Fujisawa Net Museum

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半切(はんせつ)横(よこ)1枚(まい) 縦(たて)13.6 横(よこ)17.3
制作(せいさく)時期(じき):寛政(かんせい)(1789~1801)末(すえ)頃(ごろ)。板元(はんもと)印(しるし)なし

本作(ほんさく)では水平線(すいへいせん)がやや低(ひく)く、空(そら)が広(ひろ)く描(えが)かれています。北斎(ほくさい)はこのような洋風(ようふう)表現(ひょうげん)を用(もち)いた風景画(ふうけいが)を複数(ふくすう)描(えが)いていており、人物(じんぶつ)が黒(くろ)いシルエットで表現(ひょうげん)されているところなど銅(どう)版画(はんが)からの影響(えいきょう)が色濃(いろこ)くうかがえます。
波(なみ)の頂(いただき)の部分(ぶぶん)などに繊細(せんさい)な空摺(からず)り(凹凸(おうとつ)で形(かたち)が表現(ひょうげん)される摺(す)りの技巧(ぎこう))が施(ほどこ)され、画面(がめん)の縁(ふち)取(ど)りに模様(もよう)が見(み)られるなどの工夫(くふう)がみられます。画面(がめん)右手(みぎて)には横文字(よこもじ)風(ふう)に入(い)れた書体(しょたい)で「ほくさいえかく(北斎(ほくさい)描(えが)く)」と書(か)かれています。

月(つき)の屋(や)成丈(なりたけ)の狂歌(きょうか)入(い)りで、「みさかなの蚫(あわび)ささえをとる海士(あま)の水(みず)いらすにて祝(いわ)ふとそ酒(さけ)」となっています。北斎(ほくさい)の洋風(ようふう)表現(ひょうげん)は彼(かれ)の若(わか)き修業(しゅうぎょう)時代(じだい)の春朗(しゅんろう)名(めい)の頃(ころ)から顕著(けんちょ)に見(み)られ、その傾向(けいこう)は生涯(しょうがい)にわたっています。その代表的(だいひょうてき)作品(さくひん)には「日本(にっぽん)境田(さかいだ)中見(なかみ)之(の)図(ず)」や「羽田(はねだ)弁天(べんてん)之(の)図(ず)」などがありますが、この江(え)の島(しま)と七里ガ浜(しちりがはま)を描(えが)いた図(ず)は洋画(ようが)を意識(いしき)しています。このことは画面(がめん)右手(みぎて)上(うえ)に横文字(よこもじ)風(ふう)に入(い)れた書体(しょたい)でも分(わか)りますし、また絵(え)のまわりを額(がく)のように縁(ふち)どっていることでもそれがいえます。また正確(せいかく)な遠近(えんきん)表現(ひょうげん)と大胆(だいたん)なもののとらえ方(かた)は、一種独特(いっしゅどくとく)の雰囲気(ふんいき)をかもし出(だ)しています。そして七里ガ浜(しちりがはま)づたいに江(え)の島(しま)へ三々五々(さんさんごご)向(むか)う人物(じんぶつ)が、すべて影(かげ)として描(えが)かれているのも何(なに)か暗示(あんじ)しているようで興味深(きょうみぶか)く、また波(なみ)の部分(ぶぶん)には空摺(からず)りも使用(しよう)されていて、きめの細(こま)かい作品(さくひん)となっています。

葛飾北斎 無題(江の島風景)

題名(だいめい)不詳(ふしょう)(江(え)の島(しま)風景(ふうけい))

制作(せいさく)時期(じき):天保(てんぽう)年間(ねんかん)(1830~44)。
板元(はんもと):永寿(えいじゅ)堂(どう)

