます。この画(え)では、女性(じょせい)二人(ふたり)が鈴鹿峠(すずかとうげ)の絶景(ぜっけい)を楽(たの)しんでいます。
東海道五十三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ) 坂(さか)の下(した)
江戸時代(えどじだい)の四季(しき)の行事(ぎょうじ)や風物(ふうぶつ)を主題(しゅだい)とした双六(すごろく)で、サイコロの目(め)によって様々(さまざま)なコマへ飛(と)び移(うつ)る「飛(と)び双六(すごろく)」です。画面(がめん)下(した)の振(ふ)り出(だ)しで、サイコロを振(ふ)り、1は恵方参(えほうまいり)、2は福引(ふくびき)、3は初(はつ)卯(う)(正月(しょうがつ)最初(さいしょ)の卯(う)の日(ひ)の神社(じんじゃ)詣(もうで))、4は梅見(うめみ)、5は初午(はつうま)(二月(にがつ)最初(さいしょ)の午(うま)の日(ひ)の稲荷社(いなりしゃ)の祭(まつり))、6は隅田川(すみだがわ)(行楽(こうらく))に進(すす)み、最後(さいご)に画面(がめん)上(じょう)の「初春(しょしゅん)」まで行(い)けば、あがりとなります。 振(ふ)り出(だ)しの左上(ひだりうえ)には「江(え)の嶋(しま)」のコマがあり、女性(じょせい)たちが初夏(しょか)の頃(ころ)に江の島(えのしま)へ向(む)かう様子(ようす)が描(えが)かれています。江の島(えのしま)詣(もうで)が江戸時代(えどじだい)の四季(しき)の風物(ふうぶつ)の一(ひと)つとして浸透(しんとう)していたことが分(わ)かる資料(しりょう)となっています。
四季(しき)楽(たの)しみ双六(すごろく)
1935頃(ごろ)の藤沢(ふじさわ)・伊勢山(いせやま)(いせやま)の分譲(ぶんじょう)地(ち)広告(こうこく)。左下(ひだりした)の橋(はし)は藤沢本町(ふじさわほんまち)の小田急線(おだきゅうせん)に架(か)かる東海道(とうかいどう)の伊勢山(いせやま)橋(ばし)です。図(ず)は、国鉄(こくてつ)線(せん)(JR東海道線(とうかいどうせん))、小田急線(おだきゅうせん)、国道(こくどう)等(とう)を描(えが)き、緑(みどり)豊(ゆた)かで交通(こうつう)至便(しべん)な土地(とち)であることを示(しめ)しています
藤沢(ふじさわ)湘(しょう)南荘(なんそう)分譲(ぶんじょう)地(ち)
藤沢(ふじさわ)バスの「沿線(えんせん)案内(あんない)」。こちらも観光(かんこう)と結(むす)びついて、広範囲(こうはんい)の交通網(こうつうもう)が見(み)られます。タイトルの左(ひだり)にある「新進(しんしん)」は理研(りけん)(合成(ごうせい))清酒(せいしゅ)の銘柄(めいがら)で、城南(じょうなん)の大和(やまと)醸造(じょうぞう)(現(げん)メルシャン)で醸造(じょうぞう)していました。
藤沢(ふじさわ)バス「沿線(えんせん)案内(あんない)」
昭和(しょうわ) 16 年(ねん)(1941年))当時(とうじ)の「小田急(おだきゅう)沿線(えんせん)図(ず)」。赤(あか)く太(ふと)い線(せん)が小田急江ノ島線(おだきゅうえのしません)。新長(しんちょう)後(ご)は現在(げんざい)の長後駅(ちょうごえき)のことです。「海水浴場(かいすいよくじょう)」を示(しめ)す旗(はた)のサインが目立(めだ)ち、海水浴(かいすいよく)ブームへの期待(きたい)が窺(うかが)えます。
小田急電鉄(おだきゅうでんてつ)「沿線(えんせん)案内(あんない)」
明治時代(めいじじだい)(1868-1912)に撮影(さつえい)された海外向(かいがいむ)けのお土産(みやげ)であった通称(つうしょう)「横浜(よこはま)写真(しゃしん)」の1枚(まい)で、東海道(とうかいどう)の戸塚(とつか)を行(い)く人力車(じんりきしゃ)の姿(すがた)が写(うつ)されています。 江戸時代(えどじだい)の街道(かいどう)では輸送手段(ゆそうしゅだん)としての車輪(しゃりん)の使用(しよう)を制限(せいげん)されていましたが、明治(めいじ)になると緩和(かんわ)され、駕籠(かご)より速(はや)く、馬(うま)に乗(の)るよりも安(やす)かったため人気(にんき)の交通手段(こうつうしゅだん)になり、文明開化(ぶんめいかいか)の象徴(しょうちょう)的(てき)な存在(そんざい)でもありました。
横浜(よこはま)写真(しゃしん)「TOTSUKA TOKAIDO」
江の島(えのしま)を背景(はいけい)に、砂浜(すなはま)に2台(だい)の人力車(じんりきしゃ)が映(うつ)っています。鉄道(てつどう)がひかれるようになると、江の島(えのしま)参詣(さんけい)は藤沢駅(ふじさわえき)から江(え)の島道(しまみち)を徒歩(とほ)で南下(なんか)するルートが中心(ちゅうしん)になりましたが、遊覧(ゆうらん)のために料金(りょうきん)を払(はら)って人力車(じんりきしゃ)を利用(りよう)する人(ひと)もいたようです。
横浜(よこはま)写真(しゃしん)「題名(だいめい)不詳(ふしょう)(江(え)の島(しま)と人力車(じんりきしゃ))」