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江の島の歴史
江の島歴史年表
江の島散策マップ
江の島の文化財
江の島を訪れた人々
資料種類しりょうしゅるい(大分類だいぶんるい):
資料種類しりょうしゅるい(中分類ちゅうぶんるい):
資料種類しりょうしゅるい(小分類しょうぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(大分類だいぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(中分類ちゅうぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(小分類しょうぶんるい):
作者さくしゃ(50音分類おんぶんるい):
作者さくしゃ:
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鎌倉時代(かまくらじだい)の武将(ぶしょう)を六歌仙(ろっかせん)に見立(みた)てて風刺(ふうし)した戯画(ぎが)です。各人(かくじん)の隣(となり)にそれぞれ掲(かか)げられた札(ふだ)の文言(もんごん)には、彼(かれ)らの歴史(れきし)的(てき)な状況(じょうきょう)が皮肉(ひにく)を交(まじ)えて書(か)かれています。幕末(ばくまつ)に日本(にっぽん)で起(お)きた革命(かくめい)のさなかにおける諸(しょ)勢力(せいりょく)も暗示(あんじ)されているようです。
歌留多(かるた)あわせ 鎌(かま)蔵(くら)武勇(ぶゆう)六家(ろっか)仙(せん)
本図(ほんず)の弁財天(べんざいてん)は、八(はっ)臂(ぴ)(八本(はっぽん)の腕(うで))の姿(すがた)で、頭上(ずじょう)には鳥居(とりい)と蛇(へび)の頭上(ずじょう)には鳥居(とりい)と蛇(へび)の姿(すがた)の宇賀神(うがじん)(日本(にっぽん)古来(こらい)の穀物(こくもつ)神(しん))を戴(いただ)いています。これは宇賀神(うがじん)と習合(しゅうごう)し、福神(ふくじん)としての側面(そくめん)を強(つよ)めた日本(にっぽん)独自(どくじ)の弁財天(べんざいてん)です。持物(もちもの)が琵琶(びわ)ではなく、武具(ぶぐ)であることから、戦闘(せんとう)神(しん)としての性質(せいしつ)が強(つよ)く表(あらわ)されています。 図面(ずめん)下部(かぶ)には眷属(けんぞく)である十五(じゅうご)童子(どうじ)が描(えが)かれています。『江嶋(えのしま)縁起(えんぎ)』によると弁財天(べんざいてん)は欽明天皇(きんめいてんのう)13年(ねん)(552)に大地(だいち)振動(しんどう)して江の島(えのしま)が海底(かいてい)より出現(しゅつげん)した際(さい)に、眷属(けんぞく)である十五(じゅうご)童子(どうじ)とともに降(お)り立(た)ったとされています。
弁才天(べんざいてん)十(じゅう)五(ご)童子(どうじ)像(ぞう)
本作(ほんさく)は、舟遊(ふなあそ)びしている女性(じょせい)たちを七福神(しちふくじん)に見立(みた)てた絵(え)(古典的(こてんてき)主題(しゅだい)を江戸時代(えどじだい)当時(とうじ)の風俗(ふうぞく)に置(お)き換(か)えて描(えが)かれた絵(え)・見立絵(みたてえ))です。 画面(がめん)の人物(じんぶつ)は九(きゅう)人(にん)ですが、2人(ふたり)の子(こ)どもを除(のぞ)いた七(なな)人(にん)の美人(びじん)と若者(わかもの)が、それぞれ七福神(しちふくじん)に当(あ)てはめられ、様々(さまざま)な縁起物(えんぎもの)と共(とも)に描(えが)かれています。 落款(らっかん)(絵師(えし)のサイン)を見(み)ると「歌麿(うたまろ)書初(かきぞめ)」とあり、新春(しんしゅん)に向(む)けて描(えが)かれた、おめでたい絵(え)であることが伝(つた)わってきます。
(題名(だいめい)不詳(ふしょう))見立(みたて)七福神(しちふくじん)舟遊(ふなあそ)び
片瀬山(かたせやま)(宮畑(みやばた)北(きた))遺跡(いせき)は、江ノ島電鉄(えのしまでんてつ)柳小路駅(やなぎこうじえき)の東方(とうほう)約(やく)600mの位置(いち)にあります。標高(ひょうこう)約(やく)68mを測(はか)る通称(つうしょう)片瀬山(かたせやま)丘陵(きゅうりょう)の最高(さいこう)所(しょ)で、片瀬川(かたせがわ)(境川(さかいがわ)下流(かりゅう)部(ぶ)の呼称(こしょう))の東岸(とうがん)に広(ひろ)がる住宅地(じゅうたくち)の北端(ほくたん)にあたります。 1992年(ねん)(平成(へいせい)4年(ねん))、鉄塔(てっとう)建設工事(けんせつこうじ)にともない発掘調査(はっくつちょうさ)が行(おこな)われ、縄文時代(じょうもんじだい)草創(そうそう)期(き)の土器(どき)や石器(せっき)が確認(かくにん)されています。
