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江の島の歴史
江の島歴史年表
江の島散策マップ
江の島の文化財
江の島を訪れた人々
資料種類しりょうしゅるい(大分類だいぶんるい):
資料種類しりょうしゅるい(中分類ちゅうぶんるい):
資料種類しりょうしゅるい(小分類しょうぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(大分類だいぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(中分類ちゅうぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(小分類しょうぶんるい):
作者さくしゃ(50音分類おんぶんるい):
作者さくしゃ:
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役小角(えんのおづめ)(役行者(えんのぎょうじゃ))は、飛鳥時代(あすかじだい)から奈良時代(ならじだい)の呪術者(じゅじゅつしゃ)で、修験道(しゅげんどう)の開祖(かいそ)とされる実在(じつざい)の人物(じんぶつ)で。人物像(じんぶつぞう)は後世(こうせい)の伝説(でんせつ)で作(つく)られたところが大(おお)きく、富士山(ふじさん)、江(え)の島(しま)を始(はじ)め、多(おお)くの修験道(しゅげんどう)の霊場(れいじょう)が、役行者(えんのぎょうじゃ)を開祖(かいそ)とし、役行者(えんのぎょうじゃ)が修行(しゅぎょう)した場所(ばしょ)だったという伝承(でんしょう)があります。手前(てまえ)に従(したが)うのは、前鬼(ぜんき)と後鬼(ごき)(夫婦(ふうふ)の鬼(おに)で、前鬼(ぜんき)が夫(おっと)、後鬼(ごき)が妻(つま))。役行者(えんのぎょうじゃ)は、鬼神(きじん)を使役(しえき)できるほどの法力(ほうりき)を持(も)っていたと言(い)います。
役小角(えんのおづぬ)坐像(ざぞう)
この作品(さくひん)は、当時(とうじ)の人気(にんき)歌舞伎役者(かぶきやくしゃ)とゆかりの宿場(しゅくば)を背景(はいけい)に描(えが)いたシリーズです。「一ト眼千両(ひとめせんりょう)」とは、一目(ひとめ)見(み)ただけで千両(せんりょう)(訳注(やくちゅう):両(りょう)は江戸時代(えどじだい)の貨幣(かへい)の単位>(たんい)。 千両(せんりょう)は今(いま)でいうと1億円(おくえん)以上(いじょう)の価値(かち)になる。)という大金(たいきん)を払(はら)う価値(かち)があるというたとえです。背景(はいけい)を二代広重(にだいひろしげ)、前景(ぜんけい)の人物(じんぶつ)を国周(くにちか)が分担(ぶんたん)して描(えが)いています。 この人物(じんぶつ)は「白波五人男(しらなみごにんおとこ)」の通称(つうしょう)で知(し)られる歌舞伎(かぶき)の演目(えんもく)「青砥稿花紅彩画(あおとぞうしはなのにしきえ)」に登場(とうじょう)する人物(じんぶつ)の一人(ひとり)で、江の島(えのしま)にゆかりのある弁天小僧菊之助(べんてんこぞうきくのすけ)です。扮(ふん)するは四代目(よんだいめ)市村家橘(いちむらかきつ)(のちの五代(ごだい)尾上菊五郎(おのえきくごろう))です。
東海道(とうかいどう)一(ひ)卜(と)眼(め)千(せん)両(りょう) 藤沢(ふじさわ) 弁天小僧菊之助(べんてんこぞうきくのすけ)
