ふりがな
江の島の歴史
江の島歴史年表
江の島散策マップ
江の島の文化財
江の島を訪れた人々
資料種類しりょうしゅるい(大分類だいぶんるい):
資料種類しりょうしゅるい(中分類ちゅうぶんるい):
資料種類しりょうしゅるい(小分類しょうぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(大分類だいぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(中分類ちゅうぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(小分類しょうぶんるい):
作者さくしゃ(50音分類おんぶんるい):
作者さくしゃ:
フリーワード:
曽我(そが)の仇討(あだう)ちで知(し)られる、曽我(そが)十郎(じゅうろう)祐成(すけなり)とその恋人(こいびと)である虎御前(とらごぜん)の二人(ふたり)が描(えが)かれています。曽我(そが)の仇討(あだう)ちとは、曽我(そが)十郎(じゅうろう)祐成(すけなり)と曽我(そが)五郎(ごろう)時致(ときむね)の兄弟(きょうだい)が、父親(ちちおや)の仇(あだ)を討(う)つ話(はなし)です。様々(さまざま)な舞台(ぶたい)の演目(えんもく)として上演(じょうえん)され、特(とく)に歌舞伎(かぶき)では人気(にんき)を博(はく)しました。本図(もとず)の十(じゅう)郎(ろう)は三(さん)代目(だいめ)沢村(さわむら)宗十郎(そうじゅうろう)を思(おも)わせると指摘(してき)されています。 背景(はいけい)は高麗山(こまやま)と小(こ)余(ゆる)綾(ぎ)の磯(いそ)を描(えが)いています。東海道(とうかいどう)を東(ひがし)から歩(ある)くと、本図(ほんず)のような光景(こうけい)が見(み)えていたものと思(おも)われます。
双(そう)筆(ひつ)五十三次(ごじゅうさんつぎ) 大磯(おおいそ)
富士山(ふじさん)を見上(みあ)げて眺(なが)めるように描(えが)かれているのは西行法師(さいぎょうほうし)です。平安時代(へいあんじだい)末期(まっき)から鎌倉時代(かまくらじだい)初期(しょき)にかけての僧侶(そうりょ)で、歌人(かじん)でもあります。奥州(おうしゅう)へと旅(たび)に出(で)るその道(みち)すがら富士山(ふじさん)についての和歌(わか)(風(かぜ)になびく富士(ふじ)の煙(けむり)の空(そら)に消(き)えてゆくへも知(し)らぬわが思(おも)ひかな)を詠(よ)んでいます。 西行法師(さいぎょうほうし)の視線(しせん)の先(さき)には富士山(ふじさん)が見(み)られますが、その手前(てまえ)には大(おお)きな松(まつ)の木(き)があります。吉原宿(よしわらしゅく)の手前(てまえ)、松(まつ)の並(なみ)木(き)の間(ま)から左手(ひだりて)側(がわ)に見(み)える富士山(ふじさん)が「左富士(ひだりふじ)」として有名(ゆうめい)であったことから選(えら)ばれたのでしょう。江戸(えど)から京(きょう)に向(む)かう道(みち)で自分(じぶん)の左側(ひだりがわ)に富士山(ふじさん)が見(み)える場所(ばしょ)は二(に)ヶ所(かしょ)しかありませんでした。(もう一(いち)ヶ所(かしょ)は南湖(なんご)の立場(たてば)です)まるでその場(ば)を歩(ある)いているかのような臨場(りんじょう)感(かん)を持(も)たせる演出(えんしゅつ)です。
双(そう)筆(ひつ)五十三次(ごじゅうさんつぎ) 吉原(よしわら)
