ふりがな
江の島の歴史
江の島歴史年表
江の島散策マップ
江の島の文化財
江の島を訪れた人々
資料種類しりょうしゅるい(大分類だいぶんるい):
資料種類しりょうしゅるい(中分類ちゅうぶんるい):
資料種類しりょうしゅるい(小分類しょうぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(大分類だいぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(中分類ちゅうぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(小分類しょうぶんるい):
作者さくしゃ(50音分類おんぶんるい):
作者さくしゃ:
フリーワード:
本朝(ほんちょう)名将(めいしょう)鏡(かがみ) 北條(ほうじょう)左京大夫(さきょうのだいぶ)氏康(うじやす)
子供(こども)と母親(ははおや)が日本橋(にほんばし)を渡(わた)る様子(ようす)が描(えが)かれています。子供(こども)の右手(みぎて)には槍持(やりもち)(やりもち)をかたどった人形(にんぎょう)が見(み)えます。槍持(やりもち)とは、この場合(ばあい)は毛槍(けやり)を担(かつ)いで大名行列(だいみょうぎょうれつ)の先頭(せんとう)を歩(ある)く人(ひと)を指(さ)します。 後(うし)ろのコマには日本橋(にほんばし)の橋桁(はしげた)が近景(きんけい)に大(おお)きく配(はい)されています。遠景(えんけい)には富士山(ふじさん)と江戸城(えどじょう)が見(み)え、いかにも日本橋(にほんばし)の名所絵(めいしょえ)らしい表現(ひょうげん)となっています。
双(そう)筆(ひつ)五十三次(ごじゅうさんつぎ) 日本橋(にほんばし)
身支度(みじたく)をする女性(じょせい)とそれを手伝(てつだ)う女性(じょせい)が描(えが)かれています。旅籠屋(はたごや)の飯盛女(めしもりおんな)(めしもりおんな)あるいは芸者(げいしゃ)かもしれません。幕府(ばくふ)公認(こうにん)の遊郭(ゆうかく)は吉原(よしわら)だけだったので、品川(しながわ)をはじめとした数々(かずかず)の岡場所(おかばしょ)には飯盛女(めしもりおんな)の名目(めいもく)で遊女(ゆうじょ)がおかれていました。 コマ絵(え)には品川宿(しながわしゅく)から臨(のぞ)んだ江戸湾(えどわん)の様子(ようす)です。画面(がめん)の右下(みぎした)に品川宿(しながわしゅく)の宿場(しゅくば)の様子(ようす)が見(み)えます。この付近(ふきん)は景勝地(けいしょうち)として栄(さか)えており、この江戸湾(えどわん)の眺(なが)めもそのうちの一(ひと)つでした。
双(そう)筆(ひつ)五十三次(ごじゅうさんつぎ) 品川(しながわ)
右側(みぎがわ)の少年(しょうねん)が持(も)っている柄杓(ひしゃく)は伊勢参(いせまい)りのためであると考(かんが)えられます。親(おや)や主人(しゅじん)に許可(きょか)なく、子(こ)どもや奉公人(ほうこうにん)が伊勢神宮(いせじんぐう)に行(い)くのを「抜(ぬ)け参(まい)り」(ぬけまいり)といい、その際(さい)にお金(かね)を持(も)たずに出(で)ている人(ひと)は柄杓(ひしゃく)を持(も)っていました。その柄杓(ひしゃく)を道中(どうちゅう)の人々(ひとびと)に差(さ)し出(だ)すと、恵(めぐ)んだ方(ほう)もそれが功徳(くどく)になります。 コマ絵(え)には金沢街道(かなざわかいどう)が描(えが)かれています。遠景(えんけい)に見(み)えている山(やま)は富士山(ふじさん)で、手前(てまえ)には野原(のはら)が広(ひろ)がっています。一見(いっけん)何(なん)の変哲(へんてつ)もない場所(ばしょ)のようにも見(み)えますが、東海道(とうかいどう)から分(わ)かれて鎌倉(かまくら)に通(つう)じるこの金沢街道(かなざわかいどう)は人通(ひとどお)りが多(おお)い人気(にんき)の街道(かいどう)であったといいます。わざわざこの街道(かいどう)を描(えが)いたのは、保土ヶ谷宿(ほどがやしゅく)が多(おお)くの道(みち)に分岐(ぶんき)する交通(こうつう)の要所(ようしょ)であったことを示(しめ)したかったためかもしれません。
双(そう)筆(ひつ)五十三次(ごじゅうさんつぎ) 程(ほど)がや
