Fujisawa Net Museum

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早野(はやの)勘平(かんぺい)恋人(こいびと)のお(かる)は、『仮名手本忠臣蔵(かなでほんちゅうしんぐら)』に登場(とうじょう)する人物(じんぶつ)で、本図(ほんず)は、天保(てんぽう)4(ねん)(1833)に初演(しょえん)され、現在(げんざい)四段目(よだんめ)(のち)上演(じょうえん)される舞踊(ぶよう)(げき)道行(みちゆき)旅路(たびじ)花聟(はなむこ)』の(いち)場面(ばめん)です。勘平(かんぺい)主人(しゅじん)大事(だいじ)()()けられず、取返(とりかえ)しのつかない事態(じたい)から、二人(ふたり)()()ちを決行(けっこう)します。

本図(ほんず)大判(おおばん)浮世絵(うきよえ)とは(こと)なり、「(ほそ)(ばん)」と()ばれる(おお)きさで、明和(めいわ)から寛政(かんせい)()役者絵(やくしゃえ)(おお)(もち)いられているのが特徴(とくちょう)です。 作者(さくしゃ)一筆(いっぴつ)(さい)(さい)文調(ぶんちょう)生没年不詳(せいぼつねんふしょう))は、明和(めいわ)後期(こうき)(1764-72)に役者絵(やくしゃえ)似顔(にがお)()()(はじ)めた絵師(えし)一人(ひとり)で、役者絵(やくしゃえ)変化(へんか)()(なか)で、重要(じゅうよう)人物(じんぶつ)として()られています。

(さん)代目(だいめ)大谷廣次(おおたにひろじ)早野(はやの)勘平(かんぺい) 初代(しょだい)中村松江(なかむらまつえ)女房(にょうぼう)おかる

本図(ほんず)()(しま)島内(とうない)全体(ぜんたい)詳細(しょうさい)(えが)いた絵図(えず)です。()(しま)北側(きたがわ)から(えが)いていますが、本来(ほんらい)なら()(ちゅう)()えない位置(いち)にある南側(みなみがわ)岩屋(いわや)なども(えが)かれ、江の島(えのしま)全体(ぜんたい)()(ちゅう)(すべ)ておさまっています。 金亀(きんき)(ざん)とは()(しま)別名(べつめい)です。本宮(ほんぐう)別当(べっとう)であった岩本院(いわもといん)慶安(けいあん)2(ねん)(1649)に京都(きょうと)真言宗御室派(しんごんしゅうおむろは)仁和寺(にんなじ)(じき)末寺(まつじ)となり「金亀(きんき)山與(ざんよ)(がん)()」の寺号(じごう)(しょう)しました。()(しま)初期(しょき)浮世絵(うきよえ)では霊亀(れいき)背中(せなか)存在(そんざい)するともいわれる蓬莱山(ほうらいさん)のイメージを仮託(かたく)されていることが(おお)く、また実際(じっさい)(しま)(かたち)(かめ)()ているともいわれているため、()(しま)(かめ)のイメージが定着(ていちゃく)していたようです。

江之島(えのしま)金亀(きんき)(ざん)三宮(さんぐう)細見(さいけん)()()

製作(せいさく)時期(じき):嘉永(かえい)6年(ろくねん)(1853)。板元(はんもと):丸蔦(まるつた)

土山宿(つちやましゅく)茶屋(ちゃや)様子(ようす)(えが)かれています。縁台(えんだい)(すわ)っていると、厚化粧(あつげしょう)女性(じょせい)給仕(きゅうじ)()てきてびっくり。着物(きもの)()の「()たり()」は「矢場(やば)」を意味(いみ)し、矢場(やば)女郎(じょろう)()隠語(いんご)です。
石部宿(いしべしゅく)()えば、帯屋(おびや)長右衛門(ちょうえもん)臨家(りんか) 信濃屋(しなのや)(むすめ)(はん)心中(しんじゅう)(ばなし)(あつか)った浄瑠璃(じょうるり)桂川(かつらがわ)連理柵(れんりのしがらみ)(「お(はん)長右衛門(ちょうえもん)」と()()らされた)」で、二人(ふたり)()まり()わせた宿(やど)所在地(しょざいち)として有名(ゆうめい)でした。(えが)かれた二人(ふたり)は、少女(しょうじょ)のお(はん)帯屋(おびや)主人(しゅじん)長右衛門(ちょうえもん)想像(そうぞう)されます。
歌川派(うたがわは)(おお)くの浮世絵師(うきよえし)東海道(とうかいどう)五十三次(ごじゅうさんつぎ)シリーズを(えが)いていますが、(よし)(かず)(えが)いたこのシリーズは、(かく)宿場(しゅくば)にまつわる伝説(でんせつ)逸話(いつわ)面白(おもしろ)おかしく紹介(しょうかい)しています。全般的(ぜんぱんてき)(よこ)小判(しょうばん)()(なか)にはユーモラスな図柄(ずがら)(おお)いとも()われます。

東海道五十三次内 石部

東海道五十三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ)()(うち)石部(いしべ)