月岡芳年(つきおかほうねん)の「大日本(だいにほん)名将(めいしょう)鑑(かがみ)」は明治(めいじ)初期(しょき)に刊行(かんこう)された全(ぜん)51点(てん)の浮世絵(うきよえ)からなるシリーズ物(もの)です。神話(しんわ)時代(じだい)から江戸時代(えどじだい)初期(しょき)までの、将軍(しょうぐん)・英雄(えいゆう)・戦国大名(せんごくだいみょう)などの「名将(めいしょう)」が描(えが)かれています。 この作品(さくひん)には、源頼朝(みなもとのよりとも)が由比ガ浜(ゆいがはま)で千羽(せんば)の鶴(つる)を解(と)き放(はな)ったとされる放生会(ほうじょうえ)の場面(ばめん)が描(えが)かれています。
大日本(だいにほん)名将(めいしょう)鑑(かがみ) 源頼朝(みなもとのよりとも)
源頼朝(みなもとのよりとも)は、文治(ぶんじ)元年(がんねん)(1185)、壇ノ浦(だんのうら)で平氏(へいし)を滅(ほろ)ぼしたのち、鎌倉(かまくら)で父(ちち)義朝(よしとも)の供養(くよう)を行(おこな)いました。右(みぎ)幕下(ばくか)とは右(う)近衛大将(このえたいしょう)(頼朝(よりとも))の居所(いどころ)、あるいは本人(ほんにん)を指(さ)す尊称(そんしょう)です。 重臣(じゅうしん)たちが居並(いなら)ぶ中(なか)で子(こ)の万寿(まんじゅ)丸(まる)(頼家(よりいえ))を肩(かた)に乗(の)せた頼朝(よりとも)が、左(ひだり)の軒下(のきした)に描(えが)かれています。背後(はいご)に付(つ)き添(そ)っているのは北条義時(ほうじょうよしとき)(北条時政(ほうじょうときまさ)の子(こ))。画(が)中(ちゅう)には当時(とうじ)の御家人(ごけにん)が一(ひと)とおり見(み)られ、左(ひだり)手前(てまえ)に比企能員(ひきよしかず)、右(みぎ)の階段(かいだん)には工藤祐経(くどうすけつね)。隣(となり)には失脚(しっきゃく)前(まえ)の梶原景時(かじわらかげとき)も描(えが)かれています。
鎌倉(かまくら)右(う)幕下(ばくか)焼香(しょうこう)場(ばの)の図(ず)
相撲(すもう)は神事(しんじ)として古代(こだい)から催(もよお)されていましたが、鎌倉幕府(かまくらばくふ)が編(へん)さんした『吾妻(あづま)鑑(かがみ)』には、頼朝(よりとも)が臨席(りんせき)して相撲(すもう)人(じん)や武士(ぶし)に相撲(すもう)を取(と)らせたという記事(きじ)が見受(みう)けられます。 作品(さくひん)では棟(とう)上(じょう)には、御家人(ごけにん)たち34名(めい)の名札(なふだ)が掲(かか)げられています。なお、土俵(どひょう)上(じょう)に組(く)み合(あ)う二人(ふたり)のうち、長居(ながい)の大(だい)力士(りきし)長居(ながい)は、当時(とうじ)天下無双(てんかむそう)と名高(なだか)かった力士(りきし)。右(みぎ)の本田次郎(ほんだじろう)近常(ちかつね)は、畠山重忠(はたけやましげただ)の郎党(ろうとう)です。行司(ぎょうじ)役(やく)の尾形(おがた)(緒方(おがた))三郎(さぶろう)惟義(これよし)は、義経(よしつね)追(つい)捕(ぶ)の際(さい)、義経(よしつね)と共(とも)に気仙沼(けせんぬま)へ向(む)かい、建久(けんきゅう)3年(ねん)(1190)に同地(どうち)の羽田神社(はだじんじゃ)を再興(さいこう)したといわれる武将(ぶしょう)です。
右(う)大将(たいしょう)頼朝(よりとも)公(こう)相撲(すもう)御覧(ごらんの)図(ず)
