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江の島の歴史
江の島歴史年表
江の島散策マップ
江の島の文化財
江の島を訪れた人々
資料種類しりょうしゅるい(大分類だいぶんるい):
資料種類しりょうしゅるい(中分類ちゅうぶんるい):
資料種類しりょうしゅるい(小分類しょうぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(大分類だいぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(中分類ちゅうぶんるい):
時代じだいと場所ばしょ(小分類しょうぶんるい):
作者さくしゃ(50音分類おんぶんるい):
作者さくしゃ:
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製作(せいさく)時期(じき):文化(ぶんか)8年(ねん)頃(ごろ)(1811)。 板元(はんもと)印(しるし)なし 北斎(ほくさい)は広重(ひろしげ)より30年(ねん)くらい前(まえ)に数種類(すうしゅるい)の東海道(とうかいどう)の揃(そろ)い物(ぶつ)を描(えが)いていますが、実(じつ)は文化(ぶんか)9年(ねん)まで東海道(とうかいどう)を旅(たび)した記録(きろく)はありません。 おそらく名所図会(めいしょずえ)等(など)を基(もと)にして作画(さくが)したものと思(おも)われます。 そのためか景観(けいかん)描写(びょうしゃ)に主眼(しゅがん)を置(お)いた初代(しょだい)広重(ひろしげ)の作品(さくひん)に対(たい)し、旅(たび)や宿場(しゅくば)の風俗(ふうぞく)を描(えが)いた作品(さくひん)が多(おお)く、この作品(さくひん)でも描(えが)かれているのは街道(かいどう)を行(い)く荷役(にやく)とそれに付(つ)きそう宰領(さいりょう)(監督(かんとく)者(しゃ))の姿(すがた)です。 荷役(にやく)の二人(ふたり)のかけ声(ごえ)が聞(き)こえてきそうな動(うご)きのある作品(さくひん)です。
藤沢(ふじさわ)
有山定次郎(ありやまていじろう)は明治期(めいじき)に活躍(かつやく)した石版画(せきはんが)の絵師(えし)兼(けん)画工(がこう)で、多(おお)くの石版(せきはん)作品(さくひん)を残(のこ)しました。本作(ほんさく)は、江(え)の島(しま)を背景(はいけい)に女性(じょせい)を配(はい)したもので、観光客(かんこうきゃく)への土産物(みやげもの)として作成(さくせい)されたものと思(おも)われます。 石版画(せきはんが)は描(えが)く際(さい)の筆圧(ふであつ)や、微妙(びみょう)な筆(ふで)使(づか)いなどが写(うつ)し取(と)れる版画(はんが)技法(ぎほう)であり、背景(はいけい)のぼかしにその技法(ぎほう)の特徴(とくちょう)が表(あらわ)れています。石版画(せきはんが)は、濃淡(のうたん)による遠近感(えんきんかん)の表現(ひょうげん)により水墨画(すいぼくが)の墨(すみ)と近(ちか)い考(かんが)え方(かた)となり、明治期(めいじき)に入(はい)ってきた新技法(しんぎほう)でありながら、すぐに絵師(えし)たちの感性(かんせい)に結(むす)びつくことができた技法(ぎほう)でもありました。
美人(びじん)鏡(かがみ) 江乃(えの)島(しま)