冨嶽三十六景(ふがくさんじゅうろっけい)は北斎(ほくさい)最大(さいだい)の傑作(けっさく)のシリーズもので、最初(さいしょ)に刊行(かんこう)された36枚(まい)は「表(おもて)」といわれ、のち好評(こうひょう)のため続(ぞく)刊(かん)された10枚(まい)は「裏(うら)」と呼(よ)ばれ、全部(ぜんぶ)で46枚(まい)が発行(はっこう)されています。そのうちでも三(さん)大傑作(だいけっさく)といわれるものは、俗(ぞく)に赤富士(あかふじ)とよばれる「凱風快晴(がいふうかいせい)」、「山下白雨(さんかはくう)」、「神奈川沖浪裏(かながわおきなみうら)」です。
これら富士(ふじ)を描(えが)いた46種(しゅ)類(るい)の作品(さくひん)は、それぞれに共通(きょうつう)する技法(ぎほう)によって幾(いく)つかに分類(ぶんるい)することが出来(でき)ますが、大(おお)きく分(わ)けると伝統(でんとう)的(てき)な日本画(にほんが)の影響(えいきょう)の強(つよ)いもの、中国(ちゅうごく)の漢(かん)画(が)的(てき)な要素(ようそ)のあるもの、さらに遠近法(えんきんほう)を取(と)り入(い)れた洋画(ようが)的(てき)表現(ひょうげん)など三(みっ)つに分(わ)けられます。
この図(ず)はそうしたもののうち漢(かん)画(が)的(てき)な要素(ようそ)のまさったもので、その黄緑(きみどり)色(いろ)の淡(あわ)い色調(しきちょう)は「相州箱根湖水(そうしゅうはこねこすい)」のそれを連想(れんそう)させます。そして一見(いっけん)地続(じつづ)きのように見(み)え、他(た)の絵師(えし)の表現(ひょうげん)と較(くら)べて、平坦(へいたん)な江(え)の島(しま)は山水画(さんすいが)を思(おも)わせます。

葛飾北斎 冨嶽三十六景 相州江の嶌

冨(ふ)嶽(がく)三(さん)十(じゅう)六(ろっ)景(けい) 相州(そうしゅう)江(え)の嶌(しま)

制作(せいさく)時期(じき):天保(てんぽう)4年(ねん)(1833)頃(ころ)。
板元(はんもと):川長(かわちょう)

江(え)の島(しま)が画面(がめん)一杯(いっぱい)に描(えが)かれ、将来(しょうらい)展開(てんかい)されるべきさまざまな要素(ようそ)が含(ふく)まれています。色彩(しきさい)的(てき)には藍(あい)や緑(みどり)がかなり強(つよ)く出(で)ていて、後(のち)のおさえた色調(しきちょう)のそれとは異(こと)なっていますが、空間(くうかん)の処理(しょり)の仕方(しかた)に広(ひろ)がりを見(み)せています。また前景(ぜんけい)として、いく分(ぶん)、類型(るいけい)的(てき)な三角形(さんかっけい)の大(おお)きな波(なみ)も広重(ひろしげ)らしい特徴(とくちょう)を表(あらわ)しています。
岩場(いわば)で遊(あそ)ぶ人々(ひとびと)、右(みぎ)1枚(まい)の部分(ぶぶん)には、それが平坦(へいたん)であるため俎板(まないた)岩(いわ)(魚板(ぎょばん)岩(がん))といわれる所(ところ)にござを敷(し)き、酒(さけ)をくみ交(か)わしている場面(ばめん)があり、中(なか)1枚(まい)には女性(じょせい)に何(なに)かをねだる裸(はだか)の子(こ)どもがいます。さらに左(ひだり)1枚(まい)には旅人(たびびと)が銭(ぜに)を投(な)げる仕草(しぐさ)をしていて、その銭(ぜに)を海中(かいちゅう)に飛(と)び込(こ)んで拾(ひろ)おうとする子(こ)どもがいて、江(え)の島(しま)での旅人(たびびと)の風俗(ふうぞく)が端的(たんてき)に画面(がめん)に出(で)ている描写(びょうしゃ)となっています。

