ふりがな
江の島の歴史
江の島歴史年表
江の島散策マップ
江の島の文化財
江の島を訪れた人々
資料種類しりょうしゅるい(大分類だいぶんるい):
資料種類しりょうしゅるい(中分類ちゅうぶんるい):
資料種類しりょうしゅるい(小分類しょうぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(大分類だいぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(中分類ちゅうぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(小分類しょうぶんるい):
作者さくしゃ(50音分類おんぶんるい):
作者さくしゃ:
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昭和(しょうわ) 16 年(ねん)(1941年))当時(とうじ)の「小田急(おだきゅう)沿線(えんせん)図(ず)」。赤(あか)く太(ふと)い線(せん)が小田急江ノ島線(おだきゅうえのしません)。新長(しんちょう)後(ご)は現在(げんざい)の長後駅(ちょうごえき)のことです。「海水浴場(かいすいよくじょう)」を示(しめ)す旗(はた)のサインが目立(めだ)ち、海水浴(かいすいよく)ブームへの期待(きたい)が窺(うかが)えます。
小田急電鉄(おだきゅうでんてつ)「沿線(えんせん)案内(あんない)」
明治時代(めいじじだい)(1868-1912)に撮影(さつえい)された海外向(かいがいむ)けのお土産(みやげ)であった通称(つうしょう)「横浜(よこはま)写真(しゃしん)」の1枚(まい)で、東海道(とうかいどう)の戸塚(とつか)を行(い)く人力車(じんりきしゃ)の姿(すがた)が写(うつ)されています。 江戸時代(えどじだい)の街道(かいどう)では輸送手段(ゆそうしゅだん)としての車輪(しゃりん)の使用(しよう)を制限(せいげん)されていましたが、明治(めいじ)になると緩和(かんわ)され、駕籠(かご)より速(はや)く、馬(うま)に乗(の)るよりも安(やす)かったため人気(にんき)の交通手段(こうつうしゅだん)になり、文明開化(ぶんめいかいか)の象徴(しょうちょう)的(てき)な存在(そんざい)でもありました。
横浜(よこはま)写真(しゃしん)「TOTSUKA TOKAIDO」
江の島(えのしま)を背景(はいけい)に、砂浜(すなはま)に2台(だい)の人力車(じんりきしゃ)が映(うつ)っています。鉄道(てつどう)がひかれるようになると、江の島(えのしま)参詣(さんけい)は藤沢駅(ふじさわえき)から江(え)の島道(しまみち)を徒歩(とほ)で南下(なんか)するルートが中心(ちゅうしん)になりましたが、遊覧(ゆうらん)のために料金(りょうきん)を払(はら)って人力車(じんりきしゃ)を利用(りよう)する人(ひと)もいたようです。
横浜(よこはま)写真(しゃしん)「題名(だいめい)不詳(ふしょう)(江(え)の島(しま)と人力車(じんりきしゃ))」
北窪(きたくぼ)遺跡(いせき)は境川(さかいがわ)右岸(うがん)、小田急江ノ島線(おだきゅうえのしません)の六会日大前駅(むつあいにちだいまええき)から南西(なんせい)1.3kmに所在(しょざい)します。2000年(ねん)(平成(へいせい)12年(ねん))に発掘調査(はっくつちょうさ)がおこなわれ、旧石器時代(きゅうせっきじだい)の文化(ぶんか)層(そう)や縄文時代(じょうもんじだい)早期(そうき)から中期(ちゅうき)の竪穴(たてあな)建物(たてもの)、土器(どき)がみつかりました。特(とく)に縄文時代(じょうもんじだい)前期(ぜんき)と考(かんが)えられる土壙(どこう)はお墓(はか)と考(かんが)えられ、人骨(じんこつ)こそみつかりませんでしたが、頭部(とうぶ)が置(お)かれたと思(おも)われる場所(ばしょ)からは石(せき)製(せい)の耳飾(みみかざ)りや浅(あさ)鉢(はち)が出土(しゅつど)しています。
北窪(きたくぼ)遺跡(いせき)
宮原(みやはら)百石原(ひゃっこくばら)遺跡(いせき)は目久尻川(めくじりがわ)右岸(うがん)、小田急江ノ島線(おだきゅうえのしません)の長後駅(ちょうごえき)から西方(せいほう)約(やく)6.3kmに所在(しょざい)します。これまでの発掘調査(はっくつちょうさ)で奈良時代(ならじだい)、平安時代(へいあんじだい)の竪穴(たてあな)建物(たてもの)や土師器(はじき)、須恵器(すえき)などが確認(かくにん)されています。本(ほん)遺跡(いせき)の南(みなみ)には同(どう)時期(じき)の集落(しゅうらく)が確認(かくにん)されている寒川町(さむかわまち)No. 16遺跡(いせき)が所在(しょざい)しており、同一(どういつ)の集落(しゅうらく)であった可能性(かのうせい)が考(かんが)えられています。
