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江の島の歴史
江の島歴史年表
江の島散策マップ
江の島の文化財
江の島を訪れた人々
資料種類しりょうしゅるい(大分類だいぶんるい):
資料種類しりょうしゅるい(中分類ちゅうぶんるい):
資料種類しりょうしゅるい(小分類しょうぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(大分類だいぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(中分類ちゅうぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(小分類しょうぶんるい):
作者さくしゃ(50音分類おんぶんるい):
作者さくしゃ:
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製作時期(せいさくじき):明治(めいじ)8年(ねん)。 板元(はんもと):山清(やませい)(山崎屋清七(やまざきやせいしち)) 藤川宿(ふじかわしゅく)の東(ひがし)にある山中村(やまなかむら)の景色(けしき)を描(えが)いています。 山中村(やまなかむら)は麻(あさ)を用(もち)いて作(つく)った道具(どうぐ)類(るい)が名物(めいぶつ)で、画中(がちゅう)でも道(みち)の両側(りょうがわ)に店(みせ)が並(なら)んでいるのが見(み)えます。 簡素(かんそ)な建物(たてもの)が並(なら)び、江戸時代(えどじだい)と変(か)わらぬ景色(けしき)に見(み)える村(むら)にも、電信柱(でんしんばしら)が設置(せっち)されています。 三代広重(さんだいひろしげ)描(えが)くこのシリーズは、明治(めいじ)前期(ぜんき)の東海道各宿駅(とうかいどうかくしゅくえき)の風景(ふうけい)が華(はな)やかな色彩(しきさい)(幕末(ばくまつ)から明治初期(めいじしょき)に海外(かいがい)からあざやかな科学顔料(かがくがんりょう)が入(はい)り使用(しよう)される)で描(えが)かれています。
東海(とうかい)名所(めいしょ) 改正(かいせい)道中(どうちゅう)記(き) 四十(よんじゅう)一(いち) 藤川(ふじかわ) 山中(やまなか)の里(さと)
製作時期(せいさくじき):明治(めいじ)8年(ねん)。 板元(はんもと):山清(やませい)(山崎屋清七(やまざきやせいしち)) 突然(とつぜん)の雨(あめ)に降(ふ)られたのでしょうか、画面上部(がめんじょうぶ)を覆(おお)う黒(くろ)い空(そら)には稲光(いなびかり)が走(はし)り、あぜ道(みち)の街道(かいどう)を行(い)きかう人々(ひとびと)は急(せ)いたように道(みち)を走(はし)り出(だ)す様子(ようす)が描(えが)かれています。 三代広重(さんだいひろしげ)描(えが)くこのシリーズは、明治(めいじ)前期(ぜんき)の東海道各宿駅(とうかいどうかくしゅくえき)の風景(ふうけい)が華(はな)やかな色彩(しきさい)(幕末(ばくまつ)から明治初期(めいじしょき)に海外(かいがい)からあざやかな科学顔料(かがくがんりょう)が入(はい)り使用(しよう)される)で描(えが)かれています。
東海(とうかい)名所(めいしょ) 改正(かいせい)道中(どうちゅう)記(き) 四十(よんじゅう) 赤坂(あかさか) 縄手道(なわてみち)の夕立(ゆうだち)
製作時期(せいさくじき):明治(めいじ)8年(ねん)。 板元(はんもと):山清(やませい)(山崎屋清七(やまざきやせいしち)) 三代広重(さんだいひろしげ)描(えが)くこのシリーズは、明治(めいじ)前期(ぜんき)の東海道各宿駅(とうかいどうかくしゅくえき)の風景(ふうけい)が華(はな)やかな色彩(しきさい)(幕末(ばくまつ)から明治初期(めいじしょき)に海外(かいがい)からあざやかな科学顔料(かがくがんりょう)が入(はい)り使用(しよう)される)で描(えが)かれています。 御油(ごゆ)は、姫(ひめ)街道(かいどう)と鳳来寺(ほうらいじ)への参道(さんどう)との分岐点(ぶんきてん)で、交通(こうつう)の要所(ようしょ)として賑(にぎ)わっていました。次(つぎ)の宿場(しゅくば)が近(ちか)いため、旅人(たびびと)を引(ひ)き留(と)める飯盛女(めしもりおんな)が大勢(おおぜい)いたことでも知(し)られています。店先(みせさき)の旗(はた)には、広重(ひろしげ)の名前(なまえ)が書(か)かれています。
