Fujisawa Net Museum

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製作時期(せいさくじき):慶応元年(けいおうがんねん)(1865)。
板元(はんもと)(しるし)なし

右手(みぎて)駿河湾(するがわん)(ひろ)がる、悠々(ゆうゆう)とした景色(けしき)(えが)かれています。
題字(だいじ)に「(しお)はま」とあることから、小屋(こや)から()(のぼ)(けむり)(しお)づくりによるものと(おも)われ、手前(てまえ)(うま)はそのための(たきぎ)(はこ)んでいる様子(ようす)です。

本作(ほんさく)落款(らっかん)は「立祥(りゅうしょう)()」となっており、この立祥(りゅうしょう)二代歌川広重(にだいうたがわひろしげ)です。初代広重(しょだいひろしげ)没後(ぼつご)安政(あんせい)6(ねん)(1859)、弟子(でし)であった重宜(しげのぶ)広重(ひろしげ)()()ぎ、二代広重(にだいひろしげ)となります。その()師風(しふう)()()いだ作品(さくひん)()がけますが、慶応元年(けいおうがんねん)(1865)になると広重(ひろしげ)()(あらた)め、立祥(りゅうしょう)(ごう)するようになります。この「東海道五十三駅(とうかいどうごじゅうさんえき)」のシリーズは、その改名(かいめい)(とし)刊行(かんこう)された作品(さくひん)で、56枚揃(まいそろ)いの作品(さくひん)となっています。

二代広重(にだいひろしげ)初代広重(しょだいひろしげ)長女(ちょうじょ)との結婚以前(けっこんいぜん)重宣時代(しげのぶじだい)二代広重(にだいひろしげ)時代(じだい)離婚後(りこんご)横浜(よこはま)()んでからの立祥時代(りゅうしょうじだい)(慶応元年(けいおうがんねん)明治二年(めいじにねん))のそれぞれの画銘(がめい)(とき)数点(すうてん)東海道(とうかいどう)シリーズを(のこ)しています。

東海道五拾三駅 興津 汐はま

東海道(とうかいどう)五拾(ごじゅう)(さん)(えき) 興津(おきつ) (しお)はま

製作時期(せいさくじき):慶応元年(けいおうがんねん)(1865)。
板元(はんもと)(しるし)なし

(だい)にある「さつたとうげ」は薩埵峠(さったとうげ)で 、由井宿(ゆいしゅく)興津宿(おきつしゅく)(あいだ)にあった(とうげ)です。
()では(しお)()いており、(した)浜辺(はまべ)(ある)いている(ひと)がみられます。()(しお)になると砂浜(すなはま)(とお)ることが困難(こんなん)になるため、(とうげ)()えるルートも用意(ようい)されていました。
薩埵峠(さったとうげ)山道(さんどう)から()富士(ふじ)絶景(ぜっけい)であったと()われています。

本作(ほんさく)落款(らっかん)は「立祥画(りゅうしょうが)」となっており、この立祥(りゅうしょう)二代歌川広重(にだいうたがわひろしげ)です。初代広重(しょだいひろしげ)没後(ぼつご)安政(あんせい)6(ねん)(1859)、弟子(でし)であった重宜(しげのぶ)広重(ひろしげ)()()ぎ、二代広重(にだいひろしげ)となります。その()師風(しふう)()()いだ作品(さくひん)()がけますが、慶応元年(けいおうがんねん)(1865)になると広重(ひろしげ)()(あらた)め、立祥(りゅうしょう)(ごう)するようになります。この「東海道五十三駅(とうかいどうごじゅうさんえき)」のシリーズは、その改名(かいめい)(とし)刊行(かんこう)された作品(さくひん)で、56枚揃(まいぞろ)いの作品(さくひん)となっています。