旅籠屋(はたごや)での場面(ばめん)が描(えが)かれています。女性(じょせい)は鉄漿(おはぐろ)(おはぐろ)をしていて宴会(えんかい)用(よう)の酒(さけ)や肴(さかな)を運(はこ)んでいるようです。楽(たの)しみに待(ま)つ男性(だんせい)の様子(ようす)が表情(ひょうじょう)や動(うご)きから伝(つた)わってきます。 戸塚宿(とつかしゅく)は江戸(えど)からおよそ十里(じゅうり)半(はん)(約(やく)42km)で、江戸(えど)から出発(しゅっぱつ)した旅人(たびびと)の多(おお)くはここで一泊(いっぱく)目(め)を過(す)ごしました。坂道(さかみち)が描(えが)かれている通(とお)り、戸塚宿(とつかしゅく)にはいくつか坂(さか)があり、保土ヶ谷宿(ほどがやしゅく)との間(あいだ)にある権太坂(ごんたざか)(ごんたざか)は難所(なんしょ)としても有名(ゆうめい)でした。
双(そう)筆(ひつ)五十三次(ごじゅうさんつぎ) 戸塚(とつか)
「三島(みしま)のおせん」という江戸時代(えどじだい)の芝居(しばい)に登場(とうじょう)する人物(じんぶつ)が描(えが)かれています。いくつかの演目(えんもく)に登場(とうじょう)するおせんですが、中(なか)には盗賊(とうぞく)として描(えが)かれているものもあり、本図(ほんず)はそれを意識(いしき)しているものだと考(かんが)えられます。 コマ絵(え)はおそらく大場川(だいばがわ)(だいばがわ)が描(えが)かれていると思(おも)われ、東側(ひがしがわ)から進(すす)むと急(きゅう)こう配(ばい)の坂(さか)を進(すす)んで大場川(だいばがわ)に架(か)かる新町橋(しんまちばし)を渡(わた)る、といったルートになります。三島宿(みしましゅく)を目(め)の前(まえ)に、緊張感(きんちょうかん)をもって進(すす)まなければならないルートであることが本図(ほんず)からも読(よ)み取(と)れます。
双(そう)筆(ひつ)五十三次(ごじゅうさんつぎ) 三島(みしま)
この二人(ふたり)は「伊賀越(いがごえ)道中双六(どうちゅうすごろく)(いがごえどうちゅうすごろく)」に登場(とうじょう)する、重(じゅう)兵衛(べえ)(じゅうべえ)とお米(よね)(およね)です。人形浄瑠璃(にんぎょうじょうるり)や歌舞伎(かぶき)で上演(じょうえん)されていた演目(えんもく)で、実際(じっさい)に起(お)こった事件(じけん)である「伊賀越(いがごえ)の仇討(あだう)ち」がモデルになっています。この事件(じけん)は忠臣蔵(ちゅうしんぐら)、曽我(そが)の仇討(あだう)ちとともに三(さん)大(だい)仇討(あだう)ちのうちのひとつとして知(し)られています。本図(ほんず)の重(じゅう)兵衛(べえ)は三(さん)代目(だいめ)坂東三津五郎(ばんどうみつごろう)(さんだいめばんどうみつごろう)を思(おも)わせる似顔(にがお)で描(えが)かれています。 コマ絵(え)に描(えが)かれているのは富士山(ふじさん)をはじめとした沼津宿(ぬまづしゅく)周辺(しゅうへん)の山々(やまやま)と、千本松原(せんぼんまつばら)(せんぼんまつばら)であると考(かんが)えられます。千本松原(せんぼんまつばら)とは、画面(がめん)右端(みぎはし)に見(み)える沼津城(ぬまづじょう)の南(みなみ)の海岸(かいがん)沿(ぞ)いに松(まつ)が植林(しょくりん)されている、その一帯(いったい)の呼称(こしょう)です。
双(そう)筆(ひつ)五十三次(ごじゅうさんつぎ) 沼津(ぬまづ)
白酒(しろざけ)と書(か)かれた扇(おうぎ)を手(て)に持(も)った女性(じょせい)が酒樽(さかだる)の前(まえ)に立(た)っています。この女性(じょせい)は白酒(しろざけ)売(う)りの姿(すがた)を表(あら)わしています。白酒(しろざけ)はこの辺(あた)りの名産(めいさん)品(ひん)として知(し)られていました。 酒樽(さかだる)に「富士(ふじ)の白酒(しろざけ)」とあるように、コマからはみ出(だ)すほどの大(おお)きな富士山(ふじさん)が描(えが)かれています。原宿(はらじゅく)が描(えが)かれる際(さい)はこのような画面(がめん)から富士(ふじ)のはみ出(で)た表現(ひょうげん)が頻繁(ひんぱん)にみられます。
双(そう)筆(ひつ)五十三次(ごじゅうさんつぎ) はら