制作(せいさく)時期(じき):明治(めいじ)25年(ねん)(1892)7月(がつ)1日(にち)出版(しゅっぱん)。 画(が)作(さく)兼(けん)発行人(はっこうにん):矢島(やじま)知三郎(ともさぶろう) 画題(がだい)「弁天娘(べんてんむすめ)」とあるとおり、遠景(えんけい)の富士(ふじ)と江(え)の島(しま)を左(ひだり)肩越(かたごし)に見(み)せて窓辺(まどべ)に座(すわ)る芸(げい)伎を弁財天(べざいてん)に見立(みた)てた作品(さくひん)です。 髪(かみ)を島田(しまだ)に結(ゆ)い扇子(せんす)を広(ひろ)げて後(ご)を見返(みかえ)る年若(としわか)い娘(むすめ)の肩(かた)には肩(かた)あげがあります。場所(ばしょ)は片瀬(かたせ)東浜(ひがしはま)あたりの茶屋(ちゃや)の二階(にかい)から見(み)た風景(ふうけい)と思(おも)われます。 この石版(せきはん)画(が)は墨(すみ)一色(いっしょく)で刷(す)り、後(ご)から手(て)彩色(さいしき)した作品(さくひん)で、明治(めいじ)15年(ねん)から25年(ねん)(1882-1892年(ねん))頃(ころ)にかけて流行(りゅうこう)した額絵(がくえ)の一種(いっしゅ)と思(おも)われます。額絵(がくえ)は平均(へいきん)的(てき)に44.7×37.0cmの西洋(せいよう)紙(し)を使(つか)い、35.0×27.0cm程度(ていど)の画面(がめん)に貴顕(きけん)や美人(びじん)、風景(ふうけい)、風俗(ふうぞく)、歴史(れきし)、小児(しょうに)等(など)を画題(がだい)として墨(すみ)一色(いっしょく)で印刷(いんさつ)し、後(あと)で手(て)彩色(さいしき)したもので、一部(いちぶ)色刷(いろず)りするものもあったと言(い)われます。
弁天娘(べんてんむすめ)
白浪五人男(しらなみごにんおとこ)の着(き)ている着物(きもの)の柄(がら)は、それぞれの人物(じんぶつ)が表(あらわ)されており、忠信利平(ただのぶりへい)は神出鬼没(しんしゅつきぼつ)を表(あらわ)す龍(りゅう)、赤星(あかぼし)十三(じゅうざ)(十三郎(じゅうさろう))は明(あ)けの明星(みょうじょう)、南郷力丸(なんごうりきまる)は荒(あら)くれ者(もの)の象徴(しょうちょう)である稲妻(いなづま)と雷獣(らいじゅう)という架空獣(かくうじゅう)、日本駄右衛門(にっぽんだえもん)は小鳥(ことり)を今(いま)にも捕(と)らえんとする猛禽(もうきん)、弁天小僧菊之助(べんてんこぞうきくのすけ)は腕(うで)の彫物(ほりもの)に大(おお)きく菊(きく)の花(はな)が描(えが)かれ、着物(きもの)の柄(え)は雷紋(かみなりもん)が施(ほどこ)されています。この弁天小僧(べんてんこぞう)の雷紋(かみなりもん)は演(えん)じる十三代目(じゅうさんだいめ)市村羽左衛門(いちむらうざえもん)にゆかりある渦巻(うずまき)にアレンジされています。
題名(だいめい)不詳(ふしょう)(『青砥稿花紅彩画(あおとぞうしはなのにしきえ)』より白浪(しらなみ)五(ご)人(にん)男(おとこ))
板元(はんもと)印(しるし)なし 落款(らっかん)、板元(はんもと)印(しるし)ともになく作者不詳(さくしゃふしょう)となっています。極印(ごくいん)が半分(はんぶん)に切(き)られているので、元(もと)の大(おお)きさは現在(げんざい)のものより少(すこ)し大(おお)きかったと考(かんが)えられます。弁才天(べんざいてん)の開帳(かいちょう)を描(えが)いた作品(さくひん)は多(おお)くありますが、表題(ひょうだい)に開帳(かいちょう)の場所(ばしょ)や年(とし)を明記(めいき)している点(てん)が珍(めずら)しい作品(さくひん)です。 また、江(え)の島(しま)では海士(あま)と呼(よ)ばれる男性(だんせい)が鮑(あわび)取(と)りをしていました。多(おお)くの作品(さくひん)で鮑(あわび)取(と)りをしているのは女性(じょせい)として描(えが)かれていますが、この作品(さくひん)では男性(だんせい)の姿(すがた)で描(えが)かれている点(てん)も注目(ちゅうもく)されます。
