ふりがな
江の島の歴史
江の島歴史年表
江の島散策マップ
江の島の文化財
江の島を訪れた人々
資料種類しりょうしゅるい(大分類だいぶんるい):
資料種類しりょうしゅるい(中分類ちゅうぶんるい):
資料種類しりょうしゅるい(小分類しょうぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(大分類だいぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(中分類ちゅうぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(小分類しょうぶんるい):
作者さくしゃ(50音分類おんぶんるい):
作者さくしゃ:
フリーワード:
制作(せいさく)時期(じき):明治(めいじ)2年(ねん)(1869)頃(ごろ)。 板元(はんもと)印(しるし)なし 各地(かくち)の名所(めいしょ)八景(はっけい)を一連(いちれん)の絵(え)に仕立(した)て、それを一(ひと)つ一(ひと)つ切(き)っても鑑賞(かんしょう)できるようにされているものです。 八景(はっけい)の構成(こうせい)は、相州(そうしゅう)江(こう)ノ嶌(しま)、奥州(おうしゅう)松嶌(まつしま)、勢州(せいしゅう)二見ヶ浦(ふたみがうら)、播州(ばんしゅう)舞子ノ浜(まいこのはま)となっています。
無題(むだい)(諸国(しょこく)名所(めいしょ)づくし江(え)ノ嶌(しま))
制作(せいさく)時期(じき):元治(げんじ)元年(がんねん)(1864)5月(がつ)。 板元(はんもと):辻岡(つじおか)屋(や) 田舎(いなか)源氏(げんじ)の光(ひかり)の君(きみ)が江(え)の島(しま)遊覧(ゆうらん)に訪(おとず)れ、稚児ヶ淵(ちごがふち)で海女(あま)達(たち)の鮑(あわび)漁(いさ)りを見物(けんぶつ)している様(さま)を描(えが)いています。光(ひかり)の君(きみ)は特徴(とくちょう)のある海老茶筌髷(えびちゃせんまげ)に豪華(ごうか)な衣裳(いしょう)を身(み)につけています。 いわゆる源氏絵(げんじえ)で版(はん)の色(いろ)数(すう)も多(おお)く、空摺(からずり)の技法(ぎほう)も駆使(くし)した入念(にゅうねん)な錦絵(にしきえ)です。
今様(いまよう)けんじ江(え)之(の)嶋(しま)兒(ちご)ヶ淵(ふち)
制作(せいさく)時期(じき):弘化(こうか)4年(よんねん)~嘉永(かなが)末期(まっき)(1847~1854)。 板元(はんもと):不明(ふめい) 落款(らっかん)は一嶺斎(いちりゅうさい)芳雪(ほうせつ)で、この板元(はんもと)印(しるし)は石井研堂(いしいけんどう)『地本(じもと)錦絵(にしきえ)問屋(とんや)譜(ふ)』に「薩摩守忠度(さつまのかみただのり)」の武者絵(むしゃえ)にあるとだけ記(しる)されています。波(なみ)荒(あら)い七里ガ浜(しちりがはま)で銭(ぜに)を投(な)げ、裸(はだか)の子(こ)どもに拾(ひろ)わせて楽(たの)しむ3人(にん)の女性(じょせい)、左(ひだり)の駕籠(かご)かきは2人(ふたり)とも芳雪(ほうせつ)得意(とくい)の刺青(いれずみ)をしています。 当時(とうじ)の江(え)の島(しま)詣(もうで)の旅(たび)風俗(ふうぞく)がよくわかる資料(しりょう)です。
相州(そうしゅう)江之島(えのしま)詣(もうで)春(はる)の賑(にぎわい)
制作(せいさく)時期(じき):文化(ぶんか)頃(ごろ)。 板元(はんもと)印(しるし)なし 浮画(うきえ)とあるように洋風(ようふう)の遠近(えんきん)感(かん)をとり入(い)れた作品(さくひん)ですが、版(ばん)がかなりつぶれていて色(いろ)版(ばん)もずれている点(てん)から、後(こう)版(ばん)の可能性(かのうせい)が強(つよ)いと思(おも)われます。