二代広重(にだいひろしげ)初代広重(しょだいひろしげ)長女(ちょうじょ)との結婚以前(けっこんいぜん)重宣時代(しげのぶじだい)二代広重(にだいひろしげ)時代(じだい)離婚後(りこんご)横浜(よこはま)()んでからの立祥時代(りゅうしょうじだい)(慶応元年(けいおうがんねん)明治二年(めいじにねん))のそれぞれの画銘(がめい)(とき)数点(すうてん)東海道(とうかいどう)シリーズを(のこ)しています。

東海道五拾三駅 由井 さつたとうげ

東海道(とうかいどう)五拾(ごじゅう)(さん)(えき) 由井(ゆい) さつたとうげ

製作時期(せいさくじき):慶応元年(けいおうがんねん)(1865)。
板元(はんもと)(しるし)なし

(だい)にある「(いわ)ぶち」は吉原(よしはら)蒲原(かんばら)(あい)宿(しゅく)宿場(しゅくば)宿場(しゅくば)(あいだ)にある休憩場所(きゅうけいばしょ))です。
常盤家(ときわけの)小休本陣(こやすみほんじん)(あいだ)宿(しゅく)にある休憩施設(きゅうけいしせつ))などがあり、現在(げんざい)岩淵(いわぶち)地名(ちめい)(のこ)しています。画面右(がめんみぎ)(なが)れるのは富士川(ふじがわ)で、舟渡(ふなわたし)様子(ようす)(えが)かれています。

本作(ほんさく)落款(らっかん)は「立祥画(りゅうしょうが)」となっており、この立祥(りゅうしょう)二代歌川広重(にだいうたがわひろしげ)です。初代広重(しょだいひろしげ)没後(ぼつご)安政(あんせい)6(ねん)(1859)、弟子(でし)であった重宜(しげのぶ)広重(ひろしげ)()()ぎ、二代広重(にだいひろしげ)となります。その()師風(しふう)()()いだ作品(さくひん)()がけますが、慶応元年(けいおうがんねん)(1865)になると広重(ひろしげ)()(あらた)め、立祥(りゅうしょう)(ごう)するようになります。この「東海道五十三駅(とうかいどうごじゅうさんえき)」のシリーズは、その改名(かいめい)(とし)刊行(かんこう)された作品(さくひん)で、56枚揃(ごじゅうろくまいぞろ)いの作品(さくひん)となっています。

二代広重(にだいひろしげ)初代広重(しょだいひろしげ)長女(ちょうじょ)との結婚以前(けっこんいぜん)重宣時代(しげのぶじだい)二代広重(にだいひろしげ)時代(じだい)離婚後(りこんご)横浜(よこはま)()んでからの立祥時代(りゅうしょうじだい)(慶応元年(けいおうがんねん)明治二年(めいじにねん))のそれぞれの画銘(がめい)(とき)数点(すうてん)東海道(とうかいどう)シリーズを(のこ)しています。

東海道五拾三駅 蒲原 岩ぶち

東海道(とうかいどう)五拾(ごじゅう)(さん)(えき) 蒲原(かんばら) (いわ)ぶち

製作時期(せいさくじき):慶応元年(けいおうがんねん)(1865)。
板元(はんもと)(しるし)なし

東海道(とうかいどう)太平洋側(たいへいようがわ)沿()って(すす)むため、通常(つうじょう)(みち)右側(みぎがわ)富士(ふじ)()えますが、(みち)(おお)きく湾曲(わんきょく)している場所(ばしょ)については左側(ひだりがわ)富士(ふじ)()え、そのことを「左富士(ひだりふじ)」と()びます。 東海道(とうかいどう)左富士(ひだりふじ)()える場所(ばしょ)は、本作(ほんさく)(えが)かれた吉原(よしわら)と、茅ヶ崎(ちがさき)南湖(なんご)の2か(しょ)です。(ある)人々(ひとびと)白装束(しろしょうぞく)()巡礼(じゅんれい)(しゃ)です。

