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江の島の歴史
江の島歴史年表
江の島散策マップ
江の島の文化財
江の島を訪れた人々
資料種類しりょうしゅるい(大分類だいぶんるい):
資料種類しりょうしゅるい(中分類ちゅうぶんるい):
資料種類しりょうしゅるい(小分類しょうぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(大分類だいぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(中分類ちゅうぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(小分類しょうぶんるい):
作者さくしゃ(50音分類おんぶんるい):
作者さくしゃ:
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大正(たいしょう)6年(ねん)(1917)、結核(けっかく)を疑(うたが)われた劉生(りゅうせい)は、友人(ゆうじん)の武者小路実篤(むしゃのこうじさねあつ)の住(す)んでいた藤沢市鵠沼(ふじさわしくげぬま)の貸(か)し別荘(べっそう)に転地療養(てんちりょうよう)の目的(もくてき)で居住(きょじゅう)しました。大正(たいしょう)7年(ねん)頃(ごろ)から娘(むすめ)の麗子(れいこ)の肖像(しょうぞう)を描(えが)くようになり、また、大正(たいしょう)13年(ねん)頃(ごろ)からは、浮世絵(うきよえ)や宋元画(そうげんが) の鑑賞(かんしょう)や収集(しゅうしゅう)が始(はじ)まっていきました。ルネッサンスの写実(しゃじつ)でもなお不足(ふそく)を感(かん)ずる劉生(りゅうせい)は東洋(とうよう)に回帰(かいき)してきます。作品(さくひん)はそう言(い)う傾向(けいこう)で描(えが)かれた村娘(むらむすめ)図(ず)のひとつと思(おも)われ、南画(なんが) 的(てき)な自由(じゆう)な筆致(ひっち)で描(えが)かれています。
村(そん)嬢(じょう)図(ず)
大判(おおばん)横(よこ)1枚(まい) 縦(たて)24.9 横(よこ)37.2 制作(せいさく)時期(じき):文政(ぶんせい)年間(ねんかん)(1818~30)頃(ころ)。板元(はんもと)印(しるし)なし 辰斎(しんさい)の洋風(ようふう)表現(ひょうげん)の錦絵(にしきえ)の代表作(だいひょうさく)の一(ひと)つで、絵(え)の周囲(しゅうい)に額縁(がくぶち)のように囲(かこ)みをつくり、そこにオランダ東(ひがし)インド会社(がいしゃ)のマークであるVOCやHOLLANDなどの文字(もじ)を入(い)れて洋画(ようが)的(てき)な雰囲気(ふんいき)を出(だ)すやり方(かた)は、ほかに北寿(ほくじゅ)や英泉(えいせん)など何(なん)人(にん)かの絵師(えし)の作品(さくひん)に見(み)られ、一種(いっしゅ)のはやりであったのかも知(し)れません。七里ガ浜(しちりがはま)は画面(がめん)の構成(こうせい)上(じょう)遠近(えんきん)感(かん)を出(だ)しやすかったのか、他(た)の絵師(えし)も洋風(ようふう)的(てき)な浮世絵(うきよえ)として制作(せいさく)しているものに多(おお)くみられます。この作品(さくひん)は洋風画(ようふうが)家(か)として知(し)られる司馬江漢(しばこうかん)の描(えが)いた肉筆(にくひつ)の「相州(そうしゅう)鎌倉(かまくら)七里浜(しちりがはま)図(ず)」に類似(るいじ)しており、中(なか)でも手前(てまえ)の浜辺(はまべ)にいる二人(ふたり)の漁師(りょうし)の姿(すがた)はほぼ同(おな)じで、また波(なみ)の表現(ひょうげん)にも共通(きょうつう)の部分(ぶぶん)があるので、江漢(こうかん)の作品(さくひん)を参考(さんこう)にした可能性(かのうせい)も考(かんが)えられます。というのは江漢(こうかん)の作品(さくひん)が、奉納(ほうのう)額(がく)として芝(しば)愛宕山(あたごやま)に掲(かか)げられていたからです。
相州(そうしゅう)七里(しちりが)浜(はま)