新版(しんばん)浮(うき)画(え) 江(え)之(の)嶌(しま)金亀(きんき)山(ざん)之(の)遠景(えんけい)
制作(せいさく)時期(じき):文政(ぶんせい)4、5年(ねん)(1821・1822)頃(ころ)。 板元(はんもと):近江屋(おおみや)平八(へいはち) 江(え)の島(しま)参詣(さんけい)をして片瀬(かたせ)の浜(はま)を七里ガ浜(しちりがはま)の方(ほう)へ向(むこ)う大名行列(だいみょうぎょうれつ)を描(えが)いていますが、毛槍(けやり)(けやり)、長刀(なぎなた)(なぎなた)、長柄(ながえ)の傘(かさ)などを立派(りっぱ)な乗物(のりもの)に差(さ)しかけるなど、行列(ぎょうれつ)の人々(ひとびと)はすべて女性(じょせい)で美人(びじん)見立(みたて)(みたて)大名行列(だいみょうぎょうれつ)となっています。 いかにも美人画(びじんが)のとくいな国安(くにやす)らしい作品(さくひん)です。江(え)の島(しま)の入口(いりぐち)には祭礼(さいれい)の旗(はた)が立(た)てられていて、開帳(かいちょう)と関係(かんけい)して出版(しゅっぱん)されたものか、乗物(のりもの)の主(あるじ)はビラビラ簪(かんざし)の姫君(ひめぎみ)で、そばにいる稚児(ちご)が金(きん)の亀(かめ)を捧(ささ)げもっているのは興味深(きょうみぶか)い点(てん)です。
題名(だいめい)不詳(ふしょう)(江(え)の島(しま)参詣(さんけい))
制作(せいさく)時期(じき):文政(ぶんせい)末(まつ)頃(ごろ) 物産(ぶっさん)をテーマとした一(いち)枚(まい)絵(え)の組物(くみもの)として早(はや)い時期(じき)のものです。 国芳(くによし)の晩年(ばんねん)の嘉永(かえい)期(き)に制作(せいさく)されたものに「山海(さんかい)愛(あい)度(ど)図会(ずえ)」のシリーズがありますが、国芳(くによし)はここでも相模(さがみ)は堅魚(かつお)を採用(さいよう)し、「山海(さんかい)目(め)出(で)たい図会(ずえ)くせが直(なお)したい相州(そうしゅう)鰹(かつお)魚釣(さかなつり)」としています。
山海(さんかい)名産(めいさん)盡(つ) 相模(さがみ)ノ堅魚(かつお)
制作(せいさく)時期(じき):嘉永(かえい)5年(ねん)(1852)4月(しがつ)。 板元(はんもと):村市(むらいち) 安政(あんせい)6年(ねん)(1859年(ねん))に二代(にだい)歌川広重(うたがわひろしげ)を継(つ)いだ重宣(しげのぶ)は、重宣(しげのぶ)を名乗(なの)っている初期(しょき)の時代(じだい)(弘化(こうか)~安政(あんせい)5年(ねん))は初代(しょだい)の画風(がふう)を習(なら)い、風景画(ふうけいが)の模倣(もほう)や美人画(びじんが)・花鳥画(かちょうが)を描(えが)いています。この作品(さくひん)は「相州(そうしゅう)江(え)のしま詣(もうで)の図(ず)、七里(しちり)が浜(はま)真景(しんけい)」の構図(こうず)を人物(じんぶつ)の向(む)きや動(うご)きを少(すこ)し変(か)えて模倣(もほう)したもので、現状(げんじょう)は大判(おおばん)縦(たて)1枚(いちまい)ですが、最初(さいしょ)は師(し)と同(おな)じ大判(おおばん)縦(たて)3枚(さんまい)続(つづき)の構成(こうせい)で、中央(ちゅうおう)の1枚(まい)が残(のこ)ったと考(かんが)えられるものです。 そして更(さら)にこの図(ず)は彼自身(かれじしん)の作(さく)である「相州(そうしゅう)七里ヶ浜(しちりがはま)」大判(おおばん)3枚(まい)続(ぞく)、万延(まんえん)元年(がんねん)(1860年(ねん))刊(かん)板元(はんもと)萬屋(よろずや)の、中央(ちゅうおう)の1枚(まい)に座(すわ)って貝(かい)ひろいをしている女性(じょせい)の向(む)きを変(か)えただけで流用(りゅうよう)していることからも、七里ガ浜(しちりがはま)を描(えが)いた同(おな)じ図柄(ずがら)の3枚(まい)続(つづ)きであったことが知(し)られます。