江戸(えど)における花見(はなみ)の名所(めいしょ)であった御殿山(ごてんやま)の風景(ふうけい)が描(えが)かれます。御殿山(ごてんやま)は寛文年間(かんぶんねんかん)(1661~73)より桜(さくら)が移植(いしょく)され、江戸時代後期(えどじだいこうき)には600本(ぽん)もの桜(さくら)があったと伝(つた)えられています。満開(まんかい)の桜(さくら)の下(か)、宴会(えんかい)を楽(たの)しむ人々(ひとびと)や、客(きゃく)を引(ひ)く茶屋(ちゃや)の娘(むすめ)といった賑(にぎ)やかな花見(はなみ)の様子(ようす)が見(み)られます。 本作(ほんさく)は東海道(とうかいどう)の名所(めいしょ)風景(ふうけい)に、当代諸家(とうだいしょか)の発句集(ほっくしゅう)を配(はい)した絵俳書(えばいしょ)です。嘉永(かえい)4年(ねん)(1851)に版元(はんもと)の永楽屋丈助(えいらくやじょうすけ)より刊行(かんこう)された『東海道名所発句集(とうかいどうめいしょほっくしゅう)』の改題本(かいだいぼん)で、元(もと)は版本(はんぽん)として売(う)り出(だ)されたものが、江戸(えど)から伊豆(いず)にかけての風景(ふうけい)を画帖(がじょう) の形式(けいしき)で再版(さいはん)されたものらしく、各図(かくず)が独立(どくりつ)した一枚(いちまい)の絵(え)として鑑賞(かんしょう)できるようになっています。本作(ほんさく)を描(えが)いた時期(じき)、広重(ひろしげ)は天童藩(てんどうはん)からの依頼(いらい)により多数(たすう)の肉筆画(にくひつが)を描(えが)いており、自然(しぜん)な奥行(おくゆ)きを感(かん)じさせる構図(こうず)や、青(あお)みがかった淡(あわ)い色調(しきちょう)など、肉筆(にくひつ)(直接(ちょくせつ)に筆(ふで)で描(えが)いた作品(さくひん))の風景画(ふうけいが)に通(つう)じる表現(ひょうげん)も見(み)られます。
東海道(とうかいどう)名所(めいしょ) 品川(しながわ)
東海道(とうかいどう)の3番目(ばんめ)と4番目(ばんめ)の宿場(しゅくば)である神奈川(かながわ)(絵(え)では異(こと)なる漢字(かんじ)が使(つか)われていますと注入れ(ちゅうい)れ)と程ヶ谷(ほどがや)が霞(かすみ)を挟(はさ)んで描(えが)かれています。神奈川宿(かながわしゅく)周辺(しゅうへん)に記(しる)されている「浅間社(あさましゃ)」は浅間神社(あさまじんじゃ)で、当時(とうじ)は神奈川宿(かながわしゅく)と程ヶ谷宿(ほどがやしゅく)の間(あいだ)の宿(やど)として栄(さか)えました。その横(よこ)にある「人穴(ひとあな)」は、江戸時代(えどじだい)には富士信仰(ふじしんこう)と結(むす)び付(つ)けられていたようですが、現在(げんざい)は横穴(よこあな)の古墳(こふん)(※古代(こだい)の権力者(けんりょくしゃ)の墓(はか))であったことがわかっています。 本作(ほんさく)は東海道(とうかいどう)の名所(めいしょ)風景(ふうけい)に、当代諸家(とうだいしょか)の発句集(ほっくしゅう)を配(はい)した絵俳書(えばいしょ)です。嘉永(かえい)4年(ねん)(1851)に版元(はんもと)の永楽屋丈助(えいらくやじょうすけ)より刊行(かんこう)された『東海道名所発句集(とうかいどうめいしょほっくしゅう)』の改題本(かいだいぼん)で、元(もと)は版本(はんぽん)として売(う)り出(だ)されたものが、江戸(えど)から伊豆(いず)にかけての風景(ふうけい)を画帖(がじょう) の形式(けいしき)で再版(さいはん)されたものらしく、各図(かくず)が独立(どくりつ)した一枚(いちまい)の絵(え)として鑑賞(かんしょう)できるようになっています。本作(ほんさく)を描(えが)いた時期(じき)、広重(ひろしげ)は天童藩(てんどうはん)からの依頼(いらい)により多数(たすう)の肉筆画(にくひつが)を描(えが)いており、自然(しぜん)な奥行(おくゆ)きを感(かん)じさせる構図(こうず)や、青(あお)みがかった淡(あわ)い色調(しきちょう)など、肉筆(にくひつ)(直接(ちょくせつ)に筆(ふで)で描(えが)いた作品(さくひん))の風景画(ふうけいが)に通(つう)じる表現(ひょうげん)も見(み)られます。
