Fujisawa Net Museum

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安政(あんせい)元年(がんねん)(1854)

手前(てまえ)に江(え)の島(しま)へ詣(もう)でる三(さん)人(にん)の女性(じょせい)、背景(はいけい)に江(え)の島(しま)・富士山(ふじさん)・小動岬(こゆるぎみさき)を七里ガ浜(しちりがはま)から見(み)た景色(けしき)が描(えが)かれます。画面(がめん)右(みぎ)の女性(じょせい)は日傘(ひがさ)をすぼめて杖(つえ)を突(つ)く仕草(しぐさ)をしており、中央(ちゅうおう)の女性(じょせい)はしゃがんで煙管(きせる)の灰(はい)を落(お)としているようです。左(ひだり)の女性(じょせい)は手拭(てぬぐ)いを姉(あね)さん被(かぶ)りして日傘(ひがさ)を差(さ)すという粋(いき)な様子(ようす)で描(えが)かれています。また中(ちゅう)景(けい)にも、旅人(たびびと)に何(なに)かをねだる子(こ)どもや、牛(うし)に乗(の)って優雅(ゆうが)に浜辺(はまべ)をゆく女性(じょせい)などが描(えが)き込(こ)まれています。
落款(らっかん)に「一(いち)幽斎(ゆうさい) 重宣(しげのぶ)画(が)」とあります。重宣(しげのぶ)は初代(しょだい)歌川広重(うたがわひろしげ)の門人(もんじん)で、安政(あんせい)6年(ねん)(1858)に二代(にだい)歌川広重(うたがわひろしげ)を襲名(しゅうめい)しました。二代(にだい)広重(ひろしげ)は師(し)の画風(がふう)を受(う)け継(つ)いだ作品(さくひん)を残(のこ)しており、本作(ほんさく)にも波(は)の描(えが)き方(かた)などに初代(しょだい)の影響(えいきょう)が感(かん)じられます。

相州(そうしゅう)江(え)のしま詣(もうで)の図(ず)

制作(せいさく)時期(じき):安政(やすまさ)元年(がんねん)(1854)2月(にがつ)。
板元(はんもと):蔦(つた)吉(きち)

これは「鎌倉(かまくら)七里(しちり)が浜(はま)風景(ふうけい)」と対(つい)で、蔦(つた)吉(きち)から出版(しゅっぱん)されたもので中(ちゅう)短冊(たんざく)です。
広重(ひろしげ)は相州(そうしゅう)一番(いちばん)の名所(めいしょ)である江(え)の島(しま)に度々(たびたび)訪(おとず)れて、多(おお)くの作品(さくひん)を残(のこ)しています。広重(ひろしげ)は「武(ぶ)相(そう)旅(たび)絵日記(えにっき)」のスケッチ旅行(りょこう)の際(さい)に江(え)の島(しま)の岩本楼(いわもとろう)に投宿(とうしゅく)し、同(どう)絵日記(えにっき)の第(だい)三(さん)十(じゅう)二(に)景(けい)に「同所(どうしょ)岩本楼(いわもとろう)上(うえ)」、三(さん)十(じゅう)三景(さんけい)に「おとなしく酒宴(しゅえん)」と、岩本楼(いわもとろう)での投宿(とうしゅく)の様子(ようす)を伝(つた)える2回(かい)を残(のこ)しています。
これは広重(ひろしげ)が江(え)の島(しま)を訪(おとず)れるごとに、好(この)んで泊(と)まった岩本楼(いわもとろう)の「富士見(ふじみ)の間(ま)」から描(えが)いた、富士(ふじ)の景(けい)と思(おも)われる一(いち)図(ず)です。

歌川広重 相州江之島眺望

相州(そうしゅう)江之島(えのしま)眺望(ちょうぼう)

安政(あんせい)5年(ねん)(1858)
平安時代(へいあんじだい)に富士山(ふじさん)が噴火(ふんか)した際(さい)に、その溶岩(ようがん)流(りゅう)により形成(けいせい)された空洞(くうどう)である「船津胎内樹型(ふなつたいないじゅけい)」の中(なか)を巡(めぐ)る「胎内(たいない)巡(めぐ)り」の様子(ようす)を描(えが)いています。
富士登拝(ふじとはい)の前日(ぜんじつ)には、胎内(たいない)を巡(めぐ)り、「生(う)まれ変(か)わり」を体験(たいけん)することで身(み)を清(きよ)め、登拝(とはい)に臨(のぞ)みました。白装束(しろしょうぞく)の信者(しんじゃ)たちが、曲折(きょくせつ)した胎内(たいない)を進(すす)んでいくと、奥(おく)には二(ふた)つの空間(くうかん)があります。大日如来(だいにちにょらい)を祀(まつ)る父(ちち)の胎内(たいない)と、阿弥陀如来(あみだにょらい)を祀(まつ)る母(はは)の胎内(たいない)です。
「洞中(どうちゅう)是(これ)よりせば(狭(せば))るる」「此所(このところ)入口(いりぐち)よりもひろ(広(ひろ))し」等(とう)、短冊(たんざく)に胎内(たいない)の様子(ようす)が細(こま)かく書(か)かれ、狭(せま)い産道(さんどう)を身(み)をかがめながら進(すす)む様子(ようす)も描(えが)かれています。
富士山(ふじさん)は古(ふる)くから山岳信仰(さんがくしんこう)の霊山(れいざん)として知(し)られており、江戸時代(えどじだい)中期(ちゅうき)頃(ごろ)には江戸(えど)庶民(しょみん)にも関心(かんしん)が広(ひろ)まります。開山(かいさん)期(き)には講中(こうじゅう)(信仰(しんこう)集団(しゅうだん))による富士登山(ふじとざん)が行(おこな)われ、無病息災(むびょうそくさい)を祈願(きがん)していました。