本作(ほんさく)落款(らっかん)は「立祥画(りゅうしょうが)」となっており、この立祥(りゅうしょう)二代歌川広重(にだいうたがわひろしげ)です。初代広重(しょだいひろしげ)没後(ぼつご)安政(あんせい)6(ねん)(1859)、弟子(でし)であった重宜(しげのぶ)広重(ひろしげ)()()ぎ、二代広重(にだいひろしげ)となります。その()師風(しふう)()()いだ作品(さくひん)()がけますが、慶応元年(けいおうがんねん)(1865)になると広重(ひろしげ)()(あらた)め、立祥(りゅうしょう)(ごう)するようになります。この「東海道五十三駅(とうかいどうごじゅうさんえき)」のシリーズは、その改名(かいめい)(とし)刊行(かんこう)された作品(さくひん)で、56枚揃(まいぞろ)いの作品(さくひん)となっています。

二代広重(にだいひろしげ)初代広重(しょだいひろしげ)長女(ちょうじょ)との結婚以前(けっこんいぜん)重宣時代(しげのぶじだい)二代広重(にだいひろしげ)時代(じだい)離婚後(りこんご)横浜(よこはま)()んでからの立祥時代(りゅうしょうじだい)(慶応元年(けいおうがんねん)明治二年(めいじにねん))のそれぞれの画銘(がめい)(とき)数点(すうてん)東海道(とうかいどう)シリーズを(のこ)しています。

東海道五拾三駅 吉原 左り富士

東海道(とうかいどう)五拾(ごじゅう)(さん)(えき) 吉原(よしわら) (ひだり)富士(ふじ)

製作時期(せいさくじき):慶応元年(けいおうがんねん)(1865)。
板元(はんもと)(しるし)なし

左上(ひだりうえ)()えるのは富士(ふじ)で、その(よこ)()える(やま)は、(だい)にもある足柄山(あしがらやま)です。画面(がめん)(した)()ると()()みをする茶店(ちゃみせ)(むすめ)や、駕籠(かご)巡礼(じゅんれい)(しゃ)といった人々(ひとびと)(えが)かれています。ちなみにこの巡礼(じゅんれい)(しゃ)は、()仏像(ぶつぞう)背負(せお)って、全国(ぜんこく)六十六か所(ろくじゅうろっかしょ)寺社(じしゃ)法華経(ほけきょう)法華宗(ほっけしゅう)のお(きょう))の奉納(ほうのう)(おこな)う「六十六部(ろくじゅうろくぶ)」です。

本作(ほんさく)落款(らっかん)は「立祥画(りゅうしょうが)」となっており、この立祥(りゅうしょう)二代歌川広重(にだいうたがわひろしげ)です。初代広重(しょだいひろしげ)没後(ぼつご)安政(あんせい)6(ねん)(1859)、弟子(でし)であった重宜(しげのぶ)広重(ひろしげ)()()ぎ、二代広重(にだいひろしげ)となります。その()師風(しふう)()()いだ作品(さくひん)()がけますが、慶応元年(けいおうがんねん)(1865)になると広重(ひろしげ)()(あらた)め、立祥(りゅうしょう)(ごう)するようになります。この「東海道五十三駅(とうかいどうごじゅうさんえき)」のシリーズは、その改名(かいめい)(とし)刊行(かんこう)された作品(さくひん)で、56枚揃(まいぞろ)いの作品(さくひん)となっています。

二代広重(にだいひろしげ)初代広重(しょだいひろしげ)長女(ちょうじょ)との結婚以前(けっこんいぜん)重宣時代(しげのぶじだい)二代広重(にだいひろしげ)時代(じだい)離婚後(りこんご)横浜(よこはま)()んでからの立祥時代(りゅうしょうじだい)(慶応元年(けいおうがんねん)明治二年(めいじにねん))のそれぞれの画銘(がめい)(とき)数点(すうてん)東海道(とうかいどう)シリーズを(のこ)しています。

東海道五拾三駅 沼津 足柄やま遠望

東海道(とうかいどう)五拾(ごじゅう)(さん)(えき) 沼津(ぬまづ) 足柄(あしがら)やま遠望(えんぼう)



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