東海道(とうかいどう)名所(めいしょ) 神名川(かながわ) 程(ほど)ヶ谷(や)
「心(こころ)なき身(み)にもあはれは知(し)られけり鴫立沢(しぎたちざわ)の秋(あき)の夕暮(ゆうぐれ)」――西行(さいぎょう) 平安時代(へいあんじだい)の歌人(かじん)、西行(さいぎょう)に縁(ゆかり)ある土地(とち)の、大磯(おおいそ)の鴫立沢(しぎたちざわ)の風景(ふうけい)が描(えが)かれます。鴫立沢(しぎたちざわ)には江戸時代(えどじだい)初期(しょき)に俳諧道場(はいかいどうじょう「鴫立庵(しぎたつあん)」が開(ひら)かれ、数多(かずおお)くの俳人(はいじん)たちが訪(おとず)れました。画面(がめん)右下(みぎした)に描(えが)かれた「西行庵(さいぎょうあん)」は西行(さいぎょう)の坐像(ざぞう)が安置(あんち)されている円位堂(えんいどう)(円位(えんい)は西行(さいぎょう)の法名(ほうみょう))と思(おも)われます。 本作(ほんさく)は東海道(とうかいどう)の名所(めいしょ)風景(ふうけい)に、当代諸家(とうだいしょか)の発句集(ほっくしゅう)を配(はい)した絵俳書(えばいしょ)です。嘉永(かえい)4年(ねん)(1851)に版元(はんもと)の永楽屋丈助(えいらくやじょうすけ)より刊行(かんこう)された『東海道名所発句集(とうかいどうめいしょほっくしゅう)』の改題本(かいだいぼん)で、元(もと)は版本(はんぽん)として売(う)り出(だ)されたものが、江戸(えど)から伊豆(いず)にかけての風景(ふうけい)を画帖(がじょう) の形式(けいしき)で再版(さいはん)されたものらしく、各図(かくず)が独立(どくりつ)した一枚(いちまい)の絵(え)として鑑賞(かんしょう)できるようになっています。本作(ほんさく)を描(えが)いた時期(じき)、広重(ひろしげ)は天童藩(てんどうはん)からの依頼(いらい)により多数(たすう)の肉筆画(にくひつが)を描(えが)いており、自然(しぜん)な奥行(おくゆ)きを感(かん)じさせる構図(こうず)や、青(あお)みがかった淡(あわ)い色調(しきちょう)など、肉筆(にくひつ)(直接(ちょくせつ)に筆(ふで)で描(えが)いた作品(さくひん))の風景画(ふうけいが)に通(つう)じる表現(ひょうげん)も見(み)られます。
東海道(とうかいどう)名所(めいしょ) 大磯(おおいそ)鴫(しぎ)立沢(たちざわ)
本作(ほんさく)には、平塚宿(ひらつかしゅく)から大磯宿(おおいそしゅく)にかけての風景(ふうけい)が描(えが)かれます。画面(がめん)右下(みぎした)に記(しる)されている「唐土ヶ原(もろこしがはら)」(現在(げんざい)の唐ヶ原(とうがはら)は、5世紀(せいき)に朝鮮(ちょうせん)の人々(ひとびと)が集団移住(しゅうだんいじゅう)したと伝(つた)えられており、右上(みぎうえ)には見(み)える高麗寺山(こうらいじさん)は、高句麗(こうくり)から渡来(とらい)した高麗若人(こまのじゃっこう)を祀(まつ)った寺(てら)が地名(ちめい)の由来(ゆらい)となっています。そこから画面(がめん)奥(おく)に向(む)かい、大磯宿(おおいそしゅく)や鴫立沢(しぎたちざわ)が続(つづ)きます。 本作(ほんさく)は東海道(とうかいどう)の名所(めいしょ)風景(ふうけい)に、当代諸家(とうだいしょか)の発句集(ほっくしゅう)を配(はい)した絵俳書(えばいしょ)です。