女性(じょせい)2名(めい)が伴(とも)の男性(だんせい)を連(つ)れて江の島(えのしま)詣(もうで)に来(き)たというよく見(み)られる構図(こうず)ですが、左手(ひだりて)にさざえを売(う)る子(こ)どもが描(えが)かれているのは珍(めずら)しい作品(さくひん)です。また右手(みぎて)、松(まつ)の背景(はいけい)には桜(さくら)が咲(さ)いており、季節(きせつ)は4月(しがつ)頃(ごろ)であるのを示(しめ)しています。 作者(さくしゃ)の二代(にだい)喜多川歌麿(きたがわうたまろ)は初代(しょだい)歌麿(うたまろ)の弟子(でし)として、歌麿(うたまろ)の没後(ぼつご)に師(し)の名(な)を継(つ)ぎました。初代(しょだい)歌麿(うたまろ)の画風(がふう)に忠実(ちゅうじつ)な美人(びじん)画(が)を描(えが)いた絵師(えし)として知(し)られています。
優草(なとりぐさ)名所(めいしょ)風景(ふうけい)
明治(めいじ)13年(ねん)(1880年に東京(とうきょう)の新富座(しんとみざ)で上演(じょうえん)された歌舞伎舞踊(かぶきぶよう)「首尾(しゅびも)四谷(よつや)(しゅびもよつや)色(いろに)大山(おおやま)(いろにおおやま)」を描(えが)いた作品(さくひん)です。大山(おおやま)詣(もうで)を題材(だいざい)にした演目(えんもく)で、題名(だいめい)は「首尾(しゅび)も良(よ)し」の“よし”に、大山道(おおやまみち)(おおやまみち)入口(いりぐち)の地名(ちめい)「四(よ)ツ谷(や)(よつや)」(藤沢市城南(ふじさわしじょうなん))の“よつ”を掛(か)けたものです。 主要人物(しゅようじんぶつ)7人(にん)(展示(てんじ)では6人(にん)分(ぶん))を役者(やくしゃ)の似顔(にがお)で一(いち)枚(まい)ずつ描(えが)いています。
大山(おおやま)詣(まいり)役者(やくしゃ)見立(みたて) 瀧元(たきもと)のおやま 岩井半四郎(いわいはんしろう)
雪景色(ゆきげしき)の藤沢宿(ふじさわしゅく)の景色(けしき)が描(えが)かれています。後(うし)ろに見(み)える欄干(らんかん)は遊行寺(ゆぎょうじ)橋(ばし)のものです。
東海道五十三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ) 藤沢(ふじさわ)
「酒匂川(さかわがわ)かち渡(わたし)(徒(かち)渡(わた)し)」とあるように、酒匂川(さかわがわ)の渡(わた)しの場面(ばめん)が描(えが)かれています。 酒匂川(さかわがわ)は人足(にんそく)による徒(かち)渡(わた)しが行(おこな)われていました。徒(かち)渡(わた)しは、運(はこ)ぶ人足(にんそく)の数(かず)や乗(の)り物(もの)の種類(しゅるい)、川(かわ)の深(ふか)さで料金(りょうきん)が変(か)わりました。画(が)中(ちゅう)の女性(じょせい)が乗(の)っているのは平(ひら)輦台(れんだい)です。
東海道五十三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ) 小田原(おだわら)
ここから見(み)える富士山(ふじさん)は、東海道(とうかいどう)を西(にし)に進(すす)む際(さい)に街道(かいどう)の左手(ひだりて)に見(み)えることから「左富士(ひだりふじ)」と呼(よ)ばれ、東海道(とうかいどう)中(ちゅう)では南湖(なんご)と吉原宿(よしわらしゅく)の二(に)ヶ所(かしょ)のみで見(み)ることの出来(でき)る希少(きしょう)な景色(けしき)でした。
東海道五十三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ) 吉原(よしわら)
興津(おきつ)宿(やど)と由井(ゆい)宿(やど)の間(あいだ)にそびえる薩(さつ)埵(た)峠(とうげ)を、興津(おきつ)側(がわ)から見(み)た景色(けしき)を描(えが)いています。この薩(さっ)埵(た)峠(とうげ)から見(み)る富士山(ふじさん)は絶景(ぜっけい)として知(し)られていました。後景(こうけい)に広(ひろ)がる空(そら)は朝焼(あさや)けの相(そう)をなし、山道(さんどう)を登(のぼ)った先(さき)には素晴(すば)らしい絶景(ぜっけい)がみられるであろうことが想像(そうぞう)されます。 元々(もともと)は東海道(とうかいどう)は崖(がけ)下(した)の海沿(うみぞ)いを通(とお)っていましたが、荒波(あらなみ)が打(う)ち付(つ)け「親知(おやし)らず子知(こし)らず」と例(たと)えられるほど危険(きけん)な道(みち)でした。富士山(ふじさん)の絶景(ぜっけい)がみられる山道(さんどう)は新(あたら)しく作(つく)られた道(みち)です。
東海道五十三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ) 由井(ゆい)