東海(とうかい)名所(めいしょ) 改正(かいせい)道中(どうちゅう)記(き) 三(さん)十九(じゅうく) 東(ひがし)入口(いりぐち)国(くに)すし 御油(ごゆ) 赤坂(あかさか)迄(まで)十(じゅう)六(ろく)丁(ちょう)
製作時期(せいさくじき):明治(めいじ)8年(ねん)。 板元(はんもと):山清(やませい)(山崎屋清七(やまざきやせいしち)) 豊川橋(とよがわはし)とは、吉田大橋(よしだおおはし)のことで東海道(とうかいどう)の三大橋(さんおおはし)にあげられます。 吉田宿(よしだしゅく)は城下町(じょうかまち)として非常(ひじょう)に栄(さか)えましたが、明治(めいじ)2(1869)年(ねん)に豊橋(とよはし)と改称(かいしょう)しました。 三代広重(さんだいひろしげ)描(えが)くこのシリーズは、明治(めいじ)前期(ぜんき)の東海道各宿駅(とうかいどうかくしゅくえき)の風景(ふうけい)が華(はな)やかな色彩(しきさい)(幕末(ばくまつ)から明治初期(めいじしょき)に海外(かいがい)からあざやかな科学顔料(かがくがんりょう)が入(はい)り使用(しよう)される)で描(えが)かれています。 豊川(とよかわ)橋(ばし)は、吉田(よしだ)宿(やど)にあった吉田(よしだ)大橋(おおはし)のことで、東海道(とうかいどう)の名所(めいしょ)のひとつでした。吉田(よしだ)宿(しゅく)は城下町(じょうかまち)として栄(さか)えていましたが、明治(めいじ)2年(ねん)(1869)に豊橋(とよはし)と改称(かいしょう)しました。 初代(しょだい)広重(ひろしげ)の「五十三次(ごじゅうさんつぎ)名所図会(めいしょずえ) 三十五 吉田(よしだ) 豊川(とよかわ)大(おお)はし」(通称(つうしょう):竪(たて)絵(え)東海道(とうかいどう))と同(おな)じ構図(こうず)ですが、三代(さんだい)広重(ひろしげ)の作品(さくひん)では洋装(ようそう)の人々(ひとびと)や人力車(じんりきしゃ)が橋(はし)を渡(わた)る様子(ようす)が描(えが)かれており、時代(じだい)の変化(へんか)を感(かん)じさせます。
東海(とうかい)名所(めいしょ) 改正(かいせい)道中(どうちゅう)記(き) 三(さん)十(じゅう)八(はち) 豊橋(とよはし) 豊川(とよかわ)の大(おお)はし
製作時期(せいさくじき):明治(めいじ)8年(ねん)。 板元(はんもと):山清(やませい)(山崎屋清七(やまざきやせいしち)) 三代広重(さんだいひろしげ)描(えが)くこのシリーズは、明治(めいじ)前期(ぜんき)の東海道各宿駅(とうかいどうかくしゅくえき)の風景(ふうけい)が華(はな)やかな色彩(しきさい)(幕末(ばくまつ)から明治初期(めいじしょき)に海外(かいがい)からあざやかな科学顔料(かがくがんりょう)が入(はい)り使用(しよう)される)で描(えが)かれています。 本図(ほんず)は三代(さんだい)広重(ひろしげ)の師匠(ししょう)である初代(しょだい)歌川(うたがわ)広重(ひろしげ)が晩年(ばんねん)に手掛(てが)けた竪(たて)絵(え)東海道(とうかいどう)と同(おな)じ構図(こうず)をとっています。 浜名湖(はまなこ)の東側(ひがしがわ)、舞坂(まいさか)の渡(わた)し場(ば)近(ちか)くを描(えが)いています。手前(てまえ)に見(み)える杭(くい)は波除(なみよけ)と思(おも)われます。 画面(がめん)中央(ちゅうおう)にそびえる小高(こだか)い山(やま)は、実際(じっさい)にはなく、創作(そうさく)で描(えが)かれたものです。
東海(とうかい)名所(めいしょ) 改正(かいせい)道中(どうちゅう)記(き) 三十四(さんじゅうよん) 今切(いまぎり)海上(かいじょう) 舞坂(まいさか) あらい迄(まで)渡舩(わたりぶね)一里(いちり)
