ふりがな
江の島の歴史
江の島歴史年表
江の島散策マップ
江の島の文化財
江の島を訪れた人々
資料種類しりょうしゅるい(大分類だいぶんるい):
資料種類しりょうしゅるい(中分類ちゅうぶんるい):
資料種類しりょうしゅるい(小分類しょうぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(大分類だいぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(中分類ちゅうぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(小分類しょうぶんるい):
作者さくしゃ(50音分類おんぶんるい):
作者さくしゃ:
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鞠子宿(まりこしゅく)(現在(げんざい)は丸子(まるこ))は東海道(とうかいどう)で最(もっと)も小(ちい)さな宿駅(しゅくえき)でしたが、宇津(うつ)之(の)谷(や)峠(とうげ)を控(ひか)えた休憩(きゅうけい)地(ち)として賑(にぎ)わっていました。名物(めいぶつ)はとろろ汁(じる)で、画(が)中(ちゅう)にもその文字(もじ)がみられます。
東海道五十三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ) 鞠子(まりこ)
浜名湖(はまなこ)の今(いま)切(ぎれ)の渡(わたし)しをすすむ舟(ふね)が描(えが)かれています。舞坂(まいさか)宿(しゅく)は、浜名湖(はまなこ)南部(なんぶ)の東岸(とうがん)にある宿場(しゅくば)です。ここから浜名湖(はまなこ)を渡(わた)るには、今(いま)切(ぎれ)の渡(わた)しを舟(ふね)で渡(わた)りました
東海道五十三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ) まい坂(さか)
桑名宿(くわなしゅく)と宮宿(みやじゅく)をつなぐ「海上(かいじょう)七(しち)里(り)の渡(わた)し」は東海道(とうかいどう)中(ちゅう)で唯一(ゆいいつ)の海路(かいろ)であり、七里(しちり)(約(やく)28km)を四(よ)時間(じかん)かけての航路(こうろ)でした。 桑名(くわな)の焼(や)き蛤(はまぐり)は東海道五十三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ)の宿場(しゅくば)の名物(めいぶつ)の中(なか)で最(もっと)も有名(ゆうめい)と言(い)えるもので、この画(え)でも店先(みせさき)で焼(や)いています。
東海道五十三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ) 桑名(くわな)
両側(りょうがわ)を崖(がけ)に囲(かこ)まれた険(けわ)しい鈴鹿(すずか)峠(とうげ)の山道(さんどう)を、旅人(たびびと)たちが行(い)きかっています。合羽(かっぱ)や蓑(みの)などの服装(ふくそう)から雨模様(あめもよう)であることも伺(うかが)えます。 土山(つちやま)は雨(あめ)が多(おお)いところとしても知(し)られており、他(た)の浮世絵(うきよえ)作品(さくひん)でも土山(つちやま)の場面(ばめん)では雨(あめ)の情景(じょうけい)が描(えが)かれていることが多(おお)いです。 師(し)である初代(しょだい)広重(ひろしげ)の図柄(ずがら)を合成(ごうせい)したような図柄(ずがら)で、雨(あめ)が激(はげ)しく降(ふ)る感(かん)じは保永(ほえい)堂(どう)版(ばん)からの拝借(はいしゃく)で、山間(さんかん)の風景(ふうけい)は狂歌(きょうか)入(いり)東海道(とうかいどう)からの拝借(はいしゃく)であろう。傘(かさ)をさす女性(じょせい)の配置(はいち)に無理(むり)を感(かん)じますが、必(かなら)ず女性(じょせい)が描(えが)かれるこの揃(そろ)いものの特徴(とくちょう)にもなっています。
東海道五十三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ) 土山(つちやま)
草津(くさつ)名物(めいぶつ)の姥(うば)が餅(もち)を売(う)る茶屋(ちゃや)の風景(ふうけい)です。駕籠(かご)が店(みせ)前(まえ)で止(と)まり、茶屋(ちゃや)の繁盛(はんじょう)している様子(ようす)が描(えが)かれています。 草津宿(くさつしゅく)は、中山道(なかせんどう)と合流(ごうりゅう)する地点(ちてん)であり、旅人(たびびと)だけではなく、かなりの物流(ぶつりゅう)の行(い)き来(き)がありました。描(えが)かれた茶屋(ちゃや)は、草津(くさつ)の名物(めいぶつ)の姥(うばが)餅屋(もちや)です。