歌川広重 相州江之嶋岩屋之図

相州(そうしゅう)江(え)之(の)嶋(しま)岩屋(いわや)之(の)図(ず)

製作時期(せいさくじき):安政(あんせい)3年(ねん)(1856)。
板元(はんもと):山口藤兵衛(やまぐちとうべえ)

神奈川(かながわ)・・・浦島寺(うらしまでら)の故事(こじ)
神奈川宿(かながわしゅく)には浦島太郎(うらしまたろう)の伝説(でんせつ)をもつ浦島寺(うらしまでら)と呼(よ)ばれる寺(てら)がありました。物語(ものがたり)の終盤(しゅうばん)で、玉手箱(たまてばこ)から出(で)た煙(けむり)を浴(あ)び、老人(ろうじん)の姿(すがた)になっていっていく様子(ようす)が描(えが)かれています。

程(ほど)かや・・・橋脚(きょうきゃく)
帷子川(かたびらがわ)に架(か)かる帷子橋(かたびらばし)の橋脚(きょうきゃく)が描(えが)かれています。保土ヶ谷宿(ほどがやしゅく)を代表(だいひょう)する風景(ふうけい)としてよく取(と)り上(あ)げられています。

戸塚(とつか)・・・大坂(おおさか)の景色(けしき)
戸塚宿(とつかしゅく)の西(にし)に位置(いち)する大阪(おおさか)の景色(けしき)です。富士見(ふじみ)の名所(めいしょ)として知(し)られていました。

藤沢(ふじさわ)・・・照天姫(てるてひめ)
照天姫(てるてひめ)は、藤沢(ふじさわ)にゆかりのある伝説(でんせつ)の人物(じんぶつ)・小栗判官(おぐりはんがん)の恋人(こいびと)です。

広重(ひろしげ)は風景(ふうけい)を中心(ちゅうしん)とした東海道(とうかいどう)ものを多(おお)く描(えが)いていますが、この画(え)の様(よう)な異(こと)なったタイプのシリーズも残(のこ)しています。これは一般(いっぱん)に張交東海道(はりまぜとうかいどう)といわれるもので、1枚(まい)の中(なか)に3~5宿(しゅく)の風景(ふうけい)、名産(めいさん)、物語(ものがたり)等(とう)が挿入(そうにゅう)されています。

東海道張交図会 加奈川 程かや 戸塚 藤沢(山藤版)

東海道(とうかいどう)張(はり)交(まぜ)図会(ずえ) 加奈川(かながわ) 程(ほど)かや 戸塚(とつか) 藤沢(ふじさわ)(山藤(やまふじ)版(ばん))

板元(はんもと):蔦屋吉蔵(つたやきちぞう)

竪(たて)絵(え)では、南湖(なんご)(画(が)中(ちゅう)は南期(なんご)と表記(ひょうき))の松林(まつばやし)と、富士山(ふじさん)の景色(けしき)が描(えが)かれています。ここから見(み)える富士山(ふじさん)は、東海道(とうかいどう)の左手(ひだりて)に見(み)えるため「左富士(ひだりふじ)」と呼(よ)ばれ、南湖(なんご)と吉原宿(よしわらしゅく)の二(に)ヶ所(かしょ)のみで見(み)ることの出来(でき)る希少(きしょう)な景色(けしき)でした。

このシリーズが竪(たて)型(がた)版(ばん)であるため、一般(いっぱん)に竪(たて)絵(え)東海道(とうかいどう)と呼(よ)ばれ、広重(ひろしげ)晩年(ばんねん)(59 才(さい))の作品(さくひん)です。
この名所図会(めいしょずえ)シリーズではほとんどの宿場(しゅくば)が鳥瞰図(ちょうかんず)(訳注(やくちゅう):鳥(とり)の目線(めせん)(空(そら)から眺(なが)めた)ように描(えが)く方法(ほうほう))で描(えが)かれ、町並(まちな)み等(とう)に遠近法(えんきんほう)を用(もち)い、この画(が)は表題(ひょうだい)にもあるように東海道(とうかいどう)の南湖(なんご)(現(げん)・茅ヶ崎市(ちがさきし))の松並木(まつなみき)の風景(ふうけい)を描(えが)いています。