嘉永(かえい)4年(ねん)(1851)に版元(はんもと)の永楽屋丈助(えいらくやじょうすけ)より刊行(かんこう)された『東海道名所発句集(とうかいどうめいしょほっくしゅう)』の改題本(かいだいぼん)で、元(もと)は版本(はんぽん)として売(う)り出(だ)されたものが、江戸(えど)から伊豆(いず)にかけての風景(ふうけい)を画帖(がじょう) の形式(けいしき)で再版(さいはん)されたものらしく、各図(かくず)が独立(どくりつ)した一枚(いちまい)の絵(え)として鑑賞(かんしょう)できるようになっています。本作(ほんさく)を描(えが)いた時期(じき)、広重(ひろしげ)は天童藩(てんどうはん)からの依頼(いらい)により多数(たすう)の肉筆画(にくひつが)を描(えが)いており、自然(しぜん)な奥行(おくゆ)きを感(かん)じさせる構図(こうず)や、青(あお)みがかった淡(あわ)い色調(しきちょう)など、肉筆(にくひつ)(直接(ちょくせつ)に筆(ふで)で描(えが)いた作品(さくひん))の風景画(ふうけいが)に通(つう)じる表現(ひょうげん)も見(み)られます。
東海道(とうかいどう)名所(めいしょ) 大磯(おおいそ) 平塚(ひらつか)
金沢八景(かなざわはっけい)から鎌倉(かまくら)、江の島(えのしま)に至(いた)る細見図(さいけんず)と名所(めいしょ)を書(か)き上(あ)げた【道中記(どうちゅうき) 】。 道中図(どうちゅうず)とは、江戸時代(えどじだい)に作成(さくせい)された陸路(りくろ)あるいは海路(かいろ)を記(しる)した絵地図(えちず)のことで、今日(こんにち)の道路地図(どうろちず)と観光案内(かんこうあんない)を組(く)み合(あ)わせた要素(ようそ)を持(も)っています。 18世紀(せいき)の末頃(すえごろ)には、金沢(かなざわ)-鎌倉(かまくら)-江(え)の島(しま)の道程(どうてい)が既(すで)に定番(ていばん)の観光(かんこう)コースとして確立(かくりつ)されていたことが分(わ)かります。
榎(えの)島(しま)鎌倉(かまくら)金沢(かなざわ)細見(さいけん)之(の)図(ず)
石橋山合戦(いしばしやまがっせん)は、平安時代末期(へいあんじだいまっき)の治承(じしょう)4年(ねん)(1180年(ねん))に源頼朝(みなもとのよりとも)と大庭景親(おおばかげちか)ら平氏方(へいしかた)との間(あいだ)で行(おこな)われた戦(たたか)いです。伊豆(いず)で挙兵(きょへい)して湯河原(ゆがわら)辺(あた)りまで進出(しんしゅつ)した頼朝(よりとも)を、大庭景親(おおばかげちか)がいずれも藤沢周辺地域(ふじさわしゅうへんちいき)を領地(りょうち)としていた俣野景久(またのかげひさ)、渋谷重国(しぶやしげくに)、海老名 季員(えびな すえかず)ら3000余騎(よき)を率(ひき)いて迎撃(げいげき)に向(む)かった様子(ようす)が描(えが)かれています。『平家物語(へいけものがたり)』によると合戦(かっせん)に先立(さきだ)って、北条時政(ほうじょうときまさ)と大庭景親(おおばかげちか)が対峙(たいじ)し、景親(かげちか)は自(みずか)らが後三年(ごさんねん)の役(えき)で奮戦(ふんせん)した鎌倉景政(かまくらかげまさ)の子孫(しそん)であると名乗(なの)り、これに時政(ときまさ)がかつて源義家(みなもとのよりいえ)に従(したが)った景正(かげまさ)の子孫(しそん)ならば、なぜ頼朝公(よりともこう)に弓(ゆみ)を引(ひ)く(戦(いくさ)をしかける、反乱(はんらん)を起(お)こす)と言い返(いいかえ)し、これに対(たい)して景親(かげちか)は「昔(むかし)の主(しゅ)でも今(いま)は敵(てき)である。平家(へいけ)の御恩(ごおん)は山(やま)よりも高(たか)く、海(うみ)よりも深(ふか)い」と応(おう)じたといいます。
石橋(いしばし)山(やま)合戦(かっせん)