東海道五十三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ) 草津(くさつ)
江戸時代(えどじだい)、道中双六(どうちゅうすごろく)は数多(かずおお)く作(つく)られました。特(とく)に多(おお)かったのが東海(とうかい)道中双六(どうちゅうすごろく)でした。この双六(すごろく)は、江戸(えど)から京都(きょうと)に向(む)かう途中(とちゅう)、伊勢神宮(いせじんぐう)に立(た)ち寄(よ)る経路(けいろ)で描(えが)かれています。右下(みぎした)が振(ふ)り出(だ)しの日本橋(にほんばし)、右(みぎ)上(うえ)が上(あ)がりの京都(きょうと)です。画(が)は実際(じっさい)の地理(ちり)とは異(こと)なるダイナミックな構図(こうず)を用(もち)い、東海道(とうかいどう)が富士山(ふじさん)を取(と)り囲(かこ)んでいるかのように強調(きょうちょう)されています。
参宮(さんぐう)上京(じょうきょう)道中(どうちゅう)一覧(いちらん)双六(すごろく)
石橋(いしばし)山(やま)の合戦(かっせん)のエピソードのひとつに「頼朝(よりとも)の伏(ふし)木隠(きがく)れ」があります。頼朝(よりとも)が石橋(いしばし)山(やま)の合戦(かっせん)に敗(やぶ)れた後(のち)、山中(さんちゅう)の伏木(ふしき)に隠(かく)れているのを、捜索(そうさく)していた梶原景時(かじわらかげとき)が姿(すがた)を見(み)つけましたが、味方(みかた)には「だれもいない」と告(つ)げやりすごし、頼朝(よりとも)を助(たす)けたというもので、浮世絵(うきよえ)でもよく取(と)り上(あ)げられる画題(がだい)です。 本作(ほんさく)では、梶原景時(かじわらかげとき)ではなく、平家(へいけ)方(かた)の大将(たいしょう)格(かく)である大庭景親(おおばかげちか)が大(おお)きく描(えが)かれ、その下(した)の洞穴(ほらあな)に「源頼朝(みなもとのよりとも)卿(きょう)」らが潜(ひそ)んでいるさまが描(えが)かれています。画(が)中(ちゅう)の左下(ひだりした)には、頼朝(よりとも)に付(つ)き従(したが)って洞穴(ほらあな)に隠(かく)れた武将(ぶしょう)の名(な)が記(しる)されています。(安達(あだち))藤(ふじ)九郎(くろう)盛長(もりなが)、土屋(つちや)三郎(さぶろう)宗(むね)遠(とお)、岡崎(おかざき)四郎(しろう)義真(よしざね)(実(ざね))、新開(しんかい)次郎(じろう)忠(ただうじ)氏(し)、土肥(どい)次郎(じろう)実平(さねひら)、土肥(どい)遠(とお)平(っひら)。軍記物(ぐんきもの)では居(い)たと記(しる)されている田代信綱(たしろのぶつな)の名(な)は見(み)えません。
石橋(いしばし)山伏(やまぶし)木隠(きがくれ) 大場(おおば)三郎(さぶろう)景親(かげちか)
石橋(いしばし)山(やま)合戦(かっせん)は、平安時代(へいあんじだい)末期(まっき)の治(じ)承(しょう)4年(ねん)(1180)に源頼朝(みなもとのよりとも)と大庭景親(おおばかげちか)ら平家(へいけ)の一族(いちぞく)との間(あいだ)で行(おこな)われた戦(たたか)いです。組討(くみうち)ちとは、戦場(せんじょう)で敵(てき)将(しょう)を組(く)み伏(ふ)せてその首(くび)を取(と)ることで、「武勇(ぶゆう)高名(こうみょう)組討(くみうち)撰(せん)」は中世(ちゅうせい)の合戦(かっせん)の物語(ものがたり)の中(なか)で高名(こうみょう)な「組討(くみうち)」シーンを描(えが)いたシリーズです。画面(がめん)左(ひだり)が頼朝(よりとも)方(かた)の真田(さなだ)義忠(よしただ)、右(みぎ)が平家(へいけ)方(かた)の俣野(またの)景久(かげひさ)です。戦(たたか)いは一度(いちど)義忠(よしただ)の有利(ゆうり)に働(はたら)きましたが、景久(かげひさ)の加勢(かせい)にかけつけた長尾(ながお)新五(しんご)とその弟(おとうと)の新(しん)六(ろく)の手(て)により討(う)たれてしまいました。登場(とうじょう)する武将(ぶしょう)たちの名前(なまえ)は本拠(ほんきょ)とした地名(ちめい)になっており、真田(さなだ)は平塚市内(ひらつかしない)、俣野(またの)は横浜市戸塚区(よこはましとつかく)・藤沢市(ふじさわし)辺(あたり)、長尾(ながお)は横浜市栄区(よこはましさかえく)辺(あたり)にあります。
武勇(ぶゆう)高名(こうみょう)組討(くみうち)撰(せん) 股野(またの)五郎(ごろう)景久(かげひさ) 真田(さなだ)与一(よいち)義忠(よしただ)