南湖(なんご)は藤沢宿(ふじさわしゅく)と平塚宿(ひらつかしゅく)の間(ま)の立場(たちば)(宿場(しゅくば)と宿場(しゅくば)の間(ま)の休憩(きゅうけい)場所(ばしょ))のあったところで、京都(きょうと)に向(む)かっていく道中(どうちゅう)で富士山(ふじさん)が左(ひだり)に見(み)える「左富士(ひだりふじ)」の名所(めいしょ)の一(ひと)つでもありました。
(訳注(やくちゅう):東海道(とうかいどう)を京都(きょうと)に向(む)かう際(さい)は基本(きほん)的(てき)に右側(みぎがわ)に富士山(ふじさん)が見(み)えるため、珍(めずら)しい場所(ばしょ)とされます。)現在(げんざい)でも鳥井(とりい)土橋(どばし)から、きれいな「左富士(ひだりふじ)」を見(み)ることができます。

五十三次名所図会 七 藤沢(竪絵東海道)

五十三次(ごじゅうさんつぎ)名所図会(めいしょずえ) 七(なな) 藤沢(ふじさわ) 南湖(なんご)の松原(まつばら)左(ひだ)り不二(ふじ)(竪(たて)絵(え)東海道(とうかいどう))

蓮華座(れんげざ)(仏像台座(ぶつぞうだいざ))の最下部(さいかぶ)を構成(こうせい)する上下二枚(じょうげにまい)の框(かまち)に永禄八年(えいろくはちねん)(1565)の仏像製作(ぶつぞうせいさく)、奉納時(ほうのうじ)の銘文(めいぶん)がある。「相州小坂郡(そうしゅうこさかぐん) 大庭庄板戸(おおばのしょういた ど)〔坂戸(さかど)の誤記(ごき)〕郷浄光寺(ごうじょうこうじ)」とあって、当時(とうじ)の寺名表記(てらめいひょうき)がわかるほか、「大庭庄(おおばのしょう)」は、平安時代(へいあんじだい)の大庭郷(おおばごう)、中世(ちゅうせい)の大庭御厨(おおばのみくりや)(伊勢神宮荘園(いせじんぐうしょうえん))に続(つづ)く地名(ちめい)。列挙(れっきょ)される奉納者名(ほうのうしゃめい)のなかに、藤沢宿本陣家(ふじさわしゅくほんじんけ)の蒔田家(まきたけ)など後(のち)の藤沢宿(ふじさわしゅく)の有力者(ゆうりょくしゃ)の先祖(せんぞ)にあたる名(な)が確認(かくにん)できるなど、藤沢宿以前(ふじさわしゅくいぜん)の歴史(れきし)を語(かた)る歴史資料(れきししりょう)として重要(じゅうよう)な文化財(ぶんかざい)である。
 なお、現在(げんざい)安置(あんち)されている聖観音像(しょうかんのんぞう)は近世後期(きんせいこうき)のものであり、蓮華座(れんげざ)の指定(してい)に際(さい)して、附(つけたり)として指定(してい)された。