表題(ひょうだい)の宴(うたげ)は、建久(けんきゅう)4年(ねん)(1193)に頼朝(よりとも)が行(おこな)った富士(ふじ)の巻狩(まきが)りにあたっての祝(いわ)いの宴(うたげ)。巻狩(まきが)りを前(まえ)に血気(けっき)にはやる曽我(そが)五郎(ごろう)時宗(ときむね)(左手(ひだりて)、障子(しょうじ)の手前(てまえ))と、右手(みぎて)に座(すわ)る十郎(じゅうろう)祐成(すけなり)とを対照(たいしょう)的(てき)に描(えが)いています。中央(ちゅうおう)手前(てまえ)に座(すわ)るのが、和田義盛(わだよしもり)の子(こ)、小林(こばやし)朝比奈義秀(あさひなよしひで)。義秀(よしひで)の左(ひだり)には、大磯(おおいそ)廓(くるわ)の遊女(ゆうじょ)、化粧坂(けはいざか)の少将(しょうしょう)。右(みぎ)には同(どう)じく遊女(ゆうじょ)で十(じゅう)郎(ろう)祐成(すけなり)の妾(そばめ)、虎御前(とらごぜん)が描(えが)かれています。
和田義盛(わだよしもり)一門(いちもん)九(きゅう)十(じゅう)三(さん)騎(き)大磯(おおいそ)におゐて三日(みっか)三(み)夜宴(やうたげ)を催(もよお)す折(おり)から小林(こばやし)朝比奈義秀(あさひなよしひで)曽我(そがの)五郎(ごろう)時宗(ときむね)が血気(けっき)にはやるを止(とめ)て互(たがい)に力量(りきりょう)をあらはす図(ず)
六歌仙(ろっかせん)とは、『古今和歌集(こきんわかしゅう)』に記(しる)された六(ろく)人(にん)の代表(だいひょう)的(てき)な歌人(かじん)のことで、僧正遍昭(そうじょうへんじょう)、在原業平(ありわらのなりひら)、文屋康秀(ふんやのやすひで)、喜撰法師(きせんほうし)、小野小町(おののこまち)、大友黒主(おおとものくろぬし)の六(ろく)人(にん)を指(さ)し、彼(かれ)らを武者(むしゃ)に見立(みた)てています。それぞれ、僧正遍昭(そうじょうへんじょう)を源三位(げんざんみ)頼政(よりまさ)(右上(みぎうえ))、文屋康秀(ふんやのやすひで)を平忠度(たいらのただのり)(右下(みぎした))、小野小町(おののこまち)を建礼門院(けんれいもんいん)(中央(ちゅうおう)上(うえ))、在原業平(ありわらのなりひら)を源実朝(みなもとのさねとも)(中央(ちゅうおう)下(した))、大友黒主(おおとものくろぬし)を源頼朝(みなもとのよりとも)(左上(ひだりうえ))、喜撰法師(きせんほうし)に蓮生(れんしょう)坊(ぼう)(左下(ひだりした))に見立(みた)てていて、源平(げんぺい)の戦(たたか)いの物語(ものがたり)が下敷(したじ)きになっているようです。
見立(みたて)武者(むしゃ)六(ろく)歌仙(かせん)
頼朝(よりとも)の死後(しご)、鎌倉幕府(かまくらばくふ)は13人(にん)の御家人(ごけにん)等(とう)による合議制(ごうぎせい)となりましたが、正治(しょうじ)元年(がんねん)(1199)に梶原景時(かじわらかげとき)が弾劾(だんがい)され翌年(よくねん)死去(しきょ)します。建仁(けんにん)3年(ねん)(1203)に比企能員(ひきよしかず)が比企(ひき)の乱(らん)を起(お)こして失脚(しっきゃく)するなど、合議制(ごうぎせい)が崩(くず)れていき、ついに侍所(さむらいどころ)別当(べっとう)であった和田義盛(わだよしもり)も執権(しっけん)北条義時(ほうじょうよしとき)と不和(ふわ)が生(しょう)じて、幕政(ばくせい)を揺(ゆ)るがす和田合戦(わだがっせん)へと発展(はってん)すると、義盛(よしもり)は戦死(せんし)し、一族(いちぞく)は滅亡(めつぼう)しました。
建(けん)保元(ぽがん)夏(なつ)五月(ごがつ) 和田(わだ)大(だい)合戦(かっせん)