製作時期(せいさくじき):明治(めいじ)8年(ねん)。 板元(はんもと):山清(やませい)(山崎屋清七(やまざきやせいしち)) 三代広重(さんだいひろしげ)描(えが)くこのシリーズは、明治(めいじ)前期(ぜんき)の東海道各宿駅(とうかいどうかくしゅくえき)の風景(ふうけい)が華(はな)やかな色彩(しきさい)(幕末(ばくまつ)から明治初期(めいじしょき)に海外(かいがい)からあざやかな科学顔料(かがくがんりょう)が入(はい)り使用(しよう)される)で描(えが)かれています。 秋葉山(あきはさん)を背景(はいけい)に、二瀬川(ふたせがわ)を渡(わた)る人力車(じんりきしゃ)が描(えが)かれています。人力車(じんりきしゃ)には、帽子(ぼうし)をかぶった男性(だんせい)が洋(よう)傘(かさ)をさして乗(の)っています。鳥居(とりい)をくぐると、火除(ひよ)けの信仰(しんこう)で有名(ゆうめい)な秋葉(あきは)神社(じんじゃ)のある秋葉山(あきはさん)へ向(む)かう秋葉(あきは)道(みち)へと続(つづ)きます。
東海(とうかい)名所(めいしょ) 改正(かいせい)道中(どうちゅう)記(き) 二十(にじゅう)九(きゅう) 秋葉(あきは)道(みち)追分(おいわけ) 掛川(かけがわ) 袋井(ふくろい)迄(まで)二(に)り二十(にじゅう)七(なな)丁(ちょう)
製作時期(せいさくじき):明治(めいじ)8年(ねん)。 板元(はんもと):山清(やませい)(山崎屋清七(やまざきやせいしち)) 三代広重(さんだいひろしげ)描(えが)くこのシリーズは、明治(めいじ)前期(ぜんき)の東海道各宿駅(とうかいどうかくしゅくえき)の風景(ふうけい)が華(はな)やかな色彩(しきさい)(幕末(ばくまつ)から明治初期(めいじしょき)に海外(かいがい)からあざやかな科学顔料(かがくがんりょう)が入(はい)り使用(しよう)される)で描(えが)かれています。 猿ケ馬場(さるがばば)は、旅人(たびびと)たちが休憩(きゅうけい)する宿場(しゅくば)と宿場(しゅくば)の間(あいだ)に設(もう)けられた立場(たてば)で、柏餅(かしわもち)が名物(めいぶつ)でした。茶屋(ちゃや)の看板(かんばん)にも、名物(めいぶつ)かしわ餅(もち)の字(じ)が書(か)かれています。
東海(とうかい)名所(めいしょ) 改正(かいせい)道中(どうちゅう)記(き) 三(さん)十(じゅう)七(なな) 猿(さる)か馬場(ばば) 二川(ふたがわ) 豊橋(とよはし)迄(まで)一(いち)り二十(にじゅっ)丁(ちょう)
製作時期(せいさくじき):明治(めいじ)8年(ねん)。 板元(はんもと):山清(やませい)(山崎屋清七(やまざきやせいしち)) 三代広重(さんだいひろしげ)描(えが)くこのシリーズは、明治(めいじ)前期(ぜんき)の東海道各宿駅(とうかいどうかくしゅくえき)の風景(ふうけい)が華(はな)やかな色彩(しきさい)(幕末(ばくまつ)から明治初期(めいじしょき)に海外(かいがい)からあざやかな科学顔料(かがくがんりょう)が入(はい)り使用(しよう)される)で描(えが)かれています。 汐見(しおみ)坂(ざか)から遠州灘(えんしゅうなだ)を眺(なが)めている旅人(たびと)たちの中(なか)には、洋装(ようそう)の男性(だんせい)も描(えが)かれています。白須賀(しらすか)の手前(てまえ)の汐(しお)見坂(みざか)は、有名(ゆうめい)な景勝(けいしょう)地(ち)でした。京都(きょうと)から江戸(えど)への道(みち)では、初(はじ)めて海(うみ)が見(み)える場所(ばしょ)である一方(いっぽう)、江戸(えど)から京都(きょうと)への道(みち)では富士山(ふじさん)の見(み)える最後(さいご)の場所(ばしょ)でもあります。
東海(とうかい)名所(めいしょ) 改正(かいせい)道中(どうちゅう)記(き) 三(さん)十六(じゅうろく) 汐見(しおみ)坂(さか)の景(けい) 白須賀(しらすか) 二川(ふたがわ)迄(まで)一里(いちり)廿(にじゅう)四(よん)丁(ちょう)