【銘文(めいぶん)1】(最下段(さいかだん))  最大径(さいだいけい)31.8㎝・高(たか)4.5㎝
敬白相州小坂郡(けいはくそうしゅうこさかぐん)/大庭庄板戸郷浄光寺(おおばのしょうさかどごうじょうこうじ)/本尊奉御光臺座(ほんぞんごこうだいざ)たてまつり/造立諸旦那結衆頓證(ぞうりゅうしょだんなけっしゅとんしょう)/佛果無疑者也乃至法(ぶっかうたがいなきものなりないしほっ)/界平等利益(かいびょうどうりやく)/當寺ノ看主得譽恵撓(とうじのかんすとくよけいこう)/鎌倉佛師中納言(かまくらぶっしちゅうなごん)/宗翁(そうおう) (花押(かおう))/亍時永禄乙丑年(ときにえいろくきのとうし)四月一日(しがつついたち)
【銘文(めいぶん)2】(下(した)から二番目(にばんめ))  最大径(さいだいけい)25.0㎝・高(たか)3.4㎝
勧進(かんじん)  檀方源右衛門(だんぽうげんえもん)/富塚善右衛門(とみづかぜんえもん)/椙山六郎左衛門(すぎやまろくろうざえもん)/北村由右衛門(きたむらよしえもん)/福山□左衛門(ふくやま□ざえもん)/端山□左衛門(はやま□ざえもん) 塩崎(しおざき□□□)/石井□助郎(いしい□すけろう) 神崎□□介(かんざき□□すけ)/蒔田宗左衛門(まきたそうざえもん) 小関右近介(こせきうこんのすけ)/磯崎又七郎(いそざきまたしちろう) 曽□□左衛門(そ□□ざえもん)

所有管理者(しょゆうかんりしゃ):常光寺(じょうこうじ)

木造蓮華座(最下段)

木造(もくぞう)蓮華(れんげ)座(ざ)

令和(れいわ)3年(ねん)(2021)2月1日(がつついたち)指定(してい)
縦(たて)・横(よこ) 最大(さいだい)85㎝×85㎝ 高(たか)さ約(やく)50㎝

 鳥居(とりい)の柱(はしら)の土台(どだい)の石(いし)です。現在(げんざい)、遊行寺(ゆぎょうじ)宝物(ほうもつ)館(かん)の入口(いりぐち)両(りょう)脇(わき)に置(お)かれていますが、もとは旧東海道(きゅうとうかいどう)から分(わ)かれて南下(なんか)する江(え)の島道(しまみち)の入口(いりぐち)(藤沢(ふじさわ)1丁目(ちょうめ)。遊行寺(ゆぎょうじ)橋西(ばしにし)詰(づめ)。自動車排出(じどうしゃはいしゅつ)ガス測定(そくてい)局(きょく)付近(ふきん))にあった江島神社(えのしまじんじゃ)遥拝(ようはい)鳥居(とりい)の沓(くつ)石(いし)です。文政(ぶんせい)六(ろく)年(ねん)(1823)に建(た)てられた青銅(せいどう)製(せい)鳥居(とりい)(二(に)代目(だいめ)。初代(しょだい)は明和(めいわ)六(ろく)年(ねん)・1769)が、明治(めいじ)十(じゅう)三(さん)年(ねん)(1880)十一月(じゅういちがつ)の藤沢宿(ふじさわしゅく)大火(たいか)で焼損(しょうそん)し、翌(よく)明治(めいじ)十(じゅう)四(よ)年(ねん)四月(しがつ)に木造(もくぞう)(木(もく)柱(ちゅう)銅板(どうばん)巻(ま)き)として再建(さいけん)(三代(さんだい)目(め))された際(さい)の沓(くつ)石(いし)であることが、沓(くつ)石(いし)の側面(そくめん)に刻(きざ)まれた銘文(めいぶん)からわかります。

 その後(ご)、明治(めいじ)三(さん)十(じゅう)年(ねん)頃(ごろ)に鳥居(とりい)は腐朽(ふきゅう)のためか、撤去(てっきょ)されたようですが、沓(くつ)石(いし)はそのまま残置(ざんち)されていました。そして、大正(たいしょう)末期(まっき)の江(え)の島道(しまみち)の新道(しんどう)建設(けんせつ)の折(おり)に道路(どうろ)拡幅(かくふく)に妨(さまた)げがあるとして、藤沢宿(ふじさわしゅく)の人々(ひとびと)により清浄光寺(しょうじょうこうじ)へと運(はこ)ばれたと伝(つた)えられています。