製作時期(せいさくじき):明治(めいじ)8(ねん)
板元(はんもと):山清(やませい)(山崎屋清七(やまざきやせいしち))

画面手前(がめんてまえ)()(しま)(いち)鳥居(とりい)(とお)()(しま)(もうで)()かう人々(ひとびと)画面中央(がめんちゅうおう)には遊行寺橋(ゆぎょうじばし)画面右奥(がめんみぎおく)には遊行寺(ゆぎょうじ)()えます。初代広重(しょだいひろしげ)(えが)いた藤沢宿(ふじさわしゅく)のおなじみの景色(けしき)ですが、太鼓橋(たいこばし)だった遊行寺橋(ゆぎょうじばし)は、明治(めいじ)になると人力車(じんりきしゃ)馬車(ばしゃ)通行(つうこう)対応(たいおう)するために、西洋式(せいようしき)(たい)らな(はし)()()えられました。

画中(がちゅう)にも、(はし)(うえ)(とお)人力車(じんりきしゃ)(うま)()えます。画面右(がめんみぎ)(はし)のたもとにある茶屋(ちゃや)らしき建物(たてもの)には(まど)がつけられており、ところどころに文明開化(ぶんめいかいか)影響(えいきょう)がみられます。
(うま)()っている人物(じんぶつ)外国人(がいこくじん)男性(だんせい)(おも)われます。
当時(とうじ)横浜(よこはま)居留地(きょりゅうち)滞在(たいざい)する外国人(がいこくじん)外出(がいしゅつ)十里(じゅうり)四方(しほう)(やく)40km)以内(いない)との制限(せいげん)がありました。藤沢宿(ふじさわしゅく)はその範囲(はんい)(ない)にあたるので、実際(じっさい)にもこのように外国人(がいこくじん)通行(つうこう)する場面(ばめん)があったのかもしれません。

三代広重(さんだいひろしげ)(えが)くこのシリーズは、明治前期(めいじぜんき)東海道各宿駅(とうかいどうかくしゅくえき)風景(ふうけい)(はな)やかな色彩(しきさい)(幕末(ばくまつ)から明治初期(めいじしょき)海外(かいがい)からあざやかな科学顔料(かがくがんりょう)(はい)使用(しよう)される)で(えが)かれています。

東海名所 改正道中記 八 藤沢

東海(とうかい)名所(めいしょ) 改正(かいせい)道中(どうちゅう)() (はち) 平塚(ひらつか)(まで)(さん)(はん) 藤澤(ふじさわ) ()のしまみちの鳥居(とりい)

製作時期(せいさくじき):慶応(けいおう)3(ねん)(1867)。
板元(はんもと):伊勢鉄(いせてつ)

ちりめん()一見(いっけん)(ちい)さな錦絵(にしきえ)のように()えますが、(じつ)和紙(わし)()った普通(ふつう)(おお)きさの錦絵(にしきえ)を、(ぼう)()きつけ(ちぢ)めて(つく)ったものです。 (ちか)くで()ると、ちりめんに()(こま)かい(しわ)があります。ちりめん()外国(がいこく)()けのものとして量産(りょうさん)され、クレープ・ジャポン(ちりめん(おり)をフランス()でクレープと()ぶ)、(りゃく)してクレポンと()ばれました。
当時(とうじ)比較的(ひかくてき)安価(あんか)()えたものであったらしく、画家(がか)のゴッホもちりめん()(おお)(あつ)めていたとされます。

人気(にんき)歌舞伎役者(かぶきやくしゃ)をゆかりの宿場(しゅくば)背景(はいけい)(えが)いたシリーズ。「一眼(ひとめ)(())千両(せんりょう)」とは、一目(ひとめ)()ただけで千両(せんりょう)という大金(たいきん)(はら)価値(かち)があるというたとえです。
上部(じょうぶ)風景(ふうけい)二代広重(にだいひろしげ)下部(かぶ)人物(じんぶつ)国周(くにちか)分担(ぶんたん)して()いています。

人物(じんぶつ)白波五人男(しらなみごにんおとこ)一人(ひとり)()(しま)(藤沢(ふじさわ))ゆかりの弁天小僧菊之助(べんてんこぞうきくのすけ)で、(ふん)するは四代市村家橘(よんだいいちむらかきつ)(のちの五代尾上菊五郎(ごだいおのえきくごろう))です。()女装(じょそう)した弁天小僧(べんてんこぞう)見栄(みえ)()って、有名(ゆうめい)な「()らざ()()って()かせやしょう」のセリフを()おうというところ。
背景(はいけい)藤沢宿(ふじさわしゅく)風景(ふうけい)は、初代広重(しょだいひろしげ)保永堂版(ほえいどうばん)東海道(とうかいどう)構図(こうず)使(つか)っています。右上(みぎうえ)文章(ぶんしょう)戯作者(げさくしゃ)山々亭有人(さんさんていありんど)()いています。

東海道一卜眼千両 藤沢 弁天小僧菊之助

東海道(とうかいどう)()()()(せん)(りょう) 藤沢(ふじさわ) 弁天小僧菊之助(べんてんこぞうきくのすけ)



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