宮原(みやはら)百石原(ひゃっこくばら)遺跡(いせき)
東京(とうきょう)・辻(つじ)岡屋(おかや)亀吉(かめきち)版(ばん) 明治(めいじ)3年(ねん)(1870年(ねん)) 明治(めいじ)になると、首都(しゅと)が東京(とうきょう)に移(うつ)ったため、双六(すごろく)も東京(とうきょう)行(い)きが「上(あ)がり」となりますが、この双六(すごろく)では、まだ東京(とうきょう)日本橋(にほんばし)を振(ふ)り出(だ)し、西京(さいきょう)(京都(きょうと))を上(あ)がりとしています。 日本橋(にほんばし)の馬車(ばしゃ)が文明開化(ぶんめいかいか)をイメージさせますが、それ以外(いがい)のマスはほとんど江戸時代(えどじだい)の情景(じょうけい)と変(か)わりありません。各(かく)宿(やど)の名所(めいしょ)・名物(めいぶつ)を中心(ちゅうしん)に描(えが)き、ところどころに大(だい)ヒットした十返舎(じっぺんしゃ)一九(いっく)『東海道中膝栗毛(とうかいどうちゅうひざくりげ)』の情景(じょうけい)が挿入(そうにゅう)されています。 藤沢宿(ふじさわしゅく)のマスは名(な)に掛(か)けてか「富士山(ふじさん)」。ひとつ前(まえ)の戸塚(とつか)は、焼餅(やきもち)坂(ざか)の名(な)の由来(ゆらい)となった「焼(や)き餅(もち)」の図(ず)です。 また、明治(めいじ)になると、浮世絵(うきよえ)双六(すごろく)の色彩(しきさい)が江戸(えど)期(き)のものと変(か)わってきます。特(とく)にドギツイ赤色(あかいろ)や紫色(むらさきいろ)は特徴(とくちょう)的(てき)ですが、これは幕末(ばくまつ)から輸入(ゆにゅう)されるようになったアニリン赤(あか)(洋紅(ようこう))や紫(むらさき)ムラコといわれるもので、明治(めいじ)の人々(ひとびと)にとって、これらの鮮(あざ)やかな色彩(しきさい)は文明開化(ぶんめいかいか)の色(いろ)であったのでしょう。
東海道中(とうかいどうちゅう)名処(めいしょ)名物(めいぶつ)滑稽(こっけい)双六(すごろく)
井上茂兵衛(いのうえもへえ)版(ばん) 明治(めいじ)初期(しょき) この双六(すごろく)は、江戸(えど)後期(こうき)に渓斎英泉(けいさいえいせん)画(が)・佐野屋喜兵衛(さのやきへえ)版(ばん)の同(どう)版図(はんと)があり、明治(めいじ)になってから井上茂兵衛(いのうえもへえ)が再版(さいはん)発行(はっこう)したものです。英泉(えいせん)と佐野屋喜兵衛(さのやきへえ)のコンビといえば美人画(びじんが)のシリーズなどで有名(ゆうめい)ですが、この双六(すごろく)も画(が)中(ちゅう)の人物(じんぶつ)などが丁寧(ていねい)に描(えが)かれていて人気(にんき)の高(たか)かったものだったのでしょう。新鐫(しんせん)とは、新版(しんぱん)のことです。 各(かく)マスの絵(え)の上(うえ)に、道中(どうちゅう)記(き)(旅行(りょこう)案内(あんない)書(しょ))に記(しる)されているような各地(かくち)の名所(めいしょ)等(とう)が記載(きさい)され、藤沢(ふじさわ)では、大山(おおやま)参(まい)りの人々(ひとびと)(揃(そろ)いの笠(かさ)をかぶり、木太刀(きだち)や御神酒(おみき)枠(わく)をかついでいる)の絵(え)の上(うえ)に、「左(ひだり)り江(え)のしま道(どう)」「右(みぎ) 大山(おおやま)石(いし)尊(みこと)みち」「ゆぎやう(遊行(ゆぎょう))寺(てら) おぐりはんくわん(小栗判官(おぐりはんがん))の古(こ)せき(跡(あと))」「十人(じゅうにん)のせきひ(石碑(せきひ))あり」、平塚宿(ひらつかしゅく)との間(ま)には「ばにう(馬入(ばにゅう))川(かわ) 船(ふな)わたし(渡(わた)し)」と記(しる)されています。
東海道(とうかいどう)五十三(ごじゅうさん)駅(えき)名所(めいしょ)旧跡行程記(きゅうせきこうていき)新鐫道中(しんせんどうちゅう)双六(すごろく)
丸屋久四郎(まるやきゅうしろう)版(ばん) 制作(せいさく)年代(ねんだい)不詳(ふしょう) 「い」-池(いけ)がみ(本門寺(ほんもんじ))、「ろ」-六(ろく)あみだ(阿弥陀(あみだ))、「は」-白山権現(はくさんごんげん)というように、いろはで始(はじ)まる寺社(じしゃ)仏閣(ぶっかく)の名所(めいしょ)を詠(よ)み込(こ)んだ絵(え)双六(すごろく)で、「え」は江(え)の島(しま)が描(えが)かれています。画(え)の中央(ちゅうおう)、上下(じょうげ)には歌舞伎(かぶき)『楼門五三桐(さんもんごさんのきり)』の「南禅寺(なんぜんじ)山門(さんもん)の場(ば)」の石川五右衛門(いしかわごえもん)(上(うえ))と、真柴(ましば)久吉(ひさよし)(実(じつ)は豊臣秀吉(とよとみひでよし))が描(えが)かれています。
いろは譬(たとえ)神仏(しんぶつ)名所(めいしょ)寿語六(すごろく)