冨士山(ふじさん)體内巡之図(たいないめぐりのず)

富士山(ふじさん)の五合(ごごう)目(め)から頂上(ちょうじょう)までが、俯瞰(ふかん)的(てき)な構図(こうず)で画面(がめん)いっぱいに描(えが)かれています。ごつごつとした茶色(ちゃいろ)の岩肌(いわはだ)で富士山(ふじさん)を表現(ひょうげん)している点(てん)が特徴(とくちょう)的(てき)で、登山道(とざんどう)には富士講(ふじこう)の人々(ひとびと)の姿(すがた)が細(こま)かく描(えが)き込(こ)まれています。また、主(おも)だった地点(ちてん)や名所(めいしょ)なども事細(ことこま)かに記(しる)されており、富士登山(ふじとざん)の案内(あんない)図(ず)としての役割(やくわり)も兼(か)ね備(そな)えていました。
本作(ほんさく)は、画(が)中(ちゅう)に「登山(とざん)成就(じょうじゅ)時(じ)玉蘭斎(ぎょくらんさい)貞秀(さだひで)写(うつし)」とあり、絵師(えし)の実体験(じつたいけん)を載(の)せた文章(ぶんしょう)が挿入(そうにゅう)されている点(てん)が珍(めずら)しいとされています。一説(いっせつ)には、本作(ほんさく)は貞秀(さだひで)の富士(ふじ)初(はつ)登山(とざん)の際(さい)に描(えが)かれたと言(い)われており、富士山(ふじさん)の山頂(さんちょう)から見下(みお)ろした景色(けしき)に感動(かんどう)した体験(たいけん)が反映(はんえい)されているのかもしれません。

三国(さんごく)第一山(だいいちさん)之(の)図(ず)

制作(せいさく)時期(じき):安政(あんせい)5年(ねん)(1858) 4月(がつ)頃(ごろ)。
板元(はんもと):蔦吉(つたきち)

広重(ひろしげ)の最(さい)晩年(ばんねん)に制作(せいさく)されたシリーズの一(ひと)つとして有名(ゆうめい)な作品(さくひん)です。冨士三十六景(ふじさんじゅうろっけい)シリーズは三亭(さんてい)春馬(しゅんま)の目録(もくろく)付(づけ)で全部(ぜんぶ)で37部(ぶ)となり、江戸(えど)南伝馬町(みなみでんまちょう)の蔦屋吉蔵(つたやきちぞう)から上梓(じょうし)されたもので、安政(あんせい)5年(ねん)4月(がつ)に改印(かいいん)を受(う)け翌年(よくねん)に刊行(かんこう)されています。広重(ひろしげ)の富士(ふじ)に取材(しゅざい)した揃(そろい)物(もの)は、嘉永(かえい)5年(ねん)12月(がつ)改印(かいいん)の「不二三十六景(ふじさんじゅうろっけい)」の揃(そろい)があるにすぎません。
そのどちらもあの有名(ゆうめい)な「冨嶽三十六景(ふがくさんじゅうろっけい)」の北斎(ほくさい)の死後(しご)に刊行(かんこう)されていることは、彼(かれ)が北斎(ほくさい)に敬意(けいい)を表(あらわ)し、また遠慮(えんりょ)したようにも思(おも)えます。

この画面(がめん)は江(え)の島(しま)と富士(ふじ)、七里ガ浜(しちりがはま)を望(のぞ)む袖ヶ浦(そでがうら)あたりです。手前(てまえ)に描(えが)かれている茶屋(ちゃや)は「出口(でぐち)の茶屋(ちゃや)」と呼(よ)ばれ、天保(てんぽう)9年(ねん)頃(ごろ)の紀行文(きこうぶん)『冨士大山道中(ふじおおやまどうちゅう)雑記(ざっき)附(つき)江之嶋(えのしま)鎌倉(かまくら)』にも「袖ヶ浦(そでがうら)茶屋(ちゃや)有(あり)、此(この)所(ところ)にて鎌倉(かまくら)絵図(えず)并(ならびに)名所記(めいしょき)等(など)商(あきな)ふ茶屋(ちゃや)の婦人(ふじん)、絵図(えず)講釈(こうしゃく)を致(いた)す」と記(しる)されています。茶店(ちゃみせ)の軒先(のきさき)には「蔦吉(つたきち)」、「日本(にっぽん)はし」、「魚(さかな)可(か)し」などの札(さつ)が見(み)られます。

歌川広重 冨士三十六景 相模七里が浜

冨士(ふじ)三十六景(さんじゅうろっけい) 相模(さがみ)七里(しちり)か浜(はま)



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