題名(だいめい)不詳(ふしょう)(江(え)の島(しま)貝(かい)ひろい)
制作(せいさく)時期(じき):文久(ぶんきゅう)元年(がんねん)(1861)。 板元(はんもと):森治(もりはる) 手前(てまえ)には豪華(ごうか)な着物(きもの)を着(き)た男性(だんせい)と、腰元(こしもと)風(ふう)の女性(じょせい)、また貝(かい)拾(ひろ)いをする少女(しょうじょ)が描(えが)かれています。駕籠(かご)に乗(の)って江(え)の島(しま)へ参詣(さんけい)にやってきた様子(ようす)です。このような絵(え)は「源氏絵(げんじえ)」と呼(よ)ばれますが、平安時代(へいあんじだい)の源氏物語(げんじものがたり)を題材(だいざい)にした絵(え)ではなく、国貞(くにさだ)が挿絵(さしえ)を描(えが)いた合巻(ごうかん)『偐紫田舎源氏(にせむらさきいなかげんじ)(にせむらさきいなかげんじ)』(1829~42)の登場人物(とうじょうじんぶつ)が描(えが)かれた作品(さくひん)です。主人公(しゅじんこう)は、足利義政(あしかがよしまさ)の妾腹(しょうふく)の子(こ)という設定(せってい)の光氏(みつうじ)(画面(がめん)右(みぎ)の男性(だんせい))です。背景(はいけい)には、高(たか)さを強調(きょうちょう)して描(えが)かれた江(え)の島(しま)と、そこへ続(つづ)く広々(ひろびろ)とした洲鼻(すばな)(江(え)の島(しま)と陸地(りくち)を繋(つな)ぐ砂州(さす))が配(はい)され、また富士(ふじ)も大(おお)きく描(えが)かれており、名所絵(めいしょえ)としても優(すぐ)れた作品(さくひん)となっています。 二代(にだい)歌川広重(うたがわひろしげ)・三代(さんだい)歌川(うたがわ)豊国(とよくに)の合作(がっさく)で「源氏絵(げんじえ)」の一(ひと)つです。画面(がめん)手前(てまえ)の光(ひかり)の君(きみ)の一行(いっこう)は三代(さんだい)豊国(とよくに)、背景(はいけい)の江(え)の島(しま)や富士山(ふじさん)及(およ)び参詣(さんけい)の人々(ひとびと)は二代(にだい)広重(ひろしげ)が描(えが)いています。『偐紫田舎源氏(にせむらさきいなかげんじ)』の一(いち)場面(ばめん)を描(えが)いたものではなく、光源氏(ひかるげんじ)だけが物語(ものがたり)から離(はな)れて各地(かくち)の名所(めいしょ)を訪(おとず)れるという設定(せってい)がなされています。主人公(しゅじんこう)の光源氏(ひかるげんじ)のスタイルは三代(みじろ)豊国(とよくに)の創案(そうあん)によるもので、大(だい)髷(まげ)の髻(もとどり)に紫(むらさき)紐(ひも)を用(よう)い先(さき)を二(ふた)つに割(わ)った海老(えび)茶筌(ちゃせん)髷(まげ)を結(ゆ)い、歌舞伎(かぶき)の衣裳(いしょう)のような派手(はで)な出(い)で立(た)ちで登場(とうじょう)するのが特徴(とくちょう)となっています。物語(ものがたり)は室町時代(むろまちじだい)に設定(せってい)していますが、風俗(ふうぞく)は江戸(えど)の大奥(おおおく)を思(おも)わせます。以後(いご)このスタイルが「源氏絵(げんじえ)」の定型(ていけい)となります。
相州(そうしゅう)江(え)之(の)嶋(しま)