相州(そうしゅう)江(え)ノ嶋(しま)弁才天(べんざいてん)上下(じょうげ)ノ宮(みや)己巳(つちのとみ)年(どし)御(ご)開帳(かいちょう)繁栄(はんえい)之(の)全(ぜん)図(ず)
制作(せいさく)時期(じき):不明(ふめい) 司馬江漢(しばこうかん)の作(さく)と伝(つた)えられています。 彼(かれ)は天明(てんめい)3年(ねん)(1783年(ねん))に銅(どう)版画(はんが)を作成(さくせい)した画家(がか)として著名(ちょめい)であり、また油絵(あぶらえ)風(ふう)に描(えが)く洋風画(ようふうが)の大家(おおや)でもありました。 彼(かれ)の制作(せいさく)した銅(どう)版画(はんが)に「七里ヶ浜(しちりがはま)図(ず)」(天明(てんめい)7年(ねん))がありますし、また洋風画(ようふうが)にはいくつかの七里ガ浜(しちりがはま)を描(えが)いた作品(さくひん)がありますが、それらの作品(さくひん)は構図(こうず)として低(ひく)い視点(してん)から描(えが)いており、この図(ず)のように鳥瞰図(ちょうかんず)のような視点(してん)の高(たか)さからは描(えが)いておりません。
題名(だいめい)不詳(ふしょう)(七里ガ浜(しちりがはま)地引(じび)き網(あみ))
制作(せいさく)時期(じき):明治(めいじ)29年(ねん)(1896)3月1日(がつついたち)印刷(いんさつ)。 板元(はんもと):松本(まつもと)平吉(へいきち) 月耕(げっこう)には錦絵(にしきえ)の作例(さくれい)は数(すう)種(しゅ)あり、月耕(げっこう)随筆(ずいひつ)シリーズは最(もっと)も有名(ゆうめい)です。 この江(え)の島(しま)参(まい)りもそのシリーズの一(ひと)つで、江(え)の島(しま)参道(さんどう)で一服(いっぷく)しながら七里ガ浜(しちりがはま)の方(ほう)を眺(なが)める二人(ふたり)の美人(びじん)は、明治(めいじ)の明(あか)るさと、伝統(でんとう)の薄(うす)れを同時(どうじ)に併(あわ)せもつ感(かん)を与(あた)えます。
月耕(げっこう)随筆(ずいひつ) 江(え)の嶌(しま)参(まい)り
制作(せいさく)時期(じき):天保(てんぽう)11年(ねん)(1840)。 板元(はんもと):萬重(まんしげ) 団扇(うちわ)絵(え)として描(えが)かれたもので『源氏物語(げんじものがたり)』の見立(みたて)絵(え)で、右(みぎ)の婦人(ふじん)の手(て)にすがる童子(どうじ)を源氏(げんじ)の君(きみ)に見立(みた)て、光(ひかり)の君(きみ)が宮廷(きゅうてい)における勢力(せいりょく)を失(うしな)い、須磨(すま)に退却(たいきゃく)する、「須磨(すま)」の巻(まき)になぞらえています。 浮世絵(うきよえ)では、源氏(げんじ)が3月(がつ)上巳(じょうし)の日(ひ)に須磨(すま)の海(うみ)の祓(はら)いに行(い)った時(とき)に襲(おそ)われた場面(ばめん)を描(えが)くことが多(おお)いのですが、ここでは場所(ばしょ)を江(え)の島(しま)に設定(せってい)しているところが興味深(きょうみぶか)く、江(え)の島(しま)の開帳(かいちょう)が3月(がつ)上巳(じょうし)の日(ひ)に関(かん)することが多(おお)いことに由来(ゆらい)すると考(かんが)えられます。
見立(みたて)浮世(うきよ)源氏(げんじ)相州(そうしゅう)江(え)之(の)嶋(しま)須磨(すま)