片瀬山(かたせやま)(宮畑(みやばた)北(きた))遺跡(いせき)
片瀬大源太(かたせおおげんた)遺跡(いせき)は、江ノ島電鉄(えのしまでんてつ)石上駅(いしがみえき)の東方(とうほう)約(やく)500m、いわゆる湘南(しょうなん)砂丘(さきゅう)の東縁(とうえん)にあたる境川(さかいがわ)の左岸(さがん)に面(めん)した標高(ひょうこう)8m前後(ぜんご)の砂丘(さきゅう)低地(ていち)にあります。これまでに数次(すうじ)にわたって発掘調査(はっくつちょうさ)がされました。 その結果(けっか)、縄文時代(じょうもんじだい)の前期(ぜんき)や晩期(ばんき)の遺物(いぶつ)をはじめ、弥生時代(やよいじだい)の遺構(いこう)や遺物(いぶつ)が確認(かくにん)されるとともに、古墳時代(こふんじだい)から奈良(なら)・平安時代(へいあんじだい)にかけて集落(しゅうらく)が営(いとな)まれていたことが明(あき)らかになりました。また、古墳時代(こふんじだい)の遺物(いぶつ)の中(なか)で、これまでに藤沢市内(ふじさわしない)では出土(しゅつど)例(れい)のない変形(へんけい)四(し)獣(じゅう)鏡(きょう)は、たいへん貴重(きちょう)な資料(しりょう)となっています。
片瀬大源太(かたせおおげんた)遺跡(いせき)
川名(かわな)新林(しんばやし)横穴墓群(おうけつぼぐん)は、JR東海道線(とうかいどうせん)藤沢駅(ふじさわえき)の南東(なんとう)約(やく)1kmの地点(ちてん)、通称(つうしょう)片瀬山(かたせやま)の北端(ほくたん)部(ぶ)に位置(いち)しています。 丘陵(きゅうりょう)頂部(ちょうぶ)の標高(ひょうこう)は約(やく)40mを測(はか)り、この丘陵(きゅうりょう)の斜面(しゃめん)に3段(だん)にわたって、古墳時代(こふんじだい)の横穴墓(おうけつぼ)が分布(ぶんぷ)していました。 小学校(しょうがっこう)建設(けんせつ)や落石(らくせき)防護(ぼうご)工事(こうじ)にともない数次(すうじ)の発掘調査(はっくつちょうさ)が行(おこな)われ、横穴墓(おうけつぼ)内(ない)からは、土師器(はじき)や須恵器(すえき)などの土器(どき)とともに、金属(きんぞく)製品(せいひん)(青銅(せいどう)製品(せいひん)・鉄(てつ)製品(せいひん))が確認(かくにん)されています。 なお右(みぎ)西(にし)斜面(しゃめん)2号(ごう)墓(ぼ)から出土(しゅつど)した金銅装単鳳環頭大刀(こんどうそうたんほうかんとうたち)は現在(げんざい)、藤沢市(ふじさわし)の指定(してい)重要文化財(じゅうようぶんかざい)となっています。
川名(かわな)新林(しんばやし)横穴墓群(おうけつぼぐん)
西富(にしとみ)貝塚(かいづか)は、藤沢山清浄光寺(とうたくさんしょうじょうこうじ)(遊行寺(ゆぎょうじ))の北側(きたがわ)の標高(ひょうこう)50mの台地(だいち)上(じょう)に所在(しょざい)しています。1976年(ねん)(昭和(しょうわ)51年(ねん))には、その一部(いちぶ)が藤沢市(ふじさわし)指定(してい)史跡(しせき)となり、現地(げんち)保存(ほぞん)されています。 これまでに数次(すうじ)の発掘調査(はっくつちょうさ)が行(おこな)われ、縄文時代(じょうもんじだい)の土器(どき)や石器(せっき)をはじめ、古墳時代(こふんじだい)後期(こうき)の埴輪(はにわ)や奈良(なら)・平安時代(へいあんじだい)の土師器(はじき)や須恵器(すえき)などが出土(しゅつど)していますが、その中心(ちゅうしん)は縄文時代(じょうもんじだい)後期(こうき)の集落(しゅうらく)と貝塚(かいづか)です。
西富(にしとみ)貝塚(かいづか)
折戸(おりど)遺跡(いせき)はJR東海道線(とうかいどうせん)辻堂駅(つじどうえき)の北方(ほっぽう)約(やく)1.2km、市内(しない)南部(なんぶ)に拡(ひろ)がる砂丘(さきゅう)低地(ていち)の北限(ほくげん)に位置(いち)しています。本(ほん)遺跡(いせき)は新湘南(しんしょうなん)バイパス建設(けんせつ)に伴(ともな)い発掘調査(はっくつちょうさ)が行(おこな)われ、その結果(けっか)中世(ちゅうせい)から近世(きんせい)にかけての溝(みぞ)状(じょう)遺構(いこう)・井戸(いど)跡(あと)などが確認(かくにん)されました。この溝(みぞ)状(じょう)遺構(いこう)は水田(すいでん)に関連(かんれん)する遺構(いこう)と考(かんが)えられ、中(ちゅう)近世(きんせい)の砂丘(さきゅう)間(かん) 凹地(くぼち)の利用(りよう)を考(かんが)える上(うえ)で貴重(きちょう)な発見(はっけん)となりました。
折戸(おりど)遺跡(いせき)