 浮世絵(うきよえ)類(るい)に描(えが)かれる藤沢宿(ふじさわしゅく)入(い)り口(ぐち)の鳥居(とりい)の沓(くつ)石(いし)で、藤沢宿(ふじさわしゅく)のシンボル的(てき)構造物(こうぞうぶつ)の実物(じつぶつ)資料(しりょう)として、歴史的(れきしてき)価値(かち)が高(たか)いものです。

所有(しょゆう)管理者(かんりしゃ):清浄光寺(しょうじょうこうじ)(遊行寺(ゆぎょうじ))


■歌川広重(うたがわひろしげ)「狂歌(きょうか)入(いり)東海道(とうかいどう)」



 大鋸(だいぎり)橋(ばし) (現(げん)遊行寺(ゆぎょうじ)橋(ばし))を渡(わた)って、右(みぎ)が藤沢宿(ふじさわしゅく)。左(ひだり)が江(え)の島(しま)道(みち)。その入(い)り口(ぐち)に鳥居(とりい)があります。

 この鳥居(とりい)は明治(めいじ)の大火(たいか)で焼損(しょうそん)しました。それを再建(さいけん)した鳥居(とりい)の沓(くつ)石(いし)が指定(してい)文化財(ぶんかざい)です。

江の島道入口鳥居の沓石 宝物館入口左側

江(え)の島道(しまみち)入口(いりぐち)鳥居(とりい)の沓(くつ)石(いし)

平成(へいせい)30年(ねん)(2018)2月1日(がつついたち)指定(してい)/養命寺(ようめいじ)の本尊仏(ほんぞんぶつ)で国指定重要文化財(くにしていじゅうようぶんかざい)の薬師如来坐像(やくしにょらいざぞう)の眷属仏(けんぞくぶつ)です。十五世紀(じゅうごせいき)(室町時代初期(むろまちじだいしょき))製作(せいさく)と推定(すいてい)される木造仏像(もくぞうぶつぞう)12点(てん)で、おのおの十二支(じゅうにし)の一(ひと)つに充(あ)てられています。像高(ぞうこう)は72.4~78.5cm(台座(だいざ)除(のぞ)く現存部(げんそんぶ))。檜材(ひのきざい)の寄木造(よせぎづくり)、玉眼(ぎょくがん)(水晶(すいしょう)の眼(め))、一部(いちぶ)彩色(さいしき)で、手首(てくび)・持物(じもつ)・頭部(とうぶ)の十二支動物像(じゅうにしどうぶつぞう)などに欠失(けっしつ)がありますが、鎌倉地方(かまくらちほう)の中世彫刻(ちゅうせいちょうこく)らしい写実味(しゃじつみ)を帯(お)びた力強(ちからづよ)い堅実(けんじつ)な中世仏像(ちゅうせいぶつぞう)の遺作(いさく)として貴重(きちょう)です。「亥(い)」の宮昆羅大将像(くびらたいしょうぞう)の像内銘(ぞうないめい)「永正十八年再興(えいしょうじゅうはちねんさいこう)」など、胎内(たいない)の銘文(めいぶん)や修理札(しゅうりふだ)から永正十八年(えいしょうじゅうはちねん)(1521)、宝永六年(ほうえいろくねん)(1709)、元文三年(げんぶんさんねん)(1738)、文政七年(ぶんせいしちねん)(1824)、明治四年(めいじよねん)(1871)の修理年代(しゅうりねんだい)や、それにたずさわった鎌倉(かまくら)や江戸(えど)(日本橋(にほんばし)・神田(かんだ)・浅草(あさくさ))の修理(しゅうり)仏師(ぶっし)の名(な)が明(あき)らかである点(てん)も特筆(とくひつ)されます。所有管理者(しょゆうかんりしゃ):養命寺(ようめいじ)

木造(もくぞう)十二神将(じゅうにしんしょう)立像(りゅうぞう)



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